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僕らの特別  作者: 壬生一葉
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【3】

「滝川、お前ちょっと働き過ぎじゃないの?」


彼女の顔色が此処最近優れない事に気付いていた椎木は、残業中の紅緒に話し掛けた。紅緒は隣に座る椎木に向かって彼を安心させるように笑ってみせる。


「そうなんですけど、此れちょっと追い込みなんですよ」


確かにその案件の工期が押し迫っているのは確かだった。だが、営業である紅緒がこんなに最初から最後まで関わる必要も無いように思える。


「…無理、したい訳?」

「え?」


紅緒と椎木しか残っていない社内で、椎木は自分の前の座席に視線をくべた。椎木の目の前は、上市の席だ。


「上市の事、苦しくなった?」

「!」


何故、上市の名が上がるのかと紅緒は内心焦り、其れでも平静を保とうと笑い顔を作り首を傾げる。そんな表情の紅緒に対し椎木は、何でもお見通しだよと微笑んだ。


「俺を甘く見ないでよ」


そうだった…この男性(ひと)は、恋愛なんてお手の物の人だった。自分の恋心等、彼には筒抜けなのだろう。何せ、六年にも渡る片想いなのだと紅緒は思った。


「…ですね。お見逸れ致しました」

おどけた調子で言葉を返す紅緒に、椎木は又眦を下げる。



つい最近、上市が誰かの紹介で女の子と付き合いだした事を知った。当分恋愛なんてと言っていた癖に、”彼女” を面倒だと言っていた癖に。その舌の根も乾かない内に、彼女を作った様だ。

今日もその彼女と会うらしく、彼は割と早い時間に会社を退いていた。


「告白する気、ないんでしょ。だったら、諦める方向に進む訳?」

「…諦めたい、ですね。出来れば早々に」


そんな事を言う紅緒は、一緒に仕事をしている時の彼女とは似ても似つかない弱弱しさを椎木に見せる。椎木はもう何年も前から、彼女の上市に対する恋情に気付いていた。紅緒の上市を見つめる瞳に友情以外の想いが上乗せされている事に。

苦しい想いだろうなとも案じていた。誰よりも傍に居て、だけど想いを溜め込む一方で、聞きたくもない上市の女の話をずっと近くで聞いていた彼女。


当の上市は、紅緒の想いに気付いていない。其れが幸か不幸かは椎木にも解らない。


ただ一つ言える事は、上市にとって紅緒は気の置けない相手で今現在最も『特別な人』である事だろう。



「そう出来たら、楽だろうね」

「ホントですよ! こんなに近くに居て告白も出来なくて…何か…逃げ場がなくって…どんどん苦しくって…私、アイツが本当に心から好きな人と出逢って結婚するとか言い出したら『おめでとー』って言えるか自信無くなってきちゃったんですよ……そんなの友達じゃないじゃないですか…友達だったら、アイツの幸せ喜べるじゃないですか…」


紅緒はだんだんと瞼の裏が熱くなっていくのを禁じえなかった。この六年、誰にも話したことのなかった自分の想いを椎木に零して、自分を守るための防御壁が脆く崩れ始めた。


「…良いよ、吐き出して。全部」


椎木はそう言うと紅緒に向けていた体を正面に戻して、マウスに手を伸ばした。紅緒はデスクの端に軽く握った両拳をちょこんと乗せて、其処に視線を遣りながら言葉を続ける。


「もう恋愛とか自分には…無理、だと思ってた。誰も好きになるもんか…って。思って、た…それなのに…」


椎木が自分の話に耳を傾けながらも仕事の最中で有るかのように装って、ただただ静かに其処に居てくれる事が今の紅緒にとっては救いだった。親身になって欲しい訳じゃない、下手な慰めも要らない。

ただ何処へもやれないこの積もり積もった行き場の無い想いを、誰かに聞いて欲しかった。


「人として、尊敬、してる…憧憬が大きくなって、でも気の抜けたとことか、男らしいとことか…そう言うの…良いなって…好きだなって…思ったりしちゃ、いけなかったんだろうけど…止めなきゃ止めなきゃって思っても……手が届く所にアイツが居て……」


堪え切れなくなった涙が一滴、紅緒の頬を伝い彼女の太腿にぽたりと落ち、パンツスーツに小さな染みを作った。


「…どうしたら、止められるのかな…」


紅緒の口から放たれた苦しげな質問に、椎木は持っていた答えを返せないまま目の前のパソコンのディスプレイを見据えていた。



紅緒の真面目な性格から言って、他の男に鞍替えするとか、簡単に自然消滅は望めない。

上市を視界に収めないか、玉砕するか、どっちかしか手は無い筈だ。けれど、椎木が紅緒にそんな事を言おうものなら、彼女は馬鹿正直に会社(ココ)を辞める道を選びかねない。上市に対してこれだけ臆病なのに、生来の彼女は潔いもので、この会社のキャリアを辞する事も厭わないだろう。


「…会社」

「其れは、駄目」

「椎木さん、未だ私何も」

「だったら上市を馘首して貰うよう社長に直談判する」


紅緒は一瞬瞑目して、でも直ぐにそんな事を出来る訳無いと、吹き出す様に笑った。泣いてたのに、笑った。


「滝川、駄目だよ。此処で培ってきたもの簡単に捨てちゃ。仕事、だけじゃなくてさ、上市に対する気持ちもそうなんじゃないのかな…俺はお前の気持ちが解ったし、幾らでも悩み聞く事は出来るよ、これから」


捨てれないから、困ってる。吐き出せないから、苦しんでる。


椎木に話した所で何の解決にもならない。諦められる訳でも、上市の友人に徹する事も当分難しい筈だ。それでも…それでも、さっき迄よりは呼吸をするのが楽になった。


「今日は此れで上がりますか。オニーサンが可愛い後輩に奢ってあげますよ?」


椎木はそう言って、大抵の女性なら頬を染めてしまう程の笑みを覗かせた。


無理に頑張って仕事を終わらせるよりも、此処は潔く飲みに行く事の方が魅力的に思える位には、気持ちが軽くなった紅緒は、指の腹で両頬を擦る。それから会社で泣いてしまった事を恥じるように俯いて「御相伴に預からせて頂きます」と、常の彼女らしく応えた。






椎木が紅緒を連れ立ったのは、国道から一本道を中に入った通りに面する商業ビル。ビルの一階がガラス張りのイタリアンレストラン、店内の照明は絞られており街路灯の明かりが煌びやかに映った。

「…椎木さんてモテキャラ全開ですね」

席に着くなり紅緒は感心した様に、椎木に向かってそう言った。整った容姿に、仕事は有能、更に女性を喜ばせる術も熟知しているらしい。

「何か藤井が言いそうな台詞だね、其れ」

微苦笑しながら椎木はテーブルを指先で少し叩いた。直ぐ傍でスタッフが白ワインを丁寧に注いでいる。


窓際の席を案内された二人は、ワイングラスを少しだけ掲げて乾杯を済ませる。

「此処、叔父のやってるレストランなんだ。味は保証するけど、色々五月蠅いから滅多に来ない」

「五月蠅いって?」

冷たいワインが喉元を落ちていく。甘過ぎず辛過ぎず、紅緒の好みの味で彼女の頬が自然と緩んだ。其れに目敏く気付いた椎木も目を細める。

「連れてきた相手についてとか、連れてきた相手についてとか、連れてきた相手についてとか」

紅緒は綺麗に揃えた指で口元を隠しながら、この店内に最適の音量で笑い声を上げた。


椎木の話は面白い。仕事に特化せず、何気ない生活感溢れるお喋りも楽しい。酒の勢いも手伝ってか、何時もの紅緒よりも饒舌だ。


「椎木さんは、今は彼女とかいらっしゃらないんですか?」

「今は捕獲追い込み中」


ワイングラスを口元に寄せながら、意味深な言葉を妖艶な表情で紡ぐ椎木は恐ろしい程色香を放っていた。紅緒の心臓が、思わずビクリと跳ねた。幾ら紅緒が椎木に対して異性の其れで魅力を感じていないとしても、今の顔は反則だ。


「…椎木さんなら…必ず捕まえるんでしょうね…」


其れに引き換え、自分はどうだと楽しげだった気持ちが少し萎む紅緒。ところが、椎木が返してきたのは何とも心許ないものだった。


「今回ばかりは…どう、かな」


頬杖をつき、窓の外を見る椎木は紅緒の知る何時もの彼ではなかった。











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