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僕らの特別  作者: 壬生一葉
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【6】

紅緒は、喪失感に見舞われながら予備校を後にする。自室に閉じ籠り、両手で上腕部を強く抱き締めた。


あんな男を好きになった自分が許せなかった。

他人に身体の関係を、まるで私が下劣な女みたいに話す都築(おとこ)が許せなかった。


間違った支配力を振り翳して、自分を誇示する最低な男。そんなどうしようもない男を好きだったなんて。






「仕事の件でしたら、私と平島さんでお話しさせて頂きますので」


はっきりとした口調で上市が、都築に向かってそう言った。すると都築は不機嫌さを隠さず、眉を少し寄せると苦笑いをして見せた。


「其れは解ってますよ。俺は、滝川と私用で話が有るって言ってるんでしょ」

「私用? どの様な?」


上市が余りにも突っ込んだ質問を都築に浴びせるので、紅緒は少し焦って隣に座る彼の顔を見た。


”怒り” が上市の表情に表れていた。表面上は穏やかに、けれどその()は都築を射抜く様に見ている。


都築はそんな上市に気が付くことなく

「解らないかなぁ……君に、そんな事言う必要があるのかな」

と、今でも男と女の其れが在るかの様な台詞を吐いた。そして紅緒は覚ったのだ。


この男は、十年経った今でも私を組み敷く事の出来る王様のつもりで居るのだと…―――――。


こんなどうしようもない男に怯えていたのかと思うと、紅緒に悔しさが湧き上がる。ビジネス(ココ)は、上市と築いてきた神聖な場だ。私が、私で居られる領域だ。土足で踏み躙るような真似はさせない。


もう都築には振り回されないと意を決した紅緒の横で、上市は低く嗤う。


「…都築、さんこそ解りませんか。こんな突っ込んだ質問をする俺の存在が」


暗に『其れも解らないほど馬鹿なのか』と言う温度の低い上市の言葉だった。都築とて馬鹿ではない。寸分違えずその言葉を理解し、顔を赤くした。

其の応えに満足した上市は、とびきりの笑顔を覗かせる。


「では此れで失礼させて頂きます」

上市はその内に抑えた怒りを露わにせずに、通常運転の如く立ち上がる。紅緒も慌ててタブレットをバッグに押し込んでスツールをテーブル下へと収めた。

「し、失礼します」


上市は、紅緒の退室の挨拶を聞くと、彼女の背に手を宛がって自分よりも先にドアを潜る様促した。思いの外、強い力で外へと押し出された紅緒は、都築の会社から十分に離れた後、立ち止まり振り向いた。


「何か…ごめん。変な空気で」

「ホントだな、最悪だ」


上市は紅緒に視線を合わせようとはしなかった。それ程、怒り心頭の様だ。上市は余所を向いたまま、大きく息を吐き出し、言う。


「お前あんなのと付き合ってたのか」

「!」


紅緒は驚いた。まさか其処まで上市の憶測が及んでいたとは思わなかったのだ。

いや当然なのだ。あの状況下で紅緒と都築の男女間の関係を疑わない訳がないのだ。だが、都築の程度の低い発言や自分の思考ばかりに囚われていた紅緒は、上市に、つまり好きな男に、過去の男の事を質された事に驚いた。


「アレか? まともに恋愛なんてした事ない癖に、告られて逆上せ上がってホイホイ付き合ったってとこだろ」


上市は心底呆れた声を出して、紅緒を攻撃する。

紅緒程の女が、あんな碌でもない男と付き合ってた事も、更にきっぱりと撥ね付けない紅緒にも腹が立っていた。遠慮のない言い方をしてるのも自覚している。けれど、止まらなかった。


「馬鹿な男と付き合ったって後悔してる。でも、不意に再会して動揺する位には気持ちを残してるって事かぁ?」


上市の知る紅緒は、何時だって堂々としていた。

背を伸ばし、自信に満ち溢れ、困難にも立ち向かう事の出来るしっかりとした女なのだ。なのに、紅緒は終始あの男の一言一言に顔色を変えていた。そんな紅緒等、上市は見たくなかったのだ。


上市の言葉は、鋭い刃となって紅緒に突き刺さる。


ぷつっ…とゆっくりゆっくりと、刃先が紅緒の身体に沈み込む。痛みで息が苦しくなった紅緒は、空いていた左手で胸元を抑えた。



紅緒にとって都築との事は、思い出したくもない過去だった。あの男を好きだった事さえ抹消してしまいたい程に。確かに彼を目の前にして動揺していた自分が居る。けれど、あんな男に気持ちを残していたから動揺した訳ではない。

逆上せ上がって、ホイホイと付き合った訳ではない。


上市に冷徹な言葉を掛けられ、紅緒の思考は崩壊した。





  ――― 何が楽しくて、好きな男に蔑まれなければならないのだ!





「そう、ね。私が浅はかだった」

紅緒は胸元に在った掌をぎゅっと握って顔を上げた。見上げた先の上市と目が合った。

「っ!」

強い眼差しを携えた紅緒の頬に、一筋の涙が伝う。



自分を軽んじる都築が、女なら簡単に捻じ伏せられると思っている男が憎かった。だから其れに負けたくなくて、紅緒は突っ走ってきた。どんなに辛い事が有っても、歯を食い縛ってきた。



だけど。

もう限界だ。


好きな男に女と認識されてない上に、呆れられ、結局は馬鹿な『女』だと蔑まれる。



紅緒が上市の前で涙を流すのは此れが初めての事で、其れを見た上市は言葉が過ぎたと口元を抑え「悪い」と言った。激しく動揺した上市の謝罪は、小さな声にしかならなかった。


紅緒はそんな小さな声も拾って、泣きながら笑った。


上市が紅緒に突き刺した言葉の刃は、”悪い” なんて簡単な言葉で片付けられるものじゃない。上市ならもっと言葉を尽くせる筈だった。でも、其れさえも上市はしない。

出来ないのだろう。

上市にとって紅緒は、その程度だったのだろう。紅緒はそう思う外無かった。


此れ以上一緒に居る事は不可能だと、紅緒は涙を拭う事もなく踵を返し、駅に向かうべく歩き出す。


「オイっ何処行くんだよっ!」


上市は歩を進める紅緒を見て、慌てた。そんな顔で何処へ行くと言うのだ。

上市の声は届いているだろうに、彼女は振り返りもしなければ彼に答える事もしなかった。


「滝川っ!」


これまで紅緒が、上市を拒否した事等有っただろうか。


「滝川っオイっ!」


反応しない紅緒に焦れた上市は、大きなストライドで彼女の元へと歩み寄って、彼女の肩を掴んだ。けれど彼女は抵抗し、その双眸を上市には向けない。益々上市は焦り、もう一度手を伸ばし彼女の手首を握った。


紅緒の腕は驚くほど細く、折れてしまうのではないかと上市は思った。だが、躊躇っている場合ではない。もう直ぐ其処に、地下へと潜る階段が見えていた。

紅緒は自由を取り戻す様に左手を自分に引き寄せようとしたが、叶わなかった。足を止めはしたが、紅緒は頑なに上市と視線を合わせようとはしない。


「…悪かったって言ってるだろ?! そんな顔で、何処行く気だよっ」


上市は紅緒の前へと立ちはだかり、俯く彼女を見下ろした。先程目にした涙が未だ其処に在るのかも確認出来ない。


「放して…椎木さんと、約束が有るの」


紅緒は上市を見ない。答える声が硬い。

上市は、さっきの謝罪等何処かへやって自分を拒絶する紅緒を怒鳴っていた。


「行かせる訳ないだろっっ」


往来の目がある中、上市は其れをもろともせず感情剥き出しに紅緒を詰る。


「何なんだよっっカナさんに相談とかカナさんとの約束とかっカナさんカナさんカナさんかよっ!」


息継ぎさえない怒涛の勢いで上市が捲し立てるものだから、流石に紅緒も顔を上げずにはいられなかった。見上げた先の上市は、やはり怒っていた。険しい眉間の皺に紅緒は思わずたじろいでしまう。


「悩みがあるなら俺で良いだろっ。この六年そうしてきたんじゃないのかよっ。仕事の上がり気にして同行なんかするなよっ。その挙句しょーもねー男に会って泣いてんじゃねーよ」


最早、上市の怒りが何処に重きを置いているのかさえ解らない怒号だった。敢えて言うなれば、紅緒の悩みの種を本人に明かせる筈もなく、流した涙はあの男に対してではない。目の前に居る上市に嘲弄された事が原因だ。


紅緒は握られていた左手を勢いよく揺さぶって、上市から逃れようと試みる。


「上市っはなっ…」

「放したらお前はカナさんとこに行くんだろ? その泣きっ面晒してカナさんに手を伸ばすんだろっ?」





紅緒の左手を自由にするどころか、上市は紅緒を自分の胸の中に閉じ込めた。











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