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 それから何日かの間、私は部屋の中から嵐を眺めるように、王宮の騒々しさをただ傍観していました。例によって胎児のために、私の心を乱すことを誰も敢えて耳に入れようとはしなかったのです。王女様たちでさえ、誰に何を言い含められているのか、私のお見舞いには訪れてくださいませんでした。

 それでもなお、いつしか私は事件の全容を知っていました。




 見事な角ぶりの雄鹿を見つけた陛下は、私の――私のお腹の子のためにと獲物にしようとなさいました。王であり父であるご自身が仕留めるから、他の者は手を出すなと仰って。

 陛下のお手並みは誰もが知るところですから、伴の者たちは言われた通りに陛下が鹿と対峙するように場を整えました。陛下は槍を構えて――鹿に向けて馬を突進させようと、力を入れた瞬間。鐙が切れてしまったのです。加速に備えて体勢を前のめりにしていた折りのこと、陛下は身体の均衡を崩してあえなく落馬されてしまったということでした。

 伴の者はもちろん、怯えながら怒り、興奮していた雄鹿も驚いたのでしょう。本能的にか逃げようと駆け出して――その蹄が、鋭い角が、落馬の衝撃で身動き取れない陛下を襲ったのです。




 そのようなことを、私は誰にともなく聞きました。お腹を抱えて見下ろす窓辺で、庭師たちの噂として。扉に耳を近づければ、身の回りの世話をする召使や侍女たちもその話で持ちきりです。陛下の頭蓋は鹿に蹴り砕かれてひしゃげていたのだとか、いや、角がお腹を破って内蔵がはみ出していたのだとか。寝台へお運びする担架が通った後は、血の足跡が印されていたとか。――そのような、素晴らしく喜ばしい報せを、沢山。


 私が聞いていることに気付いて慌てて逃げたり、陛下は快復なさいますなどと気休めを言ったりする者もいました。悲しみのあまりにお腹の子が流れたりしないように、でしょうか。そのような気遣いは無用なのに。

 私は今、婚礼から懐妊に至るまで私を捉え続けた恐怖から解放されて、最も安らかな心持ちにいたのです。


 陛下はもう助からないのでしょう。王宮内がこれほどに慌ただしく、誰もが暗い顔をして悪い噂ばかりを口にするからには、そうなるということなのでしょう。


「もう少し、頑張ってね……?」


 はちきれんばかりに膨らんだお腹に向かって、私は優しく話しかけます。恐ろしい陛下さえいなければ、この子が男の子だろうと女の子だろうと私が殺されることはないでしょう。陛下が死ぬまでこの子が生まれなければ良いのです。陛下も待望の王子が生まれると希望を持ったまま逝かれた方が良いに決まっています。


 私はやっと、当たり前の母親のように子供の誕生を喜ぶことができるようになったのです。夫の死と引き換えにではありましたけれど。




 陛下のお部屋にお召しを受けた時、私はやっとだ、と思いました。やっと臨終の時が来たのでしょう。身重の私を呼び出すからには、その時に違いありません。

 あんなに恐ろしかった陛下のことももはやお気の毒なだけ。重いお腹を抱えたままでも、私の足取りは羽のように軽やかで。

 扉の前に控えていたのがあの侍女なのも、憔悴して()けた頬や乱れた(うなじ)の後れ毛が妙に艶っぽいのも、今となってはどうでも良いことです。


 部屋に一歩足を踏み入れると、血と膿の臭いが満ちていました。お腹の子供が不快げにぐるりと蠢きます。

 寝台に横たわる陛下のお腹には包帯が巻かれて――でも、滲み出る血で汚れていました。鹿の角がお腹を突き破ったという噂は本当だったのかもしれません。血と死は、私にとっては悪夢で見慣れた光景。夢にはなかった悪臭に閉口しつつも、だからそれほど恐ろしいとは思わずに私は陛下の枕元に近づきました。そう、結局のところ、死んでいくのは私ではなく陛下なのです。


「妃よ――」

「はい、こちらに」


 陛下のお声すらも弱々しく、半ばこの世を離れて影の国にいるかのようでした。お腹の子は王子に決まっている、と。私を怒鳴りつけた時にはあんなに大きく張りがある声で、雷に打たれたような思いがしましたのに。


「胎の子は……元気か……」

「はい、とても」


 だから、今となっては陛下のお手に触れて、お腹に導くことさえ、私は躊躇いなくできました。陛下のお手はどす黒く変色して、生きながら腐っているかのよう。死んだ人の手のよう。もう死んでしまった人のことなど、何も怖くはありません。


「お気を確かにお持ちくださいませ。王子には父親が必要です」


 だから、そのようなことを言ったのも、ただの気休めのつもりでした。臣下たちが無責任に言い放っていたおべっかと同じ、ただ気持ちよく逝っていただきたいというだけのことだったのです。


「おお……そうだ……その通りだ……!」

「ひっ!?」


 けれどその一言で陛下は生き返ったかのように力を取り戻しました。今にも瞑ってしまいそうだった目は爛々と見開かれ、私の手を握りつぶさんばかりに強く掴み。私のお腹に頬擦りします。身動きしたことで傷口が開いたのか、血と膿の臭いが一層濃くなり、私は思わず口元を抑えました。


「余は死なぬ……! 王子の成長を見届けねば。臣下どもは頼りない。剣も学問も政も、余自らが見てやらねば……!」

「やだ! 離して!」

「あの鐙……! あれをやった者も探し出すのだ。地の果てまでも追い詰めて、引き裂いて……余と、余の血筋を脅かすことのないように……!」


 迂闊なことを言ってしまった、と私は心から後悔しました。陛下にとって、男のお世継ぎを得るという妄執は、死の力よりも強いものだったのです。王子などと言ってしまったがために、陛下に生きる力が戻ってしまったかのようでした。

 陛下の手を引き離そうとしても、女の力では適うものではありません。さっきまで死体のように横たわっていたというのに、今のこの勢いは何ということでしょう。まるで、私の命を吸い取って生き長らえようとしているかのようではないですか。このまま私のお腹を裂いて、赤子を取り出そうとでもいうかのよう。


 やっと私を解放してくれると思ったのに。やはり私はこの方に殺されてしまう。いいえ、私は死にたくはない。


「やめて……殺さないで!」


 私は無我夢中で手を振り回し、当たった何かを掴むと必死で陛下に叩きつけました。それはとても柔らかくて頼りないもの。でも、私はこれで戦うほかないのです。


「ちゃんと死んでよ! 早く!」


 気がつくと、私は羽毛の詰まった枕を陛下の顔に押し付けていました。殺さないでと懇願しながら、早く死ねと口走る、そのおかしさを頭の隅では知りながら。でも、力を緩めることなどできません。こうしてしまったからには、陛下はこのまま死んでいただかなくては。でなければ私が殺されてしまう!


 目も口も塞がれて、さすがに陛下の力も次第に弱まっていきます。私の手や腕を抉っていた指先も震え始めて、まるで気味の悪い蔦が枯れていくかのようです。

 ここぞとばかりに、全身の体重をかけて息を止めてしまいたいのですが――お腹が、邪魔です。臨月の膨らみによって体勢を決め定めづらいというだけではなくて、お腹の胎児までもが邪魔をするのです。子宮を中から破ろうとでもいうかのように、無情にも母を足蹴にして暴れるのです。


「うるさい! 黙りなさい!」


 やはりこの子は私を殺す子です。何ヶ月もお腹で育んであげた母ではなくて、このようにおぞましく恐ろしく命意地汚い怪物(ちちおや)の味方をしようというのです。この私の腹を食い破って、それで陛下を助けようというのでしょう。


 いつまでも枕の下でもがき続ける陛下と、お腹の中から私を脅かす胎児と。両方に向けて私は叫びました。


「死ね! 消えろ! いなくなれえええええ――っ!?」


 喉を裂くように声を上げた瞬間。激しい痛みがお腹を襲いました。同時に足の間に大量の水の感触が。それに生臭い臭いが鼻につきます。


 ああ、あの子がお腹を破ったのね。私を食い殺そうというのね。


 痛みで息もできない中で、私はぼんやりとそう思い――そこまでしか、覚えていないのです。


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