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自室の寝台の中、胎児のように身体を丸めて縮こまるのは、私にとって慣れたものでした。まるで母の胎内にいるかのように、ここだけは安全なのだと思いたくて。
これもまた、十年前と同じです。
懐妊を待ち望んで。その後は男の子であることを祈って。更に後では子供のせいで殺される恐怖に怯えて。
かつてと違うのは、あの頃は一縷の希望とはいえ助かる望みがあったということ。夫を満足させられるような王子さえ捧げることができたなら、私の命は繋がれたのです。
でも、今の状況は、あの頃よりもなお悪い。
私は既に罪を犯した罪人です。夫が召されるのを見送るべき時に、安らかな旅立ちを整えるべき時に、恐怖に駆られてその死を汚してしまったのです。かつての私は咎なくして殺されることを恐れていましたが、今の私に死が与えられるとしたら、罪に見合った罰なのでしょう。
でも、それは果たして本当に罪なのでしょうか。あの時、私は本当に殺されると思ったのです。命を狙われているに違いないという陛下のお怒りは、妻である私にさえも向けられているようでした。魂を削る思いでお腹の子供がもたらす悪夢に耐えてきた私に対して、あまりの仕打ちではないのでしょうか。
それに、陛下はどの道深い傷を負っていらっしゃいました。私が何もせずとも、数刻と息をすることはできなかったはず。それをほんの少し早めただけなのに。ああ、それならば私は黙って見ているべきだった。
いいえ、やはり私は間違っていない。陛下は前の王妃様たちも無残に殺した酷い方。貴い国王様だからといって報いを受けないはずがない。
それに、だって、女王様はご立派に国を治めていらっしゃるではないですか。王子なんていらなかった。間違っていたのは男の子なんかにこだわった陛下の方――
罪が、いずれ訪れる罰が怖い。死ぬのが、殺されてしまうのが恐ろしい。でも私は裁かれる時を待つしかない。
「太后様――」
と、その時。
出口のない恐怖に囚われて、ぐるぐると同じ考えを巡らせ続ける私の耳に、扉の外から声が聞こえました。侍女の声です。控えめで、信用できる者のはずなのに、今の私には無情な刑吏のそれのように響きました。
「太后様。王子殿下がお見えです」
私はひ、と喉の奥で悲鳴を上げると、寝具を引き寄せて一層小さく身体を縮めました。
「なぜ。一体何をしに来たの」
逃げ出したのが良くなかったのだろうか、と思ってしまいます。あの子は、私を動揺させるつもりだったのでしょうか。父の仇などと口にして、私が顔色を変えたから。だから、疑いを確信に変えたということなのでしょうか。
「母上、申し訳ありませんでした。謝らせてください。どうか扉を――」
侍女よりも下の位置から聞こえる王子の声は、いかにも殊勝げで、だからこそ恐ろしいものでした。この子は、どのようにすれば大人の同情を買うことができるか知っているのです。先ほどの晩餐での席の、あの血に酔ったような顔を見て。根絶やしだと楽しそうに叫んだ声を聞いて。どうしてか弱い子供だと信じることができるでしょう。
「いやよ。来ないで。誰に言われて来たの!?」
「あの者――父上の侍女が。その、私が喋り過ぎたからだと」
また、あの女です。やはり謝ろうというのではなく、何かを吹き込まれてきたのでしょう。扉の外にいるのは私の子などではなく、何か恐ろしい怪物であるかのように思えました。物語ではよく出てくるではないですか。優しい声で誘っておいて、それで油断して扉を開けたら襲いかかってくる化け物が。
「早く王になるのだと、父上のように強くなるのだと、励んでいて――だから、母上にも認めていただきたかったのです。だから、あのような大言を吐いてしまいました」
本当に申し訳ありません。そう繰り返す子供の声を、私は耳に入れまいとして叫びました。
「血を流して殺したのを誇るなんて恐ろしい! 褒めるようなことではありません! 第一、姉上様が、女王様がいらっしゃいます! あなたが父上のようにならずとも良いのです」
「でも、王は強くなければ……。姉上は姫君でいらっしゃるから、私が重荷から解いて差し上げるのです。そう、皆が言うのです……」
必死さを装った声が言い募るのを聞いて、あの女の狙いが分かった、と思いました。
あの女も、女の王を不足だと考える一派のひとりなのでしょう。ただ、夫君を送り込んで女王様や王女様を操ろうというのではなく、たったひとりの王子に目をつけたのです。父親の思い出話で釣って懐かせる一方で、母である私への疑いを吹き込んで。女王様たちの側に立つ私は、あの者たちにとっては邪魔でしょうから。あの女は、私を追い詰めるのに最適の時を、十年前からずっと待っていたのでしょう。
それでも、仮にも前の王の妻、次の王の母を告発するには、元侍女の証言ひとつでは弱い。だから、王子を利用しようというのです。会ったことのない父を慕っているのを良いことに、王たる者はこうあれ、父上様はこうだったと、都合の良いことを教え込んでいるに違いありません。
「早く母上や姉上たちをお守りできるようになりたくて、それで――」
「太后様……せめて、お顔をお出しになるだけでも」
王子の声が泣いているように湿ったところへ、侍女の執り成すような声が被ります。ああ、この者は子供の泣き顔に騙されて絆されてしまっているのでしょう。でもそれも無理もないこと。先ほどの――陛下が蘇ったかのような表情を見た私、この子に殺されるのではと怯えている私でさえも、息子のしゃくり上げるような声には心を動かされてしまうのですから。
「……気分が悪いのです。人前に出られる顔ではありません」
「ですが、ご自身の御子様ではありませんか」
侍女の声に懇願されて、扉へと足が進みそうになります。けれど、本当に一歩を踏み出すことは中々できませんでした。
「母上、どうか……」
王子の声も弱々しく、本当に許しを求めているかのよう。でも、それさえも振りなのかもしれないのです。まんまと乗せられて扉を開けたら、あの恐ろしい陛下の顔で、剣を突きつけているのではないでしょうか。それとももう兵が詰めかけているとか。侍女だって脅されて言わされているのかも。
ああ、でもそれならば扉など破ってしまえば良いのかしら。ならば私はまた無駄に怯えているのかしら。それともこの一幕さえも、私を揺さぶって決定的な証拠を言わせようという狙いがあるとか?
「母上……」
分からない。縋るような声が求めるままに、扉を開けてしまって良いのか。あの女は何を企んでいるのか。王子は操られているだけなのか、父親の執念に囚われているのか。まさか、言葉通りに母に――私に褒めて欲しいだけだなんてことは。あるはずがない。
分からない以上は――迂闊に動いてはならないのでしょう。かつての私がしていたように、息を潜めてやり過ごすのが正しいはずです。
扉を開けてはならない。そう、思うのに。気付けば手が掛け金に掛かっていました。決して誰も私を脅かすことのないよう、しっかりと扉を閉ざしてくれているものなのに。
掛け金を外す、かちゃり、という音。ついで、扉を開く時の蝶番の軋む音。それらの音さえ聞こえないほど、私の心臓は早鐘のように打ち、こめかみの辺りを流れる血管の脈動が頭を痛くさせるほどです。
扉の外に待ち構えているのが何ものなのか、私はそれほどに恐れていました。陛下の亡霊が、あの最期の時のような顔で立ちふさがっているのではないか。剣や斧を構えた処刑人が呼ばれているのでは。それかもっと悪いもの、もっと想像もつかないほどにおぞましい姿をした怪物なのでは?
でも――
「母上……!」
叫ぶなり飛びついてきたのは、ただの子供でした。十歳の、まだ母の背丈にも届かない子。母に扉を閉ざされて涙を流していた子。
「申し訳ありませんでした……! 母上を、怖がらせるつもりでは――」
「良いのですよ……まだあなたは小さいのだから」
呆然と呟きながら、私はふと気付きました。思えば乳母や臣下に任せきりで、私はこの子を抱きしめたことなどありませんでした。あの夜の翌朝に、王女様から受け取った時の気味の悪さが忘れられなくて。陛下を思い出すのも怖くて。
それなのに、この子は私を母と慕っていたというのでしょうか。あり得ない、おかしいと思う一方で、王子はしっかりと私に抱きついています。剣を振り回す姿を遠くに見ては、嫌だ怖いと思っていたのですが、背中に手を回してみればまだまだ薄く細くて。陛下の恐ろしいほどの強さとはほど遠い、幼くて弱い、ほんの子供だと分かります。
これならまだ間に合うかもしれない。息子の温もりをほとんど初めて感じながら、私はそう思いました。