【4】
「滝川、今夜空いてない?」
椎木は、出勤後直ぐの営業会議を終えると、外出準備をしている紅緒に話し掛けた。先日の一件があってから紅緒の、椎木に対する信頼度は増し、椎木に至っても紅緒が塞がないよう気遣って、仕事以外の会話が増えた。
「今夜、ですか…」
紅緒はちらっと、斜め前の席に座る上市に視線を投げた。
「あ、先約だったら良いよ。空いてれば、と思っただけだから」
機微に聡い椎木は、紅緒の表情の変化を読み取ってあっさりと引き下がろうとする。
「いえ…ねぇ上市、今日のクライアントって十八時には終わるよね?」
ローパーテーションの向こうに居る上市は、然も今、気付いたと言う態で顔を上げ不機嫌さを隠しもせずにこう答えた。
「予定はそうだけど、何とも言えねーよ」
「…ま、そりゃそうだけど…」
紅緒としては、本日の直帰コースの事を思うと憂鬱だったのだ。
上市と一緒に営業に廻って直帰となる。イコール二人で飲む。此れは長年のセオリーな訳で、紅緒としてはもう避けたい事であった。友人に徹するのが難しい今、出来れば上市と二人と言うシチュエーションは避けたい。
だから椎木からの誘いは願ってもない其れだった。
「椎木さん、今夜何か有るんですか?」
「友達から、映画の試写会のチケット貰ったんだ。九段下で十八時半開場なんだけど…まじ無理なら良いよ?」
先日の礼も返したいと思っていた紅緒は「行きます、是非」と強く答えた。
上市は眉根を寄せ、紅緒を見上げた。仕事よりもプライベートを優先させようとする紅緒が解せなかったのだ。紅緒はそんな上市の視線に気付きながらも、敢えて何て事のないように上市に言う。
「上市、て事なんで頑張って十八時には終わろう! 椎木さん、上映は十九時からでしょ? 行きますから、絶対!」
紅緒のこの不自然な受け方を、上市は勿論の事、技術部の小名木や杵淵、はたまた亜紀子も内心首を傾げる。
椎木だけが、紅緒のその振る舞いの意味を理解していた。
そして更に、紅緒は自ら墓穴を掘る。
「この前は奢って貰っちゃったんで、今日は私が御馳走させて下さい」
「え、滝川さん、カナさんと食事に行ったんですか?」
杵淵が流石に割って入る様に二人に話し掛けた。紅緒は明言を避けるように「あー」とか「んー」とか答えて、横で其れを見ていた椎木が助け舟を出す。
「相談事があるって言われてね」
同意を得る様に椎木が、紅緒に顔を向けて首を横に傾けた。
椎木がそんな仕草を紅緒に向け、紅緒が少し焦った様に視線を泳がせて「はい」と、か細い声で答える。その光景に誰しもが目を疑った。
二人にしか解らない空気を醸し、椎木の見せた表情が異性に向ける甘いもので、其れに戸惑う紅緒も珍しい。
静まり返った空気を切り裂いたのは他でもない紅緒だった。
「じゃ、私は出掛けてきます。社には戻りませんので、椎木さん会場で宜しくお願いします」
硬い挨拶をして紅緒は事務所を出て行った。
「ナンデスカ今の」
冷たい声を発したのは、亜紀子だ。亜紀子は、入社してからと言うもの紅緒に傾倒している所が有った。社内切っての優男が、大好きな紅緒に手を出したのではあるまいかと、亜紀子が椎木を睨み付ける。
詳細は語られないが、紅緒と亜紀子は共通して異性に対して警戒が強い。紅緒の方は未だ良い。上市とはこの六年仲良く切磋琢磨してきたのだし、他の社員とも円滑に仕事が進められる。だが、亜紀子はそうではなかった。同僚とは言え、紅緒と副社長以外の人間とはまともに口も利かないのだ。必要以上に近付くのも御法度な程で、仕事の遣り取りも言葉少なだ。
綺麗な顔を持って生まれた亜紀子。過去に何が有ったと言うのだろう。
「綺麗な顔で睨まれると凄味が有るね」
そんな事を平然と言い返す椎木は、『君に説明する義務は無い』と冷たい視線で亜紀子を黙らせた。彼女の整った顔が顰められる。
「紅緒さんを傷つける人は、許さない」
”俺はその立場にない” と椎木は声にならない声で呟き、椅子に腰掛ける瞬間目の前の上市に目を遣った。一瞬、視線が絡んだ二人であったが笑みを作ろうとした椎木よりも先に、上市が瞼を伏せ袖机の引き出しを開けて何やらファイルを取り出す。
椎木は自分の手元に有るチケットを、もう一度見た。
◇
「上市っ…お疲れ」
紅緒と一緒にクライアント先に向かう為、上市はコーヒーショップで彼女と待ち合わせていた。今時では珍しい喫煙可能の店内で上市が何本目かの煙草に火を点けた時、紅緒は息急き切って現れた。
クライアントとは十七時に約束を取り付けてある。この店からクライアント迄、徒歩五分で行ける距離で今、現在は十六時三十五分。彼女がコーヒー一杯を飲める位は余裕が有る。
だが紅緒は、テーブル上の灰皿に積まれる吸い殻を見て、随分と上市を待たせてしまったのだと申し訳なく思った。紅緒は常日頃から、全てにおいて十二分に余裕を持って行動をする人間であるからして、駅からこの店迄の距離を急いだのである。
上市は深く吸い込んだ煙草の煙を、目の前に座ろうとした紅緒に向かって吐き出した。
「…よっぽど今夜の約束が大事らしい」
「…え?」
「何なら俺だけでこれから客先に行っても良いんだぜ?」
上市は卑下た笑いを浮かべて、そう言った。
”からかう” のレベルではない。上市は正に、卑下した笑いを紅緒に向かって落としたのだ。
其れに気付かない程愚鈍ではない紅緒は、湧き上がる怒りを抑え表情を失くした。自分の台詞に紅緒が顔色を変えた事は上市も解ったが、決して動じなかった。
暫く二人の間に沈黙が流れ、紅緒は一度瞼を伏せた後、手にしていたバッグを持ったままカウンターに行ってしまった。上市は人差し指と中指で挟まれている煙草を口に咥え、カウンターではない何処かへ視線を遣った。
数分が立ったが上市の前の椅子が引かれる気配が無い。上市は煙草を揉み消すと顔を起こし、店内を見回す。紅緒は入り口付近の二人掛けテーブルに腰を落ち着かせていた。コーヒーを啜りながら、ラップトップを覗いている。
ビジネスモードの紅緒に、怒りを纏う雰囲気は無い。
上市は自分の言動を悔いる様に額に掛かる前髪を掻き上げ、大きく溜め息を吐いた。煙草を吸っている間に幾らか頭が冷えた様だ。
クライアントとの約束の時間は十七時。その十七時はどうやったって前倒しにはならない。だから、紅緒が上市との待ち合わせにあんなに急ぐ事は無かったのだ。つまり、普通に解釈すれば紅緒は上市の為に、駅から走ってやって来た。
其れを朝の遣り取りから曲解して、酷い物言いをした。
上市は隣の椅子に立て掛けていたブリーフケースを持ち、静かに席を立つ。そして、紅緒の座るテーブルへとゆっくりと歩いた。
「悪い。虫の居所が悪かった」
上市は、謝罪とは思えない存外な口振りで紅緒を見下ろす。紅緒はディスプレイの上方に上市を認めて、彼からの言葉を受け取った。
上市の高潔さが好きだ。
紅緒は常々そう思っていた。
けれど、先程のは酷い。
確かに椎木と約束はした。だが、仕事を放ってまで其れを遂行しようとは微塵も思っていなかった。今回のクライアントとの打ち合わせは二回目で、そうそう長引くとは想定していない。その見解に上市も同等な筈だ。
其れを解っていて椎木と約束を交わしたのである。なのに。
なのに上市は彼女を、”仕事よりもプライベートを優先させるような奴” と判断したのだ。
この六年、そんな事をした事はただの一度もない。六年越しの友情を疑った。
紅緒は胃を迫り上げてくる吐き気を押し込め、心を落ち着かせるよう呼吸を整えた。上市が、紅緒が嫌うそんな男だったとは思いたくなかったが、此れで良かったのかもしれないとも思った。
潮時なのだと、思った。
「気にしてない」
紅緒は、目を細め薄らと口角を上げるとそう答える。上市は紅緒の作られた笑みを見つめ、顔を顰めた。




