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「母上とずっと一緒にいられるなんて……!」
「落ち着きなさい。これから寝るという時なのに」
「だって、母上」
「横になって。手を握っていてあげるから」
「はい!」
その夜、寝る前に物語を読んであげると言うと、王子はとても喜びました。どれが良いかと聞くと、古の王の逸話が良いと言って、自ら重い装丁の本を棚から引き出して来て。寝台に寝かしつけるのにも一苦労でした。
「その時王は剣を振りかざし、全軍に向けて――」
戦いの場面が続く勇ましいお話では眠れるものか心配でしたが、そこは昼間全身を動かして訓練した後とあって、王子の目は物語が終わる前にとろりと眠りの膜に覆われたようになりました。燭台の仄かな灯りは私の手元を照らすだけ、枕元はほぼ闇に包まれていることも助けているのでしょう。
「……まだ聞きたいの?」
「…………はい」
辛うじて答えた王子の声はほとんど言葉になっておらず、半ば以上眠りの世界に脚を踏み入れていることは明らかでした。握った小さな手も、熱いほどの体温で眠気を伝えてきます。息子を喜ばせるために手袋は脱いでいるので、肌と肌を触れ合わせているのです。
「また明日、ね?」
本を横に置いて、宥めるように髪を梳いてやると、息子は何か嫌だというようなことを言おうとしたようでした。でも、疲れきった子供が眠気に抗えるはずもありません。むずかるようなむにゃむにゃとした唸りは、すぐに安らかな寝息へと取って代わられました。
そうしてしばらく髪を撫でてやって。慎重に――とても慎重に握った手を振りほどいて。それでも目を覚まさないことを、完全に寝入ったことを確かめると、私はそっと息子の枕周りや寝具を整えてやります。小さな身体を囲うように配されたクッションもきちんと並べて、そのひとつを手に取って詰め物の羽毛を均一に均して。
そして、それを眠っている王子の顔に押し付けます。
柔らかい布地が顔に触れた瞬間、王子の身体はぴくりと跳ねました。でも、私は構わずに全身の力を使ってその動きを押さえつけます。
十年分年を取ったとはいえ、あの夜のように大きなお腹や忙しなく動く胎児が邪魔をすることはありません。王子はあの時の陛下のように大怪我をしている訳ではありませんが、まだ子供です。それも、深い眠りに落ちている。多少もがいたところで、大人が体重をかければ跳ねのけられるものではありません。
ああ、やはり間に合った。
十年前と同じ、手に伝わるのは柔らかい羽毛の感触と、次第に弱まっていく息使い。全く同じ格好で罪を重ねることに慄き、人に見つかる恐怖に震えながら、私は頭の片隅でこの上ない安堵を感じていました。
やはり、この歳の子供相手なら、疑われずに言いくるめることができる。殺意に気づかれず近づいて、眠ったまま息絶えたように見せかけられる。
王子が見せた優秀さは、私を心底震え上がらせていたのです。
クッションを押さえつける私の手には、傷痕が、陛下の爪痕が白く浮かび上がっています。陣痛の痛みで掻き毟った? バカバカしい。それならば侍女や医師や――とにかく周囲の者の手を握り締めて爪を立てるはずでしょう。何より、傷の深さといい間隔といい、女の手が残したものではあり得ません。
他の者たちが何も言わないのは、太后の手などを間近に見る機会がないからか、それとも先王の妻で次の王の母だからと憚るものがあるからでしょうか。か弱い女があの陛下に逆らったなど、思いもよらないのかもしれません。
けれど、教師を唸らせる王子の知性は、いずれ必ずこの傷の不審さに思い至っていたでしょう。
父の背を追って鍛錬を積むうち、どうして父がいないのかと不満が募り、その死を怪しむようになるでしょう。
王子の近習として選び抜かれた少年たちの中でも際立つ剣の腕は、いずれ必ず私に対して振るわれていたことでしょう。そしてその次は女王様や王女様に。
私が完全に恐怖から逃れるには、今この時をおいて他に機会がなかったのです。まだ息子が弱く愚かで、父と同じ程度に母も慕い、この私にも手に負える子供のうちでなければならなかったのです。この子の本当の恐ろしさ――残虐さや敵に対する容赦なさだけでなく、勇猛さや明晰さまでも父親から受け継いていたということに、今のうちに気付けて本当に良かった。
後はあの侍女だけ。でも、あのような下賤の者に何ができるというのでしょう。王子に取り入らなければ私を堂々と告発することさえできなかった。十年も黙っていておいて何を今さら、と笑い飛ばすこともできるはずです。それに、男の王を戴くというあの者たちの企みは、今この場で潰えようとしているのです。
ああ、私はどうしてあの女のことなんか考えているのでしょう。私の子供の命が消えようとしている、この時に。それをしているのは私のこの手だというのに。
ごめんなさい。でも、仕方ないの。
私の頬を涙が伝うのが分かりました。力を弱める訳にはいかないから、拭うことはできませんでしたが。
母に向けられた息子の笑みは、確かに愛らしく抱きしめたくなるようなものでした。
でも、私には父の仇を取るのだと叫んだこの子の表情が忘れられないのです。成長するにつれて、男の子はどんどん父親に似ていくのでしょう。いつまたあの夜の陛下のような恐ろしい顔で怒鳴られるのか。睨まれるのか。怯えながら息子を愛することなどできません。
ほんの欠片でも芽生えた愛を守るためにも、この子は大人になってはならないのです。
だから、ちゃんと死んで。早く。
夜明けが来てしまうのではないかと思うほど長い間、私は同じ姿勢で固まっていました。少なくとも、枕元に置いた燭台の蝋燭が燃え尽きるほどの間。流れた涙も乾いてしまって、私の頬をひりひりと痛ませます。
息子はとうに動かず、寝具から伝わる体温も冷めて寒気すら感じるほどです。でも、このまま朝を迎える訳にはいきません。王子の姿を整えて、この部屋を去らなくては。息子が寝ついたから自室に戻ると、控えている者に伝えなければ。
息子の顔は、どうなっているのかしら。陛下は眠るように身罷られたと、王女様たちは仰っていたけれど。
どうか安らかな顔でありますように。目を開けて私を睨みつけることなどありませんように。起き上がって襲いかかってきたりなどしませんように。
強く強く念じながら、王子の顔を覆ったクッションに手を掛けた時でした。
ぽん、と。
背後から私の肩がごく軽く叩かれました。ごく軽く――けれど私の心臓を止めかねないほどの衝撃として感じられる、人の気配。
「――――っ!」
そして悲鳴を上げようとした、その前に。何者かの手によって私は口までも塞がれてしまったのです。




