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僕らの特別  作者: 壬生一葉
手の届かない四百二十マイル
31/31

【6】

仕事とはいえ、恵麻の都合で二人は遠距離恋愛と言う道を選ぶに至った。小名木に一切の非は無い。


恵麻一人が寂しいと思い、どうして自分だけが辛いのかと悲劇のヒロインを気取って、傍に在る想い人では無い誰かに縋ろうとしている。独善的な思想の中で恵麻は、自分ばかりではないとも思う。


小名木だって、恵麻程では無いにしろ恋人と離れている事に平穏では居るとは考えにくい。自分だけではないと理論立ててみるけれど、心が追い付かない。



こんな事なら籍だけでも入れて、週末婚なるものを実行すれば良かったのだろうか。

何故こんなにも愛されてる事実が有るのに、不安に押し潰されそうになるのだろう。小名木が何処か余所見をした訳でも、恵麻を煩わしそうに扱った訳でもないのに、どうしてこんなに寂しくて辛いんだろう。



もっともっとと、どうして欲してしまうんだろう。此れ以上、小名木に何をさせたら自分は満足なのだろう。


何て強欲なのだろう。



距離が問題なら、職を手放して小名木の元へ帰れば良いものを、其れさえも決心出来ない。



脆弱な癖して強欲で…こんな女が小名木に相応しいとは思えなかった。

恵麻は自分がどうすべきなのか、心をどう鎮めれば良いのか解らなくなっていた。







   ◇




「真…私やっぱり…無理だよ…もう苦しくて…無理」

涙を目いっぱいに溜めた恵麻が悲痛な表情で小名木に訴える。小名木は小さく頭を振って「恵麻」と愛しい彼女の名を呼んだ。

「一年頑張ったよね。あと一年も無いんだよ?」

小名木が優しく語り掛けても恵麻は頑なに首を振った。

「そうじゃない…」

「え?」

「私…羽村さんと…」

恵麻がそう言った所で何処から現れたのか、羽村が恵麻の横に立ち彼女の肩を当然の様に抱いた。

「…嘘だ」

小名木は茫然と、二人を見つめる。羽村は困った様に眉を下げ、唇も引き結ばれていたが、でも何処か小名木を嘲笑している様でもあった。

「嘘、じゃない。彼女は、俺を選んだんです」

そう言うと恵麻は片手で自分の口元を抑えながら、羽村の胸に頬を預ける。其れはまるで二人の信頼関係を表している様だった。


嘘だ、嘘だ、嘘だ。


小名木は声無き叫びを上げる。


「恵麻っっ」





小名木はがばりと布団を剥ぎ、身体を勢いよく起こした。


「っ…あ…」


其処に、恵麻と羽村は居ない。有るのは、見慣れた小名木の部屋である。


「夢…ま…た…」


薄らと汗ばんだ額に手を当て、弾む呼吸を整える様にゆっくりと息を吐き出した。


もう何度こんな夢を見ただろうか。恵麻が辛さに耐えられず、自分に別れを切り出す夢を。今日に至っては、羽村と言うオプション付きだ。ただの一度しか面識の無い男の割に、現実味を帯びた台詞を言い放っていた。


「勘弁してよ…」


小名木は弱々しくそう呟いた後、重たい体を叱咤して立ち上がった。






小名木は、先日の電話口での恵麻の様子が気掛かりだった。”ごめん” ばかりを繰り返して、会話も儘ならず、何故だか精神的にも距離を感じた。拒絶された様な錯覚に陥ったのだ。


恵麻が寂しさを感じない様、小名木は出来うる限り尽力し、恵麻に愛を注いできたつもりだ。

其れでも彼女が不安を払拭出来ないのであれば、自分はあと何をしてあげたら良いのだろう。


「……」


小名木は、納品書の数字をチェックしていた筈の手を止めて、はたと気付く。


過日、亜紀子が言った言葉を思い出した。

『自分の好きな人が、自分を好きでいてくれる。其れで十分じゃないですか?』

確かにそうだ、そんな一番大事な事を見失いかけてた。

恵麻の不安を取り除くことばかりに目を向け過ぎていた。無論其れも大事だが、根本的な事は小名木の恵麻に対する気持ちは十年経った今も、褪せていないと言う事だ。


してあげたら(・・・・・)、だなんて、何と厚かましい事か。


これだけ尽くしてるんだから、寂しいなんて言うなと言っている様なものでは無かったろうか。小名木は此れまでの事を振り返り、恵麻に必要だったのは自分の身体では無かったと思い至る。


「杵淵、悪いけど車貸して」


終業時間迄、後五分。小名木は隣でミシンを操る杵淵に声を掛けた。


小名木は自宅に帰るより、会社に近い場所に住む杵淵の家から彼の車を拝借した方が目的地に最も早く到着出来ると判断し、後輩である杵淵に頼み込んだのだ。




   ――― もう悪夢を見るのは、御免だ







クラス毎のオリエンテーションが終わり、ホッと一息吐いた恵麻に、羽村が声を掛けた。「今夜、一緒に食事でもどうですか」と。オリエンテーションは明日にも続き、明日が終わると学校挙げての打ち上げが予定されていた。

其れよりも一日早く、羽村に声を掛けられた。勿論”初日の打ち上げ” 等では無い。

もう少し艶めいたものである事は、流石の恵麻にも解っていた。けれど、先日の体調不良の際、彼に迷惑を掛けてしまった事には変わりない。お詫びも含め、一度きちんと礼を言わなければなるまいと思っていた恵麻は、彼の誘いに乗った。


羽村が恵麻を連れて行ったのは、カジュアルフレンチのレストランだった。

カジュアルと言えど、きちんとした給仕が恭しく首を垂れた。円形テーブルの四人掛けに、恵麻と羽村は対面する形で腰を下ろす。羽村は「職場の人ともよく来ます」と言った。嘘か真か恵麻には解り得ない。ただ恵麻が、小名木ではない男と二人っきりで食事をしようとしている事に変わりは無かった。


恵麻は戸惑いながらも、先日の事を詫びて礼を言う。羽村は、学校の食堂が美味しいから自慢するのは当然、と言う同じスタンスで、恵麻を助けたのは『当然』だと口にした。

羽村の行いが、恵麻を思う気持ちの一つだと言うのも解る。解るけれど、恵麻は其れを手玉に取るような真似はしたくなかった。


「何を食べますか?」


羽村は勝手にオーダーする事なく、恵麻に尋ねた。言わずもがな小名木で有れば、恵麻の好物を知り尽くしている。恵麻は小名木と居れば、どんな店に入っても『美味しい』と思うものしか口にした事が無かった。

当然だ。小名木は、恵麻の苦手な物は最初からオーダーに入れないのだから。


恵麻は改めて、小名木が恵麻に施してきた愛情に感服する。

当たり前の様に受け取ってきた物は、小名木が、恵麻を想うからこそ成せる業だったのだ。

小名木からの、特別なギフトだ。


   ――― 私は何をしているのだろう


恵麻が自己嫌悪に陥ったその瞬間、彼女の斜め前に人の影が現れ、ガタンと椅子が引かれる音がした。そして、恵麻は其れがまるで幻かと、自身の目を疑った。



「どうも」

「っ」



此処は名古屋で、本来なら彼のテリトリーでは無い。なのに、恵麻と羽村が囲むテーブルに、小名木が腰を下ろしていた。


「オリエンテーションが終わると、講師と事務局の人間が二人っきりで打ち上げをするのは、この法人では当然の事で?」


小名木は仕事終わりに、杵淵から借りた車をオーバーヒートを懸念する程酷使して、休憩も入れず高速道路を突っ走って来た。猛スピードに因る身体への負荷やステアリングを握る手に、未だその感触が残っている。

小名木が、恵麻を求め訪れた専門学校で、彼女が羽村と二人夜の街に消えたと聞いた時の焦燥感は筆舌し難い。


突如現れた第三の人物にもギャルソンは、卒なく水の入ったグラスをサーブした。小名木から何らかのオーダーを待ち、冷えた水の入ったボトルを手に戻した後、ギャルソンは姿勢を正す。


「僕は結構。直ぐに失礼します。あぁでも喉が乾いたので此れは有り難く頂きます」


そう言うと小名木は綺麗な仕草で ―― まるでワインを嗜む様に ―― ワイングラスを持ち上げて口元に運ぶ。ギャルソンが会釈をして立ち去る前に、彼は其れを空にした。

テーブルクロスの上にグラスが静かに置かれ、小名木がふぅと小さく息を吐き出す。恵麻は判決を待つ囚人にでもなったかの様に、目を瞑り小名木の言葉を待った。


「恵麻。君は今日、打ち上げが有るから夜の電話は出来ないと言った。此れが君の言う打ち上げ?」

「…」

「答えないのは肯定と取るよ」

「…」


小名木の表情に負の感情は見られない。終始、冷静に状況の把握に努めている様だ。だが羽村は黙ってはいなかった。


「止せ、古関先生を責めるな」

「ねぇ聞きたいんだけれど、君は俺が何をしても怒らないなんて本気で思ってる訳じゃないよね?」


小名木の声色が一層冷めたものに変わる。恵麻は其処で初めて身体をぴくりと揺らした。


「止めろ、小名木さん。彼女はもうアンタとの付き合いに疲れてるんだ」


羽村の台詞に、違うと恵麻は心の中で叫ぶ。小名木との付き合い(・・・・)に疲れた訳では無い。小名木の事は今も変わらず愛してる。けれど、もうこの距離に、彼の愛を飽く事なく欲してしまう自分に辟易しているのだ。彼に変わらぬ愛を注がれても、満たされぬ欠陥の器を持つ自分が、死ぬ程嫌なのだ。



「恵麻、俺に嘘を吐いて迄他の男と食事をしたかった?」



小名木のあくまでも静かな物言いに、彼の怒りの程を知る恵麻は、テーブルの下に隠れた両の手の拳を強く握る。

恵麻の知る限り、小名木が声を荒げて怒りを露わにした事は無い。小名木の優しげな問い掛けは ―― 彼を良く知る人間でなければ ―― 彼の心情を測る事が難しい。


「俺が、嘘を嫌いと知っての、行動?」


とうとう恵麻は泣き出した。


小名木が怒り心頭に発し、静かに恵麻を糾弾している。羽村は信じられないと言う顔で、恵麻を責めた小名木を睨み付け「アンタいい加減にしろよ」と低く呻った。羽村の存在(ひとこと)は勿論、小名木は恵麻の涙を見ても顔色一つ変える事は無かった。


未だ彼は、彼女の答えを聞いていないのだ。


「ごめ…んな……い」

「謝って欲しいんじゃない」

「…寂しかった…」


はらはらと涙を幾つも幾つも零しながら、恵麻はやっとの事で言葉を口にした。


「寂しかったの…真が…居て欲しい時に、居ない…事、が。我慢、したかった…に、全然、だ…駄目でっ」

「そんな自分が嫌になった? 俺が嫌になったんじゃない?」


恵麻はまるで幼子の様に、両手の甲で右頬と左頬に流れる滴を拭いながらコクコクと頷く。小名木は待ちに待った恵麻の答えにようやく表情を緩めた。目を細め、うっとりと言う表現が正にぴったりくるその眼差しを恵麻に向ける。

小名木の緩やかに変化した顔付きに、羽村は息を飲んだ。



   ――― 敵わない



羽村は強張っていた肩の力を抜き、ゆっくりと一度瞼を伏せ息を大きく吐き出した。



「全部言って、恵麻。俺に出来る事なら何でもする。会社辞めてこっちに来るんだって良い」


突拍子の無い事を言い出した小名木に、流石に恵麻は慌てて「真っ」と制止させる。小名木の方はと言うと、にっこりと恵麻に微笑んでいた。



「恵麻を失わない為なら、どんな事も厭わない」



治まりかけていた恵麻の涙は湧き水の様に、止め処もなく溢れ出した。

こんなにも大きな愛情をもって自分を包んでくれる人を、どうして一瞬でも手放せるなんて思ったのだろうか。小名木を前にして、欠陥品と言うレッテル等無関係なのだ。小名木は欠陥品そのままを愛でてくれるのだから。



「真、あり…がと…有難う」

「恵麻の有難うが、俺は好きだよ」






   ◇





恵麻は結局、三年目の名古屋での任期は断った。恵麻も組織の人間で、その選択がどう恵麻に反映するかも覚悟の上だった。だが、理事長や主任講師は残念そうな顔をしただけで、すんなりと其れを飲んでくれた。羽村の顔を思い浮かべた恵麻だったが、敢えて彼に尋ねる様な事はしなかった。


恵麻は予定通り、来年の三月で名古屋校から離れ東京へと戻る事が決まった。







そして今日も小名木の携帯には、恵麻のお弁当の画像が添付されたメールが届いていた。彩り豊かな栄養満点の恵麻の弁当は、何時もの事ながら美味そうだ。


夕刻十八時を過ぎれば、腹も減って来る。小名木は恵麻からの画像を盗み見て微笑み、こう言った。






「あー、彼女の手料理が食べたい」












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