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僕らの特別  作者: 壬生一葉
手の届かない四百二十マイル
29/31

【4】

「お疲れ、小名木」


怒涛の縫製作業が終わって、事務所の大判のデスクに突っ伏していた小名木の身体の傍に、同期である紅緒が缶コーヒーをコトリと置いた。

小名木は伸ばした右腕に頭部を預け、彼の左側に立つ紅緒を見上げ礼を言う。もう一度両腕を伸ばしてから、上体を起こして椅子の背凭れに寄り掛かった。


「流石に五日はきつかったね」

「もう両手の震えが止まんないけど」


小名木がデスクの上に両手を翳し、生地を前方へ送る仕草をして苦笑いを零すと、紅緒はけらけらと笑う。紅緒は特別な容姿をしてる訳でもないのに、笑うと何時もの凛々しい表情が一変して愛らしくなり、目を惹きつける不思議な女性だ。小名木は缶の縁に口を寄せながら、紅緒をじとっと見つめる。


「何?」

「滝川は何時も笑ってれば良いのに」

「…何か其れって阿保な子みたいじゃない」

「いやいや其れ受け止め方が可笑しいよ」

「そ?」


紅緒が又笑った。目が三日月に形を変え、薄い唇からは白い歯が零れる。小名木は紅緒の笑顔を見て、そう言えば恵麻の心からの笑い顔を見ていないなと、疲弊した頭で思った。


「ゴールデンウィークにキャンプ行こうって話、出てるんだけど、小名木って名古屋(むこう)行く予定にしてるの?」

「ううん、彼女がこっちに来る。てか何、キャンプって」

「社長がね、今更ながらアウトドアに嵌ったらしくてコテージ借りるんだって。西田商事の懇親会兼ねてどうかって」

「懇親会がキャンプってのも乙だねぇ」


小名木は自分の後ろのデスクに収められていた上市のキャスター付きの椅子を引っ張り出し、紅緒に勧める。紅緒は「有難う」と言い、其処へ腰を下ろした。


「椎木さんと杵淵君は行くって。私もそういうのやった事ないから行こうかなって。小名木も、もし良かったら彼女誘ってみたら?」

「キャンプかー」

「バーベキューだけ一緒して、どっか近くの宿、泊まっても良いんだろうし」

「あぁそうだね。彼女に訊いてみる。上市は? 行くって?」

「何か彼女と約束が有るんだって。千葉のテーマパークお泊まりだって」

「…何かキャラじゃなくない?」

「同感」


そう言った紅緒が不満顔に見えて、小名木は茶化す様に言った。


上市(はんしん)が来ないと知って、寂しい?」

「何ソレ。上市と私は同士なのっ! 変な事言うとコーヒー返して貰うよ」


目を吊り上げ怒った真似をする紅緒が可笑しくて小名木は眦を下げる。紅緒は少しだけ元気を取り戻した小名木に安堵し、「今度倍返しして」と彼の肩を叩き席を立った。




小名木が会社主催のバーベキューに恵麻を誘った時、外遊び慣れてないからと彼女は戸惑っていたけれど、たまには外の空気をうんと吸うのも良いだろうと言う結論に至った。


千葉を南下し、やってきたキャンプ場は小名木と恵麻が想像していたよりも快適だった。綺麗なトイレに、キャンパー専用温泉なんてのも付いている。小さな子供向けに芝生の広場が有り、サッカーやバドミントンで汗を流している人が居た。


「俺の想像と随分違った。正直もっと…」

小名木が言葉を選んでいると社長が

「きったねーと思っただろ」

と歯に衣着せぬ物言いをして、にやりと笑う。小名木は苦笑いしながら「はい」と頷いてみせると、今は何処のキャンプ場もこれ位の設備当然だとしたり顔で教えてくれた。


「小名木、お前夜には帰るんだろ? 先にやっとけ」


そう言った社長が小名木に渡したのは缶ビールだった。十一時にチェックインしたばかりの筈だが、小名木より先に到着した社長夫婦と紅緒が既に昼のバーベキューの準備を始めていた。恵麻は、小名木の元を離れて紅緒と一緒に野菜を切っている。


「いや俺も何か手伝います。カナさんも杵淵も揃ってから乾杯しましょう」

「良いんだよ早い者勝ちって奴で」


何か言葉の使い方が間違っている気もしたが、上司から二度も勧められては小名木も断る訳にはいかなかった。


それから十分程して、杵淵の運転する車で杵淵と椎木がやって来た。どうやらキャンプ場の入り口が解り辛く迷っていたらしい。小名木は今日父親のセダンを拝借してきたのだが、新しいナビを搭載していた其れは小名木と恵麻を迷いなく此処へ連れてきてくれた。


「真」


小名木が椎木達と話をしている所へ、恵麻が缶ビールを抱えやって来た。小名木は三本分有る内の二本を椎木と杵淵に渡し、残りの一本を自分が取って、当然の如く小名木が飲みかけだった缶を恵麻に渡した。恵麻が「有難う」と言い、缶を受け取ると両手で其れを包み込む。其れを目の当たりにした椎木の唇は弧を描き、杵淵は怪訝な顔をする。

さっきまではしゃいだ様に喋っていた杵淵が黙ってしまった事を訝しく思った小名木は彼に視線を向け「杵淵?」と名を呼んだ。


「杵淵、お前今、何で小名木が飲みかけのビール、恵麻ちゃんに渡したのか解ってないだろう」

「微塵も」


杵淵の素直な反応に椎木と恵麻が相好を崩す。小名木だけが何の話だ? と不思議そうな顔をしていた。


「恵麻ちゃん、ビールあんまり得意じゃないの。小名木は其れ解ってるから、恐らく殆ど残っていないであろう缶ビールを彼女に渡した訳。因みに恵麻ちゃんも其れが小名木の優しさだと解ってるから”有難う” な訳」

「おぉー」


何事においても実直な杵淵は二人のそんな遣り取りに大袈裟と言う程、驚きそして感動していた。尊敬の眼差しさえ小名木に向けるので、小名木は戸惑う。


「体に染み着いてるから」と小名木が謙遜すれば、「いやいや、其れは愛だから」と椎木が冷やかすので、小名木と恵麻は顔を見合わせ、思わず笑みを零した。其れを見た杵淵は又「おぉー」と言った。



肉と野菜を焼き、小名木達は昼間からビールやワインで腹を満たした。夕方には千葉を出るつもりで居る小名木と恵麻は、片付けに率先して手を上げた。焼き網を洗う傍で、恵麻は皿やコップを洗っていた。


「外で食べるのってやっぱり美味しいね」

「バーベキューって不思議だよな」


二人は同じような感想を述べて黙々と洗い物を片付けていく。


「酔い、大丈夫? 私の方が飲んでないし、運転しよっか?」

「これ終わったらバドミントン対決するってカナさんが言ってたから、其れで抜けると思う」

「バドミントン? 真、出来るの?」

「逆にバドミントン出来ない人居るの?」

「…え? 私?」


小名木は束子を動かす手を止め、傍らの恵麻を見上げて、恵麻も水道からの流れ出る水をそのままに彼を見返した。一瞬の沈黙の後、二人は同時に笑い出した。


十年以上付き合っても知らない事が有るのだと驚きながら、まだまだ受け入れる真実は沢山有るものなのだと二人は知った。






   ◇




「―――― ですか? …古関先生っ」


恵麻は一瞬遠のいた意識を大きな声に引き戻され、目の前の人物に焦点を合わせた。膝の上で握られていた両手が知らず知らず震えている。


朝早く事務局の人間から理事長が呼んでいると伝えられ、講義前に理事長室に寄ると其処には理事長の他、講師陣を纏めている主任者がソファに並んで座っていた。彼らの話は、恵麻にとって残酷な辞令だった。


『あと一年、名古屋で講師として働いて欲しい』


その理由を幾つか彼等は説いたが、恵麻の頭の中に上手く其れは入ってこなかった。だが遠距離恋愛が辛いのでもう東京に帰りたいと断れる理由で無かった事は確かだ。



恵麻は何とか「考えさせて下さい」と言って理事長室を覚束ない足取りで退出した。壁に手を付きながら何とか足を前に運ぶ。けれど数歩歩いた所で恵麻は力尽き、左半身を壁に寄せると右手で口元を覆った。



   ――― 一年?



後八ヶ月我慢すれば、東京へ帰れると思ってた。指折り数えて小名木の胸に飛び込める日を待ち望んでいた。


「どうし…て…どうして…」


半月前、恵麻は小名木と一緒に彼の同僚達とバーベキューに行った。久し振りに心から笑った。小名木が、恵麻がバドミントンを出来ない事を知った様に、彼女も未だ小名木の事で知らない事も有る筈で、東京へ戻ったら、もっと沢山小名木と紡ぎ合って触れ合って分かち合おう、そう思ってた。

鬱屈した思いを発散させてきた筈だった。




なのに現実は、とてもとても残酷だ。




ただ、傍に居たいだけなのに。









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