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僕らの特別  作者: 壬生一葉
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【5】

案内されたミーティングルームで、隣に座る紅緒の様子がおかしい事に上市は気付いた。気付いたが、客の手前どうしたのかと訊ねる事は出来ない。

しかも、初見の男がこの部屋に現れた途端、紅緒が顔色を変えたのである。何かがあるのだと思わざるをえない。


クライアントの一人の男、平島とは既に面識が有り、今回名刺交換をした男は都築と言った。

紅緒は、斜め前に腰掛ける都築と上手く目を合わせる事が出来ず、都築の視線ばかりが紅緒に向けられていた。



仕事の話をしているのだ。

自分は自社の製品を売り込む営業なのだ。

もうあれから十年が経つのだ、と紅緒は自身を叱咤しながらタブレット上で指を動かした。



都築は、紅緒の初めての男だった。


そしてその都築が、紅緒に”男なんか” と言う気持ちを植え付けた張本人で有った。




仕事の話は順調に進んだけれど、上市はこの気持ちの籠らない営業トークをする奴は誰だと言う目で、時折紅緒を見た。又、自分の前に座る都築がこの仕事の話に全く興味を持っていない事にも不快感を覚えた。平島が其れを気にしていない事も可笑しな話だった。



次回は細かいデザイン画と見積額を提出する事を約束して、紅緒と上市は「有難うございました」と座したまま頭を下げた。

すると平島が

「滝川さん、都築と同級生だったそうですね」

と切り出した。



紅緒の身体が不自然に固まるのを、上市は見逃さない。


「久し振りだな、滝川。平島から君の名前を聞いて今日は同席したんだよ」


都築は笑みさえ浮かべて、そう言った。「じゃあ俺は、お先に」と平島が席を立つ。紅緒の目が泳いでいるのを、都築も気付いていない訳ないだろうに、彼はこの時間を続ける気の様だ。


  ――― 滝川の、昔の男


上市はそう判断すると、都築を値踏みするかの様に頭の天辺からテーブル迄の上半身を観察した。美丈夫でも不細工でもない、何処にでもいそうな普通の顔だ。糊の効いたワイシャツ、着慣れているスーツは決して安物ではない。袖口から除く腕時計は高級時計と言われるものだ。勤め先が此処であるからして其れ相応の収入が有る事は想像に容易い。



「滝川はK大に結局進んだの? 俺はね、T大に行って此処に入ったんだよね」


上市は表情は変えなかったものの、都築の自慢気な言い方が気に食わなかった。


「…M大に」

「ふーん…M大だったんだ。突然予備校を変えたから、K大からの変更?」


社会人になって六年が経過した筈で、今更大学受験の話に有益さは乏しい。大学の四年で学んだ事等、実践で得た知識に比べれば大した事ではない。だのに男が其処に固執している。


「そうですね」


ビジネスから世間話に移行しているが、紅緒はその硬い口調はおろか表情さえも頑なままだった。目の前の男だけが只管十年も前の事を喋り続けている。上市は相手の話の腰を折らない様に小さく何度か頷き、彼の言葉を耳に取り込んでいく。紅緒は「はい」とか「そうですね」の相槌を打つだけと言うのに、男は満足気だ。


はっきり言って、上市にとってこの都築と言う男の話は聞くに堪えない。


大学では有名な教授のゼミに入り何を学んだ、留学先ではホストファミリーに歓迎された、サークルでは会を纏めていた。


だから、どうした。


と言う内容の話を懇々と続けている。『俺って凄いだろ』そう言っている様にしか聞こえないのだ。まるで母親に褒めて貰いたがってる子供と同じ。



「相変わらず、真面目そうだな、滝川は」

些か馬鹿にした物言いに上市は米神をピクリと動かした。


営業先には女性を軽視した輩も居る。其れを目の当たりにした時に、紅緒は何時も気持ち良いほどの反撃をしてきた。ところが紅緒は「そう、ですね」そう言うに留まった。上市は其れにも腹を立てた。



何かが、有ったんだろう。この二人の、過去に。

紅緒を傷つける何かが、有ったんだろう。



だけど俺が知ってる紅緒は、一方的に相手にやられるだけの柔な女じゃない筈だ。上市はぎゅっと膝の上の拳を握り締めた。


「都築、君」

紅緒の口からやっと相手の男の固有名詞が語られて、都築は眉を上げ「なに」と応える。

「次の約束が有るので、此れで失礼しても…?」

「あぁそうかそうか。夜はどう? この名刺の番号に掛ければ良い?」


紅緒は、テーブルの上で軽く組んでいた指をぎゅっと握る。

我慢の限界だった。都築にしてみれば何気ないその軽い言葉に、紅緒は全身が粟立つのを抑え切れない。


この男は、十年経っても何ら成長等していない。寧ろ上乗せして低俗な人間に成り下がった様だ。






紅緒と都築は高校二年の夏、予備校で知り合った。都築は進学校で有名な高校に通っていて、予備校内でも成績がトップクラスだった。紅緒も其れに追随するレベルのクラスに在籍していた。たまたま紅緒が落としたノートを拾ったのが都築で、彼は其れをパッと見ただけで「此れはこうした方が良いよ」とアドバイスしてくれた。其れが二人の出会いだった。

都築の父親は大きな会社を経営しており、長兄は医者、次兄は次期経営者。都築も大学卒業後は父親の会社に入り経験を積んだその後、会社を興すつもりだと将来の展望を語った。

紅緒の目には夢を語る都築が眩しく映った。


紅緒は勉強が嫌いではなかったし、大学でもっと専門的に学ぶつもりでいた。だが、その先は未だはっきりと形になっていなかった。勿論、会社員にはなるつもりだし、自分の性格が事務員よりも外を出歩く外交の方が向いていると漠然とだが思っている。けれど何を売り歩くかなんて、明言出来なかった。


都築は厳格な家庭で育ったせいか、真面目な男だった。言葉の端々に其れは感じ取れていたし、この人は何処で息を抜くのだろうなぁと密かに心配していた。


紅緒は都築に勉強を見て貰う事で成績が上がり、都築も紅緒と居る事で真面目一辺倒ではなく人間味を帯びてきた。派手な二人ではないけれど、互いが互いを高め合う事の出来る似合いの二人であった。


都築に「付き合おう」と言われ、自分達が受験生である事が紅緒の頭を掠めた。返事を躊躇う紅緒に都築にしては珍しく軽口で

「俺と付き合って損は無いと思うよ?」

と照れた顔を背けながら言う。紅緒は驚いた。都築にもこんな一面が有るのだと、自分の前ではこんな顔をするのだと嬉しくもあった。

そうして二人の付き合いは始まったのが高校二年の冬の事。


順風満帆だった。


予備校でほぼ毎日顔を合わせ、休日には図書館に行ったり公園でお弁当を食べたり、穏やかな日々を送った。其れが変わったのは、高校三年の夏の事だ。


夏の熱さが二人を開放的な気分にさせたに違いない。紅緒と都築は、一線を越えた。


そして都築は、変わってしまった。


「滝川、模試の結果どうだった」

「うん、A判定だった」


紅緒が模試の結果を伝えると、都築は面白くなさそうな顔をした。何時もなら「俺も」と返事が返ってくるがその時はそうではなかった。彼の結果は良くなかったのだと思った紅緒は敢えて、彼を励ますつもりで「次で挽回しようよ」と彼の肩をポンと軽く、叩いた。


「!」


次の瞬間、紅緒の右手が強い力で締め上げられた。

都築の右手が紅緒を戒めたのだ。


「ナニ? 俺より成績が良かったからって、誰に向かって口きいてる訳」

「え」


痛みに顔を歪めながら、紅緒は都築から発せられた言葉に驚愕の眼を返す。都築のそんな乱暴な物言いを聞いた事があらず、紅緒は驚きと共に一瞬の恐怖を覚えた。

しかも握られた右手が痛い。


「都築?」

何処からか彼を呼ぶ声がして、彼は紅緒を解放した。冷めた目の残像を残して。


そんなにナーバスだったのだろうかと、紅緒に焦燥感が湧き上がる。自分が軽率だったのだと反省した。



数日後、二人で外で待ち合わせをし紅緒は先ず都築に謝罪した。真摯に頭を下げる紅緒に落とされたのは、滑稽な程幼稚な台詞だった。


「解れば良いよ」


紅緒は自分の耳を疑う程だった。

都築は決して欠点のない男ではない。其れは紅緒とてそうだ。けれど、都築が紅緒に対し其処まで尊大な態度を取った事はない。


紅緒は、都築に違和感を抱いた。自分が好きになった都築だろうか。彼の実在さえ疑う程、都築の見せる姿は一変してしまった。



都築は紅緒をぞんざいに扱った。

決定的だったのは、都築が別の男子予備校生(せいと)に紅緒の事を話していたのを彼女自身が聞いてしまった事だ。



『俺の下で喘ぐ事しか出来ない女』



都築は紅緒を組み敷いた事で、彼女を征服したつもりになっていた。支配する、王様気取りの最低な男になっていた。








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