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「お前……どうしてここに……」
全身の血が凍るような恐怖を覚えて――私が言葉を取り戻すまでに、一体何十秒が経ったのでしょうか。辛うじて紡ぎ出した声は掠れ、震えていましたが、問いを受けた女は、私の動揺になど気づかぬかのように穏やかな表情を保っていました。あるいは気づかない振り、なのかもしれませんが。
「王太子殿下が父君を偲ぶためにかつてお仕えした者を傍に置きたい、とのことでしたので――お目汚しではございますが参上いたしました」
「そう、なの……」
淡々と述べた女の物言いを、私はとんでもない無礼だと感じました。
確かに私が夫に仕えた時間はごく短いものです。しょせん六人目の妻ですから、あの方のことを何でも知っているなどとは口が裂けても言えません。でも、こんな――侍女風情が、どうして知った顔をしてしゃしゃり出て来ることができるのでしょうか。この女は、私の知らない何を知っているというのでしょうか。
いえ、そのようなことは問題ではない。もっと気に懸けるべきは息子は実の母ではなくこの女を頼ったということ。
そうと気付くと、脳が灼けるような怒りは瞬時に冷めて、私の心も身体もまた恐怖に囚われます。
「さあ殿下、早くお召しかえを。母君様へのご報告はその後ですよ」
「分かった! 早くしよう!」
珍しく聞き分けの良い息子が、女に手を引かれてお城へと入って行きます。晒された生首の虚ろな目を怖がる気配がないのは、背丈が小さくて気付かないからなのでしょうか。それとも、狩りの獲物を誇るように、罪人の首も何か強さを示す証だとでも思っているのでしょうか。そんなところも、息子は夫によく似ています。
私よりあの女を選ぶところも。
十年ぶりに現れた女は、私の子に、何を教えようというのでしょうか。
そしてその後ほんの数日の間に、あの女は王子の心をすっかり虜にしたようでした。
王子はまだほんの小さな子供ですから、あの女の容色が衰えていることなど関係ないのでしょう。むしろ、何かと姉君様たちを立てるようにと厳しく言い聞かせる私より、甘やかすあの女の方が母親気取りででもあるかのようです。
私は息子を取られたなどと妬んでいるのではありません。そもそも大して可愛くない子ですから、面倒を代わってくれたと思っても良いくらいです。ただ、何というか――あまりにもかつての絵面と似た状況に、あの頃のような息苦しさを感じてしまって、我が子が一層恐ろしくなってしまうのです。あの頃のように、あの子のせいでとてもひどいことが起きるような不安に襲われてしまうのです。
十年前、あの女は大きなお腹を抱えて身動き取れない私を他所に、夫に上手く取り入っていました。夫に侍って得意げに浮かべた笑みの、何と輝かしく呪わしかったことか。私を廃した後、あの女こそ次の王妃に収まるのではないかという妄想に囚われるほどに。息子が相手ではそのようなことはありえませんし、今の国王陛下は女王様です。あの女が付け入る隙などないはずなのに。
絶対にありえない。あの女に怯える必要はない。そう言い聞かせようとして――でも、私の胸の片隅で、油断するな、と囁く声がするのです。
私はあの夜のことをよく覚えていません。亡くなった陛下の鬼気迫る恐ろしいお顔、掴まれた手の痛み、枕の感触。破水の痛み。いずれも生々しく記憶に刻まれているのに、その後どうなったか、が曖昧なのです。姫様たちも侍女たちも召使も、何もなかったかのように私を優しくいたわってくれたので、全て悪い夢ではなかったのかと思うほどです。
でも、いまだに残る陛下の爪痕――呼吸を求めて私の手を抉った傷が、あれが現実にあったことだと教えてきます。ならば、私は実際に叫んだのでしょう。瀕死の夫に、早く死ねと。
あの女は、陛下のお部屋のすぐ外に控えていたはず。私の叫びは、あの女の耳にも届いていたのでしょうか。王への殺意を聞いていながら、あの女は黙っていて――十年も経った今になって、一体何をしようというのでしょうか。
「弟があんなにお父様を慕っているなんて不思議ですわ。お顔を見たこともないのに。……だからこそ、なのでしょうか?」
幾つもの疑問に悩まされて顔色の悪い私を心配して、妹姫様がお見舞いにきてくださいました。あんな子でも可愛がってくださるこの方は、おっとりと微笑みながら首を傾げます。
もちろん王女様は何もご存知ないのですが、あの子は母が父を殺した瞬間に生まれ落ちたのでした。だからあの子は父の顔を知らないのです。そのことを――自身の罪を――思い出させられて、私の心はまた一段と沈み込みます。
「私やお姉様では役に立ってあげられなくて残念でした。男の子にとって父親とはやはり特別なものなのでしょうね」
「王女様は、お父様が恋しくはないのですか」
王女様のどこか醒めたような言い方こそ不思議でした。父を知らない息子が哀れだというなら、父君を知りながら死に別れたこの方こそお気の毒に思えますのに。
「さあ、お父様はどこか遠いようで……恐ろしい方でもいらっしゃいましたし」
「あ……申し訳ありません……!」
優しげな微笑みによぎった影に、私は慌て、迂闊な言葉を後悔しました。この方のご生母様は亡くなった陛下によって死を賜ったのです。ご自身も長く冷遇されていらっしゃいました。当たり前の父娘のような愛情など、ある方がおかしいような扱いだったのです。
それでも、このように愚かな私に対して、王女様は励ますような言葉をかけてくださいました。
「いいえ、お義母様がいらっしゃってからは楽しいことも増えましたから。お姉様もきっと同じお心ですわ」
十年前を蘇らせるのは、あの女や陛下の影の恐ろしさだけではありませんでした。女王様や王女様の温かいお心やお言葉もまた、昔と変わらず私を支えてくれるようです。周りが敵だけではないと知ることができるのは、私にとっては数少ない慰めでした。
その日の晩餐は、王子が狩りから持ち帰った鹿が主菜として供されました。数日の日を置いたことで、やっとほど良い具合に熟成したということです。
獲物といっても動けなくなるまで追い詰めたのは伴の者たちで、王子は身動き取れない鹿に止めを刺しただけだったということですが。とにかく息子にとっては初めての大物で、帰った時の興奮ぶりはそのためだったようでした。
「倒れたとはいえ、こいつは角で私を突き刺そうとしたのです。ですが私はその動きを見切って、短剣で首を掻き斬ってやりました!」
その場面を思い出してでもいるのでしょうか、焼いた肉を小刀で切りつけながら叫ぶように語る王子は興奮しているようで、聞き手の私や姉君たちの顔色が悪いのに気付いていないようでした。
「それは勇ましいことでした」
女王様が完全に手を止めてしまっても、王子の武勇伝は終わりません。
「熱い血が吹き出て、まるで赤い雨のようだったのです。とても鮮やかな色が美しいほどで――戦いで勝つということは、きっとあのように心躍るものなのでしょう」
とても残酷なことを、うっとりと夢見るような目つきで語る息子にぞっとしながら、私はその口を黙らせようと口を挟みました。できるならば優しい心を持つようにと願いながら。
「鹿とはいえ親や子や妻もいたかもしれないでしょう。命をくれたことに感謝こそすれ、殺したのを誇るようなことをしてはいけません」
「ですが、母上」
ああ、でも。やはりこの子は私の言葉には耳を貸してくれません。唇を尖らせて反論してくるこの表情を、一体何度眺めたことでしょう。
「今回の狩場は父上が最後に訪れた森でした。だから、父上の仇討ちです。王を殺した不忠者を、懲らしめてやったのです!」
「あれはもう十年も前のことです。同じ鹿が生きているはずはありません」
いっそ得意げな表情で、王子はですが、と繰り返しました。物分りの悪い女に言い聞かせてやるとでも言うかのよう。
「それこそ子や孫はいるはずでしょう。大罪人は一族もろとも滅ぼすのが王の務め、なのでしょう? 相手が獣だろうと同じなのではないですか!? 大きくなったら、あの森の鹿を根絶やしにしてやるつもりです!」
がた、と椅子が倒れる音が響きました。それは急に立ち上がったことで私が立てた音。でも、私の耳にはどこか遠い世界のもののように響きました。
ただ、もう限界だと思ったのです。私のお腹から出てきたという子が、父親にそっくりになっていくのを見るのも。笑いながら殺すことを語るのを聞くのも。――私の罪を思い出させられるのにも。
「――気分が悪い。退出させていただきます」
口元を抑えて、衣装の裾を翻して部屋の扉を目指すと、侍女たちが慌てて追いすがる気配が背中に感じられました。ああ、女王様や王女様はどのようなお顔をなさっているのでしょう。でも、もう限界だったのです。
私の耳には陛下のお声が蘇っていました。
――あの鐙……! あれをやった者も探し出すのだ。地の果てまでも追い詰めて、引き裂いて……余と、余の血筋を脅かすことのないように……!
あの自身を脅かすものへの残酷さ、執念深さはみごとに息子に受け継がれました。だってあの子はお腹の中で、すぐにも生まれ出てようと待ち構えている時にあの声を聞いていたのです。陛下の妄執を間近に浴びて、その狂気に染め上げられたに違いありません。
あの女の目的が、今こそ分かりました。あの女はやはり私の罪を知っていて、見逃す気などないのです。王子に父の非業の死を、その犯人を吹き込んで、私を裁かせようというのでしょう。
王子は母である私よりも会ったこともない父を慕っています。父の仇などと言って、喜んで鹿を嬲り殺すのも、あの女に懐くのもその証拠です。あの夜、あの子はお腹の中でひどく動いて、私の邪魔をしようとしたのです。
鹿の首を掻き斬ってやったと、王子は言いました。もしもあの子が真実を知ったら――父を殺したのが私だと知ったら。
私は自分の罪から逃れられないのでしょうか。