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僕らの特別  作者: 壬生一葉
手の届かない四百二十マイル
30/31

【5】

小名木は定期連絡のこの時間になっても、携帯が着信を知らせない事に首を傾げた。右手で携帯を弄びながら、左手に有る母親が作った握り飯に齧り付く。

一昨日も昨日も今日も、恵麻からの弁当画像のメールが届かない。一昨夜電話で話した時は、疲れている様子だったけれど其れ以外は普通の態度だと思っていた。


   ――― 何か有った?


恵麻の些細な変化を見落としたのか? と小名木は電話口での会話を頭の中に反芻させる。恵麻本人もオリエンテーションが近いから忙しい上に、講師の一人が妊娠して悪阻が酷いらしく、学校に来たり来なかったりで受け持ちのコマが増えたとも言っていた。そう言いながらも小名木の体調にも気遣って、食に関する生業の為か、そろそろ食中毒も気を付けてと毎年恒例の注意事項を言い渡されたのだ。


何を見落としてる? 小名木は携帯を乱暴に机に落とし大きく息を吐き出す。


「…珍しいですね。小名木さんが苛々してるの」


小名木は勢いよく斜め左後方に振り返る。其処には首だけを此方に向けて座る事務員の亜紀子が居た。昼時になり、小名木と亜紀子だけが事務所に残っていたのだが、小名木はすっかり彼女の存在を失念していた。


「…あ、悪い吃驚した、よな」


机に転がった携帯を包む様に持ち上げた小名木は、亜紀子から目を逸らして頭を下げる。


「いえ」


亜紀子は其れだけ言うと、パソコンの画面に視線を戻した。

苛々している等と指摘された事が恥ずかしかった小名木は、場を繕う様に亜紀子の方に身体を向けて訊く。


「休憩中も仕事?」

「いえ、ネットショッピングです」

「ふーん? 服とか?」

「いえ、結婚指輪っぽい指輪です」

「…ふーん?」


亜紀子の回答に小名木は疑問符を顔に貼り付けたが、其れを深く掘り返すつもりはなかった。

亜紀子は普段社内の男性社員と碌に会話をしない。同性の紅緒や副社長とは普通に会話出来るのだから、

”人見知り” の括りでない事だけは解っている。だからこそ、小名木を始め西田商事の男性社員はいまいち亜紀子という女性を理解出来ていないのであった。


二人しか居ないと言う気安さで、彼女がもう少し自分の話に付き合ってくれるのではないかと、彼は安直に話を切り出した。


「藤井さんはさ、遠距離恋愛ってどう思う」


亜紀子はマウスを動かした後、まるでブリキの玩具の様に首をぎこぎこと左に回す。綺麗な顔立ちをした亜紀子は、無表情でも美しかった。


「どうとは?」

「あー…大変そうとか、可哀想とか? 俺よく言われるから」


小名木も何を彼女に求めてそんな質問をしたのか、自分でも解らなくなって俯いてしまった。


「大変、なんですか?」


逆に亜紀子から、そう問われ小名木は答えに窮した。


「自分の好きな人が、自分を好きでいてくれるなんて事、そうそう有り得ない事。其れで十分じゃないですか?」

「でも正論でしょ…実際は、色々大変なんだよ?」


こんな言い方をしたら、小名木が遠距離恋愛を大変だと肯定している様なものだった。


会いたい時に会えない事や、金と時間を掛けて、体力を削って、寂しい気持ちに蓋をして…少しずつの無理を重ねた上に成り立つ遠距離恋愛。


「じゃぁ止めれますか? 通じ合ってる心を、断ち切れますか?」

「っ」

「…一方通行でも気持ちって、簡単に終わらせられないものですよ」


亜紀子に何かを齎して欲しくて訊ねた訳じゃないのに、求めていた以上のものを返されて小名木は言葉を失った。





『男』だから平気と言う訳では無い。大人になったからって、男だからって、寂しいって気持ちを持ち合わせていない訳じゃない。大人ぶって、仕事にのめり込んで、子供みたいな我が儘はひた隠しにする。そうやって誰もが自分の気持ちに折り合いを付ける。


小名木は、自分は庇護欲が強い方だと思う。だから恵麻を守ってやりたいと、彼女の為なら何でもしてやりたいと思っていた。其れを重荷に感じた事は無い。

だが、メールの文字や電話越しの恵麻の言葉は簡単に嘘を吐く。


『飲み過ぎないように』

『大丈夫』

『私も頑張る』


面と向かって恵麻に其れを言われたら、嘘を見抜く事は簡単だ。


『他の女の子と飲みに行かないで』

『大丈夫じゃない、抱き締めて』

『頑張るから、傍に居て』


恵麻の瞳が、全身がそう訴えかけるからだ。


確かに亜紀子の言う事は正しい。けれど、距離が二人の邪魔をする事も有る。

小名木は届かないメールに悶々としながら、次恵麻に会えるのは何時だろうかと算段し ―― 頭の片隅から剥がれる事のない ―― 恵麻に想いを寄せる羽村の顔を思い出す。


羽村の事で嘘は吐いてくれるなよ、と小名木は切実に願った。







   ◇




「古関先生、顔色悪いですよ」


食堂のテーブルで、目の前の膳に手を付けずただじっと座っている恵麻の顔を覗き込むように、羽村は腰を屈めた。其れにハッとした様に恵麻は背筋を伸ばし「すみません」と反射的に謝っていて、羽村は小さく息を吐く様に笑った。


「すみませんって」


何かを話し掛けられていると思った恵麻は、その羽村の台詞を聞き逃したと思い謝罪したのだが、どうやら其れは思い違いの様だ。


「久保井先生の講義も受け持って、オリエンテーションのリーダーも買って出たそうですね。どうしたんですか?」


羽村は自分のトレイをすんなりと恵麻と同じテーブルに置き、彼女の目の前に座った。どう答えて良いのか恵麻が逡巡している内に、羽村は溜め息の後に汁椀を手に取って口元に運ぶ。


「自らを多忙に放り込む事で寂しさを紛らわせてるってとこかな」


言い当てられた恵麻は、否定も肯定も見せなかった。


「栄養士が、きちんとした栄養取らないで生徒に何を教えるんですか。ほら、せっかく食堂の人達が作ってくれた飯、冷めますよ」

「ですね」


恵麻はのろのろと箸に手を伸ばし、すっかり冷めてしまった味噌汁を啜る。


「美味しい」

「当然です」


羽村が作った訳でもないのに、そんな言い方をするから恵麻は笑ってしまった。何故笑われたのかを承知している羽村はこう続けた。


「我が校自慢の食堂です。其処で働く俺は其れを自慢するの当然でしょ」


恵麻は最近知ったのだが、羽村は理事長の遠い親戚にあたるのだそうだ。そのせいなのか愛校心が強く、学校運営がスムーズに進む様に努力を惜しまない人物だった。


「美味しいですね」


恵麻がもう一度そう言うと、羽村は真剣な顔付きになって

「美味しいもの食べて、元気になって下さい」

と彼なりのエールを彼女に送った。


羽村の言う通り、恵麻は名古屋での任期延長を打診され落ち込み、辞職を考えた程だった。けれど、抜けてしまった講師の穴を埋めるのは自分しか居ない事で、生来真面目な恵麻は放り出す事が出来ず、従事した。そして忙しさが寂しさを紛らわせてくれる事に一筋の光を見つけた。


追い込む様に忙しなく動き回り、寂しさと小名木の事を頭から追いやって、携帯に届く小名木からの恵麻を案じるメールを見て後悔するのだ。


「古関先生」


羽村に呼ばれて恵麻は食事の手を止めて顔を上げる。


「弱みに付け込むような事したくないんですけど、俺に出来る事有ったら言って下さい」


この(ひと)は何時も直球勝負だなと恵麻は思う。小名木の様に包み込むような愛情ではなく、ぶつかってくる愛情だ。絆されているつもりはないが、彼の気遣いは何時も恵麻を助けてくれていた。


「有難うございます。お気持ちだけ、いただきます」

「あーもー、もっと弱ってから言えば良かったー」


恵麻の言葉の途中で羽村が割って入ってくる。彼は眉を顰め、白米を口に放り込む。咀嚼しながらお喋りするなんて不作法だけれど、食べ物で頬を膨らませる羽村は愛嬌が有った。


恵麻よりも一つ年下の羽村は、時々子供っぽい真似をした。思ってもみない事を言って、恵麻を元気づけようとしてくれている羽村に感謝した。そして、癒された。






『オリエンテーションって土日なんだ』


恵麻は風呂から上がると小名木に電話した。来週の土曜日に行こうかと思うと言う小名木に対する返事だった。


「うん、ごめん話してなかったっけ?」

『もしかしたら俺が勝手に平日って思い込んでただけかも』

「ごめんね? もうチケット買った?」

『ううん恵麻の予定確認してからネットで買うつもりだったから』

「ごめんね」


濡れた髪にタオルを被せた状態で恵麻は小さな冷蔵庫の中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。


『じゃぁ終わって帰った頃、電話する』

「あ、でも…終わったら多分打ち上げで、帰るの遅くなると思う」

『そっか。だよな、打ち上げ普通有るよね。じゃぁ帰ったらメールして、遅くなっても良いから』


小さなキッチンの作業スペースにペットボトルを置いて、恵麻は自分の額に掌を当てる。ペットボトルを持っていた手が冷たくなっていて、ほんの少し頭が冴えた。


「ごめん」

『そんな謝んなくて良いって』

「うん…ごめん」


冴えた筈の頭からはやはり謝罪しか出ず、そんな恵麻に小名木は笑った。


『疲れて頭が回ってないのか、恵麻は。じゃぁ電話切るよ。ゆっくり休んで』

「うん、ごめん」

『ははは』


何時もなら嬉しい小名木の穏やかな笑い声が、恵麻の良心を抉る。




学校で教室への移動中、恵麻はふいに均衡感覚を失いリノリウムの床に倒れ込んだ。たまたま傍に居た生徒が事務局に走ってくれて、恵麻の身体を支え起こしたのは羽村だった。


「大丈夫、です。ただの、眩暈です」

「大丈夫って顔じゃないだろっ!」


医務室に運ばれて、養護教員が恵麻の症状を聞いて「過労かな?」と言いながら、近くの病院を教えてくれた。恵麻は礼を言い医務室を出たが、足がよろけて又も羽村の腕の中だった。



小名木では無い、羽村の腕。



自分とは違う熱に過剰に恵麻は反応した。其れに気付いた羽村は恵麻を解放するのではなく、指に力を込めて彼女を抱き寄せた。



「俺を頼れよ」



羽村の声が、苦しげに訴える羽村の声が、恵麻の鼓膜に焼き付く。

堪えていた涙が、ぽろりと零れた。






恵麻は、羽村に、安心を見出してしまった。








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