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王子の勉学や剣などの訓練に顔を見せるようにしてみると、父君である陛下の――残虐さばかりでなく――良いところも受け継いでいることが分かりました。
時折教師に発する質問は鋭いものでしたし、剣や馬術で同じ年頃の臣下の子たちと競っても譲るということはありませんでした。もちろん、相手に遠慮があることは割り引かなければなりませんけれど。
教師たちが言うには、私の前だと一層張り切るのだということでした。それを聞くにつけても、私はあの夜思い切って扉を開けて良かったと思うのでした。
馬場で王子が学友たちと馬の競争をしているのを眺めていると、私に話しかける者がありました。
「殿下は、母君様と仲良くなれて喜んでおいでです。ずっと思い悩んでいらっしゃいましたから」
「まあ、そうなの」
例の侍女の笑顔は変わらず曇りなく穏やかで、裏にある心を読み取らせないものでした。王子はまだこの女にも懐いているようで、油断することはできないのですが。それでも、今となっては私への疑いを強めさせるのも容易なことではないでしょう。
この女が何を企んでいるとしても、しばらくの猶予はあるはずでした。
「男の子の扱い方が分からなかったから。可哀想なことをしました」
「今からでも遅くないと存じます」
「そうね……」
私が考えているのと同じことを言われたので、私は思わずくすりと笑ってしまいました。この女は、王子を篭絡したと安心しきっているのでしょうか。それとも取り澄まして表面を繕った心の中では、思わぬ事態に焦ってでもいるのでしょうか。
何を企んでいようと構いません。私は決めたのです。もう思い通りになどさせない。ただ殺されるのを待ったりなどしない。かつてのように怯えるだけだった時とは違うのです。ただ、じっくりと。時機をよくよく見計らって――
「母上!」
と、侍女と話をしている間に、子供たちの馬は見ている私たちの近くまできていました。狩りから帰ったあの日のように、王子は馬から転がるように飛び降りると、私の方へ駆け寄ってきました。
「また一着です!」
「よくやりましたね」
頭を撫でてやると、王子は得意げに笑いました。私が浮かべた微笑みも、きっと得意げなものだったでしょう。息子は、侍女ではなく私の方へ真っ先に来たのです。
「あの、母上」
嬉しそうに目を細めていた王子は、ふと真剣な表情になって私を上目遣いで見上げてきました。続いておずおずと出した声は、なぜかとても緊張していて。私の部屋を訪れた時のように、ひどく不安げなものでした。
「手袋を取っていただけませんか」
「……なぜ?」
それに釣られて、私の声も固く冷えたものになります。王子が望む母の声ではなく、罪に怯える女の声になってしまいます。思わず侍女の方を窺うと、変わらず忌々しい笑みを浮かべていました。
「いつもなさっているから。……母上の手は、温かいのかと思って」
「……そう」
確かに私は十年前から好んで手袋をつけています。昼も夜も、息子を抱き締める時も、頭を撫でてやる時も外さずに。それは、お産を経て張りを失った手を見られるのが嫌だからなどではなくて――
「太后様、ぜひ……」
これも、したり顔で促す侍女に吹き込まれた新しい手なのでしょう。私を脅すための。王子に疑いを持たせるための。けれど、ここで断れば息子は不満を持つに違いありません。
「これで、良いかしら……?」
「傷痕が……お怪我をなさったのですか?」
仕方なく手袋を外して頬を包むようにしてやると、王子は目ざとくそれに気付きました。私の手を取って、しげしげと間近に眺めています。
傷痕。呼吸を求める陛下の爪が、枕で押さえつける私の手を抉った痕。確かに遺された私の罪の消えない証拠。
「ええ。あなたを生む時に、陣痛の苦しみのあまりに掻き毟ったのです」
心臓が高鳴る音を、私の不安と恐怖が脈打つ音を耳元に聞きながら、私は努めて平静な声を出そうとしました。女王様や王女様、医者たちが告げたことを、自分自身でも信じているかのように装って。
「そこまでして、私を生んでくださったのですね」
その必死の努力の甲斐あってか、王子を騙すことにも成功できたようでした。にこりと私を見上げて浮かべた微笑みは太陽のように眩くて、疑いなど微塵も抱いていないかのようでした。
少なくとも、そのように見えました。
日差しに中って気分が悪いと言い訳して、私は屋内に戻ることにしました。王子をあの侍女に預けるのは我慢ならないのですが、上の空で息子の相手をするのも機嫌を損ねてしまいそうで怖かったのです。
「あら、お義母様」
すると、廊下で行き会ったのは女王様です。太陽の輝く外から薄暗い城内に入ったばかりだったからか、お顔の色が悪く見えます。いいえ、きっと本当にお疲れなのでしょう。幼い王子や政に関わらない私は気楽なものですが、このお方は日々国の内外の憂いと戦っておられます。特に国内の敵――女王を頼りないと責め立てる声の大きな者たちは厄介なものなのですから。
「弟とご一緒ではなかったのですか」
「気分が悪くなってしまいましたので、失礼をさせていただきましたの」
「まあ、それは大変」
ご自身もお辛いのでしょうに、女王様は目を瞠って私に駆け寄ってくださいました。熱を確かめるかのように手を取られるのも、息子の時とは違って恐ろしさなど感じません。この方は、いつでも私の味方でいてくださいましたから。
「お部屋までお送りしますわ」
「そのような、お忙しい時でしょうに」
「いいえ、実を言うと最近寂しかったのですわ。お義母様、弟と過ごす時間が多くなってしまったから」
少し恥ずかしそうに微笑まれた女王様に、私は先日の妹姫様との会話を思い出しました。この方たちは、実の母君様たちとはお小さい頃に――とても恐ろしく酷い成り行きで――死に別れられたのです。なさぬ仲とはいえ、この方たちも私にとっては娘同然。亡くなった陛下の横暴を共に耐えた、同志のような感覚さえあります。
王子やあの侍女を恐れ、顔色を窺い機嫌を探るのにかまけたばかりに寂しいお気持ちにさせてしまったのだとしたら、大変申し訳のないことでした。
「……では、尊い御身を煩わせてしまいますが」
「そのようなこと。娘が母を気遣うのは当然のことではありませんか」
「まあ、恐れ多い」
何と嬉しいことでしょう。この方も私と同じ気持ちでいてくださるようです。差し出してくださった腕に縋れば、鼻先にふわりと漂う香りも甘く優しいもので、私の荒みきった心を慰めてくれるかのようです。柔らかい声に、柔らかい手、柔らかい身体。この方が王でいらっしゃるということが不思議なほど頼りなげなのに、芯は強く、賢く優しくていらっしゃる。
男でない、などととても瑣末なことに思えますのに。どうして男の王を望む声が絶えないのでしょう。そのような者さえいなければ、私も心穏やかに過ごせるはずなのに。
私を部屋まで送ってくださった後、女王様はお茶にも付き合ってくださいました。義母の見舞い、という形ではありますが、私の方も女王様の気晴らしとなろうと明るい表情をするよう心に決めました。政に疲れた方のために、季節の花や流行りの菓子など、他愛のないことを話して、お気を惹こうと努めます。
「ああ、おかしい。こんなに笑ったのは久しぶりですわ」
「女王様は笑顔がお似合いですわ」
女同士の話は、何ということはなくても笑ってしまうもの。女王様は、最後には目尻に涙を浮かべるほど、小鳥のさえずりのような高く朗らかな笑い声を響かせてくださいました。一時とはいえこの方の気を紛らわすことができた、と思うと私の胸にも誇らしい思いが込み上げます。
「私、弟に遠慮していたのかもしれません。もっと早くお義母様に甘えれば良かった」
「まあ……」
でも、女王様の笑顔がわずかに曇るのを見て、私ははっと気付きました。
私が王子に構うのは、単に親子の関わりというだけでは済みません。女王様を見捨てて、血の繋がった息子を王位に就けようとしていると見られてしまうかもしれないのです。私が息子と遊ぶのを見て、このお方はさぞ不安に思われたに違いありません。私は、もっと早くそれに思い至るべきでした。
「私は、女王様の味方ですわ。いつ、いかなる時でも」
「お義母様……嬉しい……」
「僭越ではありますけれど、実の娘のように貴女様を思っていますの。実の息子と変わらないくらい――いえ、それ以上に」
女王様を必死に励ましながら、私は心が急に冷え固まっていくのを感じていました。
そうです、ことは私の生死だけではないのです。あの侍女のような者――息子を利用しようとする者たちは、女王様たちまでも狙っているに違いないのです。この方たちのためにも、やはり私の罪は決して誰にも知られてはならない。
ああ、それに。女王様や王女様の父君を殺めたなんて、おふたりには絶対に知って欲しくない。おふたりに嫌われ憎まれるのは辛すぎます。
生き延びるため。大事な人たちを守るため。犯した罪を覆い隠すためなら、私は何でもしてみせましょう。躊躇っている暇は、ないのです。