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僕らの特別  作者: 壬生一葉
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【7】

上市は、戸惑っていた。


何にこんなにイラついているのか、何故紅緒を抱き締めているのか。戸惑ってはいる。戸惑っているが、この腕を放そうとは思わなかった。このまま紅緒を、椎木の元に行かせるつもりはなかった。


「か…」


最もこの状態に困惑しているのは、紅緒だ。上市に蔑まれ、怒鳴られ、今は抱き締められている。


其れでも紅緒は、上市の腕の中から自分達に注がれる好奇の視線に気付き、力一杯上市の身体を突き放そうとした。だが上市は紅緒を逃がしてなるものかと抱き締める腕に一層力を込める。


「ちょっとっ!」

「カナさんとの約束、反故にするなら放してやる」

「はっ? 何で私がそんな失礼な事しなくちゃいけないのよっ! 馬鹿じゃないのっ放してよっ」

「嫌なんだよっ! お前がカナさんを頼りにするのがっ! 俺が居るだろっ」

「…何ソレ…此処に来て、負けず嫌い?」


上市を遠ざけようとする紅緒の力が落ち、上市もほんの少し拘束を緩めた。僅かな空間の中、顎を上げた紅緒は上市を見つめる。しっかりと視線を合わせながら、二人は暫し黙した。


『負けず嫌い』と問われ、上市は今持て余してるこの感情には、その言葉がしっくりくる様な気がした。


そうだ…あんな都築(おとこ)にも、カナさんにも負けたくない。

…何に? 紅緒の事で? 紅緒の何で負けたくない?


自問自答を繰り返す上市。本人は気付いていないのかもしれないが、眉が寄り、視線を僅かに泳がせると又、紅緒に照準を戻した。其れを(つぶさ)に見ていた紅緒は「ぷはっ」と、険悪な雰囲気にそぐわない柔らかい笑い声を上げる。

紅緒の目の淵は未だ潤んだ状態だが、紅緒は笑っていた。


”しょうがないなぁ” とでも言いたげに。


その顔を見た途端、上市はぎゅっと心臓を鷲掴みにされた気がした。


紅緒は時々そうやって上市に笑って見せる。

闘志剥き出しに挑んだ企画が潰れたり、仕事が認められなくて深酒に逃げた時、突き放したりも心底呆れたりもなくて、ただただそうやって紅緒は笑ってた。

其れでいて、『次はいけるでしょ』と根拠のない絶対的自信を与え続けてくれた。


其れが自分だけに向けられてなくちゃ嫌だ。


上市ははっきりと悟った。


紅緒が…自分以外の誰かのモノになるのは、嫌だと。


自分は散々色んな女と付き合ってきた癖に、我ながら身勝手だと上市は思う。言い訳をするなれば、本当に上市は面倒だったのだ。紅緒以外の女との付き合いは。だけど、誘われて「面倒だから」と断るのも面倒で、適当に一緒に過ごせば大抵の女が上市を振った。


”仕事とアタシとどっちが大切なのよっ!”


当然、上市は『仕事』と答える。


紅緒と同じ目標に向かって走っている事の方が、上市にとっては大切だった。紅緒と一緒に過ごす時間は何にも代え難いものだった。


上市は紅緒との事を優先してきた。恐らく其れが上市には、とてつもなく心地の良いものだったからに違いないからだ。


「そう、だ。取られたくない」

「え……」

「お前を誰にも、やらない」


目の前の男は一体何を言っているのだと、紅緒はたった今彼の口から告げられた言葉を理解しようと努めた。努めたが理解迄には至らなかった。否、至れなかったと言った方が正しいかもしれない。


上市が紅緒の右肩を抱き、通りを走るタクシーを捕まえると其処に押し込めたのだ。


紅緒が何かを言い掛けようとすると、上市は左手を上げて其れを制し、右手でジャケットのポケットから携帯を取り出した。常識的な紅緒は抗議をあっさりと収め、口を結び他人の電話を聞くのはマナー違反とばかりに窓の外に目を遣る。


「もしもし俺です」

『―――――』

「滝川は今日其処には行けませんから」

『―――――』

「違います。俺が行かせたくないだけですから」


所詮狭いリアシート、聞きたくなくても聞こえてきてしまう。その会話から上市の電話の相手が、今日これから紅緒が約束をしていた椎木である事は明らかだ。

上市は言うだけ言うと携帯を元在った場所へと仕舞う。逸らしていた筈の紅緒の視線も、結局は上市へと帰った。上市が口の片端だけを器用に上げ、意味深に笑う。先程の会話と言い、その妙に艶っぽい笑みと言い、紅緒は信じ難い思いに囚われ始めていた。




タクシーは慣れ親しんだ街を走り、慣れ親しんだマンションの前で停車した。

降りる際、紅緒は少しの抵抗をしたがそんなもの上市にとっては痛くも痒くもない。エレベーターに乗り二人は五階で降りた。逃亡が計れないよう紅緒の肩は、上市に掴まれたままだった。上市は自室の鍵を使い目の前の扉を解錠して、紅緒を招き入れる。

狭い三和土に足を踏み入れた瞬間、上市は紅緒の両頬を両手で包み込み、紅緒の唇に自身の其れを押し当てた。


此れでもかと目を見開く紅緒に対し、上市の意志は明確だった。


上市にキスをされていても、紅緒はやはり何処か信じ切れず彼に抗った。固定された顔を逃がしたくて、彼の手首を掴み引き剥がそうと試みる。申し訳程度に整えられた爪を上市の皮膚に食い込ませると、痛みを感じたのか上市の熱が紅緒から少しだけ離れていく。其れを好機とばかり口を開き彼を窘めようとしたのは、早計だった。


上市は開いたその唇に舌を這わせ、直ぐに口腔へと差し入れた。

「!」


上市の舌は巧みに紅緒を蹂躙した。上顎を舐め上げ、歯列をなぞり、舌を絡め、彼女を追い立てる。最早何に措いても紅緒の逃げ場は無かった。

紅緒は官能に溺れながら、上市が自分を女として認め、求めている事をもう疑わなかった。


負けず嫌いでも良い。


諦めようとした男が、自分を欲してくれるのなら、差し出しても良い。紅緒は思った。もうきっと元には戻れないのだから、此れで良いと紅緒は思った。


「か、かみぃ…っ…んっ…」


息を荒げた紅緒から零れる甘い吐息が、上市の劣情を煽っている事など当の本人は知らない。自分のその姿が、どんなものであるかなんて紅緒は知る由もないのだ。


体の奥がどんどん熱を帯びていくのが解る紅緒は、正に上市のキスに翻弄されていた。

「キス……うま、すぎ…」

力の入らない紅緒は顎を引き、上市の胸元に手を添えながら息を整えていた。


上市は先程の紅緒の一言に盛大に片眉を上げ、右手で彼女の顎を掴み上げた。其れは少しの痛みを伴って、紅緒は眉根を寄せ彼に視線を合わせる。


「誰と、比べてんだ」

「…え…?」

「俺、目の前にして誰思い浮かべてんだ」


上市は今の今まで、紅緒の”仕事の顔” と”友人の顔” しか知らなかった。そんな彼女が、自分に女の顔を見せるのは加虐心さえ芽生えさせ、面白くない紅緒の発言に言及する。


上市が何を言わんとするのか理解した紅緒が僅かに目を見開く。


自分の失言に気付いた紅緒は焦って上市から視線を外すが、頤を掴まれたままなので、極僅かしか逃げられない。

上市は紅緒にもう一度唇を重ねながら、頭の中を巡る様々な怒りを鎮める様に彼女の熱を煽った。



紅緒に男の影なんてなかった。上市はそんな事を考えた事もなかった。けれど、都築の存在が上市にとってどれ程影響を与えるのかを、思い知った。


   ――― 俺よりも先にお前を開いた男がいる事が許せない


紅緒に対し、友人としてではない想いを持っている事に数十分前に気付いた上市は、嫉妬の炎を燃やす。



再開された深いキスによって、紅緒は又息を上げ、震えるしかなかった。そして、恐らく此れが最後の触れ合いになるのだろうと紅緒は頭の片隅で思う。


此れで、楽になれる。

もう”誰かの上市” を見る事は終わりだ。


紅緒は、安堵と、一抹の淋しさを感じながら上市の首に腕を回し、身を委ねる。紅緒の突然の行動に思うところの有る上市は、回された紅緒の両腕を掴み、勢いよく自身から剥がすとこう言った。


「此れで終わりにしようなんて思ってないだろーな、お前」


伊達に六年も一緒に居たのではない。上市には紅緒の考えそうな事等容易に想像がつく。


「え?」

聞こえなかった訳ではないのだが、紅緒は疑問符を顔に貼り付ける。上市は、下手な芝居をする紅緒を胡乱な目つきで見下ろした。


「逃がす訳ないだろ。俺が、お前を」

「かみ…」

「俺はお前を手放す気はないから。お前も覚悟しろ」

「…」


紅緒は、表情を固めたまま小首を傾げた。一世一代の告白をしたつもりの上市にとっては、紅緒のその動作は不可解だった。


「上市…私が、好きなの?」

「は?」


到底、愛の告白の合間の相槌とは思えない程の低い声が、上市から発せられた。


「だって、負けたくないって」

「べに」

「っ」

「幾ら俺でもガキみたいな癇癪起こさねーよ。…つーかお前は仕事には聡いのに、こっち方面は全然だなっ」

「しょ、しょうがないじゃんっっ」


経験が乏しい事を恥じる紅緒を、上市は愛しむ様に抱き締めた。


「俺はね、べに、お前が好きな訳。だから誰にもやれないって言ってんの。解った?」


まるで子供を往なす様な口調で、上市は紅緒に言った。左腕でしっかりと彼女の腰を抱き、右手で彼女の後頭部を撫でる。


散々、同性みたいに扱ってきた癖に、付き合ってる女が居る癖に。

紅緒は上市の胸の中でそんな事を想った。可笑しな話だが、悔しさが滲んでしまう。私の六年分の想いと、どっちが重いと思ってるのよ。


悔しいから、ずっと好きだったなんて言わないんだからねっ。







上市が、紅緒と心が通じてると知るのは、もう少し後の事…―――――。












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