12
駄目だった。ここまで来たのに見つかってしまった。息子をこの手に掛けさえしたのに。終わってしまう。
この場を見られたからには殺されてしまうに違いない。何度も見てきた悪夢、刑場に引き出されて首を刎ねられるという幻想が、すぐそこの現実に迫っている。
ああ、殺される前に舌を噛んでしまった方が良いのかしら。でも、私にそんな勇気があるのかしら。それに、口も塞がれてしまって――
恐怖が思考を引き伸ばしたようで、私は一瞬のうちに沢山のことを考えました。私の息の根を止めんばかりの恐怖の中に永遠に囚われたかのような。けれど、それさえも現実から目を背けるための空想に過ぎませんでした。私は自分が置かれた状況というものを、理解したくなかったのです。
それでも、恐怖と混乱の極みにあっても、やがて私の鼻に甘く柔らかい香りが届きます。それは、私が知っているもの。好ましく安心するものと信じていたもの。
「お義母様、お静かに。人が来てしまいますわ」
耳元に囁く声も私がよく知る方のもの。私の口を塞いだ手さえも、白く細くて――その滑らかさも、知っています。
私は女王様に背後から抱きすくめられていたのです。
なぜ、と自失する間に、もうおひと方、優雅な足取りで私と女王様の横をすり抜ける人影がありました。月明かりの中、背に躍る髪の豊かさ――それが陽の光の下ではどのように見えるかも、私の目にはありありと浮かびます。妹姫様もいつの間にかいらっしゃっていたのです。
私の荒い呼吸だけが部屋に響く中、妹姫様は王子の寝台へと歩みよりました。行儀よく手を身体の横に揃えて寝ているような、けれど顔にはクッションを載せたままの、異様な姿の弟の方へと。
王女様は、まずクッションを王子の顔から取り除けました。先ほど私がしようとしていたように。でもずっと手際良く、躊躇いなく。
王子の顔を見て悲鳴を上げようとした私の口を、女王様が一層の力で抑えました。とはいえ窒息させようというのではなく、あくまでも優しく。私の腰の辺りに回されたもう片方の手も、宥めるように衣装の生地をそっとなぞっています。背に触れる女王様の身体の柔らかさ温かさも、なぜか私を安心させます。
そうして女王様に支えられるようにしてやっと正視できた王子の、私の息子の顔は、傷一つない綺麗なものでした。けれど眠っているのとはまったく違って、どうしようもなく明らかに死んでいました。
私は力を入れすぎていたのです。子供特有の細く柔らかい髪はあちこちの方向におかしな癖がついて額に張り付いてしまっています。整っていた顔立ちも高い鼻もどこか潰れたようで、顔全体が寝具にめり込んでいるようです。最期まで呼吸を求めていたのか、口は半ば開かれて、溢れた唾液が顎の辺りまで汚していました。
ああ、私は何ということを。こんな子供に。こんなに小さかったのに。
十年前は、私は結局陛下のお顔を見ないままだったのです。だから自分のしたことを本当に分かっていなかった。自分が殺されるのはあんなに恐ろしかったのに、他の人を殺すのもまた恐ろしいことなのだとは、今の今まで気付かなかったのです。
くずおれそうになる私を、女王様はしっかりと支えてくださっています。ああ、女王様がここにいらっしゃる。妹姫様も。なぜ。
これは、私が最も恐れていた状況ではないのでしょうか。私の罪、私の心のどす黒いところを、この方たちに知られてしまった。これは、殺されるよりも恐ろしいことではなかったでしょうか。
「あ……」
喘ぐように漏れた声は、女王様の指先によって摘み取られてしまいました。何も言わないで、と。白い指が伝えてきます。
「大丈夫ですよ、お義母様。ご心配いりません」
妹姫様も、私の方を振り向いてにこりと笑ってくださいました。このような場に不釣合いなほど、明るく。
再び私に背を向けると、妹姫様はまたてきぱきと手を動かされました。
抑えられてぺたりとした王子の髪を梳いて、自然に寝乱れたように直します。唾液を拭って口を閉じさせて、沈み過ぎた身体を軽く持ち上げて寝具を整えて。頬を両手で揉みほぐすようにすると、押し潰されたようにひしゃげた表情も少しは安らかな寝顔に近づきます。
最後に曲がってしまった鼻をちょんと摘むのは、姉が寝ている弟に悪戯をするようですらありました。もちろん、それで王子が目を覚ますことはなかったのですが。
その作業のいずれもを、妹姫様は流れるように滑らかに終えられました。あまりの手際の良さに、私は何となく悟ります。これは、このようなことは、十年前にもあったことなのでしょう。陛下は眠るように亡くなったのではなく、亡くなった後で――私が殺した後で、眠っているかのように整えられたのでしょう。
私も一度目より今夜の方が上手くやれたのと同様に、この方たちも――手慣れたのでしょう。
それがどういうことなのか、私にはまだよく分からなかったのですが――
「お義母様が弟とご一緒にいらっしゃると聞いたので、寝る前に挨拶をしたかったのですが……」
私の頭がきちんと働き出すよりも先に、妹姫様が王子の寝台から離れて目の前で微笑んでいらっしゃいました。
「弟はもう眠ってしまっていたのですね。残念です」
そして私の耳元では、女王様のお声が。妹姫様の笑顔と同じく、場違いに穏やかでにこやかな。不思議な甘さと柔らかさに酔ってしまいそうななおふたりの声が、交互に私に語りかけます。
「でも、私たちは大人ですもの。もう少しおしゃべりしても構いませんわよね?」
「お茶とお菓子と――ああ、もう夜ですし、お酒でも良いかもしれませんね。気付けにもなるでしょう」
「うふふ、楽しみですわ」
「ええ、お義母様と夜更しなんて」
「お話したいことが沢山ありますのよ」
そこで初めて、私はまた声を出すことができました。女王様は御手を私の口から外してくださっていたので。
「はなし……」
陛下のこと。あの侍女のこと。十年前のあの夜のこと。確かに聞かなければいけないことが沢山あるようにも思えます。でも、どこから、何から話して良いものか。おふたりは何を知っていて私は何を知らないのか。
聞きたいことがあまりに多すぎると、言葉はかえって詰まってしまうものなのだと、私は初めて知りました。
クッションを除けた直後の王子のように、だらしなく開いたままになってしまった私の口に、女王様の指先が軽く触れました。小さな子供が騒ぐのを止める時のような、優しい――けれど有無を言わせぬ仕草です。
「後で、にいたしましょう、お義母様」
「弟を起こしてしまってはいけませんもの」
「ええ。よく寝ているようですから」
おふたりが悪戯っぽい笑みを向けた先では、王子が変わらず死んでいました。先ほどよりは無事な寝顔に近づいたとはいえ、血の通わない頬は月明かりの下で一層青白く不気味に見えました。触れてももう冷たいだけだと、妹姫様はよくご存知のはずなのに。
まるで本当にただ眠っているだけかのようなおふたりの言い様は、本気なのか冗談なのか。それとも死者が蘇るとでも言おうとしているのか。
私には全く分からないのです。
ただ、ずっと悪い夢の中にいるようで、足元もふらふらと定まらなくて。女王様と妹姫様に支えられて導かれるまま、私は息子に背を向けて部屋を後にしたのでした。




