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僕らの特別  作者: 壬生一葉
手の届かない四百二十マイル
28/31

【3】

「あのね…羽村さんに食事に誘われて、事務局の人とか先生とか皆で食事に行ったりしてね。真の事、聞かれたりするから」

「遠距離なんて凄いね? とか言われる?」

「うん…真も言われる?」

「この前、彦坂にそんな様な事言われたな」

「…そっか」


恵麻の声のトーンが又下がっている。小名木に言おうかどうしようかと悩んでいる様で、小名木は其れをきちんと汲み取って、彼女の言葉を代弁する。


「口説かれてる?」

「!」


的を得た事を言う小名木に、驚く恵麻。小名木は「彼の態度見てれば解るよ」と笑って言った。


「…直接的に言われてる訳じゃないけど、辛かったら何時でも相談に乗るから…とか何とか…」


恵麻は俯き頬に掛かったショートボブの髪を耳の後ろへと流す。勿論、恵麻が羽村に言われたのは其れだけでは無かった。食事も両の手では数え切れない程誘われていたし、気分転換にと映画のチケットもプレゼントされた。「好き」だと言われてはいないが、羽村の誘いが其れ込みな事は恵麻も解っている。


正直に言うと、羽村との事は余り小名木には話したくなかった。疚しい事は何一つとして無いが、恋人が他人からアプローチをされているのを快く思う人間は居ないだろうと思うからだ。

距離が遠くなった分、不安が増長するのを恵麻は感じていた。


小名木は、女が居る飲み会に参加する時は大抵画像付きのメールを恵麻に送る。どんなメンバーなのかも説明されている。彼なりの誠意だと、恵麻は思っている。

けれど、恵麻はそんなメールを受ける度に緊張が高まるのだ。

小名木がこの写真の中の誰かに心奪われてしまわないだろうか、小名木がこの写真の中の誰かと寄り添ってお酒を飲んでしまわないだろうかと、恵麻の心の中は疑心暗鬼に苛まされるのだ。

だから、恵麻は小名木からのこう言ったメールは不要だと思い始めていた。

知らないままにして欲しかったと、恵麻はそう何度も思った。飲み会を知らなければ、小名木は仕事が終わり実家に帰りビールを飲みながらスポーツニュースを見て、恵麻に「おやすみ」のメールをして眠るのだと思える。

だが受信してしまった小名木からの誠意のメール。恵麻の胸は張り裂けそうに痛む。

小名木の『飲み会』を無かった事には、出来ないのだから。



実の所少しずつ、少しずつ、二人の穏やかな時を刻む針にズレが生じ始めていた。








   ◇




「恵麻ちゃん、おはようっ」


学校最寄り駅を降り、歩道へ向かおうとする恵麻に声が掛かり、彼女は一度立ち止まって振り返った。


「おはよう、水島さん」


彼女は一年の時から、恵麻が担当しているクラスのリーダー的存在の子だった。明るく積極的で社交性に富んでいる十九歳の彼女は、良くも悪くも奔放だ。


「ねぇ恵麻ちゃん聞いてよ。ユウジがさ、仕事が忙しい忙しいって言って全然遊んでくれないから、私は私で高校ン時の友達とかと夜、遊び歩いてた訳…でさ、見ちゃったのよ、ユウジの浮気現場」


”ユウジ” と言うのは水島沙織の社会人の恋人だ。恵麻は此れまで、沙織から何度もユウジとの話を聞かされてきた。言葉通り、ユウジの事は沙織が一方的に恵麻に聞かせるだけの話だ。

沙織よりも四つ上の二十四歳、旅行会社の営業職に就いているのだとか。


「浮気?」

「そ、女とね腕組んでホテルが有る方に消えてった」


沙織の表情からは、苦渋等は読み取れない。寧ろ淡々と目にした事実を語っているだけだ。


「…ホテルに行ったとは…」

「恵麻ちゃん、そういう雰囲気って見てて判るでしょ? アレは初めてって感じじゃなかった」

「…」

「泣きそうになってさ、そしたら一緒に居た男友達がどうしたって…彼氏が浮気してるって言ったら、仕返せばって」

「え」


流石に恵麻は目を見開き絶句した。


「で、その子と寝たの」

「…」

「…何だろうね。ユウジの事すっごい好きだと思ってたんだけど…自分が浮気してもユウジに対して罪悪感とか全然無かった。まぁ…ユウジの方が先に浮気してたんだし…別に寝た相手に心迄あげた訳じゃないし…一回くらいバレなきゃ良いかって。だから多分ユウジもそうなのかなって」

「そうなのかなって…?」


恵麻とそう背丈の変わらない沙織は、ショートカットで長めの髪を左手で掻き上げながら恵麻に真っ直ぐな視線を向ける。


「多分ユウジも気持ちは私に在って、ちょっとした出来心で別の女と寝てるのかなって。バレなきゃ気持ち良い事続けられれば良いかなって思ってるのかなって。流石に私はさ、もう一回別の男と寝ようとか思ってないけど…男はさ生理的に出すもん出したりしないと駄目な訳でしょ」


何でそんな事を理解出来るのか、恵麻には理解に苦しんだ。もし真が、恵麻に気持ちが有って欲求を満たす為に他の女性を抱いたのだとしたら、とても許容できない。


沙織の言い分は自分の浮気の正当化にも聞こえた。

難しい顔をする恵麻に、沙織は眉をハの字に下げて微苦笑を零す。


「恵麻ちゃん、潔癖っぽいから私のこういう話は願い下げって感じだね…でもさ…恵麻ちゃん」


緩めていた口元を一度結んだ後、沙織は恵麻から視線を逸らし真っ直ぐ前を向く。


「私だって、寂しくて寂しくて誰かに抱き締めて貰いたい時も有るんだよ」


沙織はそう言うとふっと小さく息を吐いて、恵麻に「学校、行こう」と何時もの笑顔を向ける。歩き出した沙織の後を追う様に恵麻は足を一歩ずつ前に出す。


複雑な気持ちが恵麻の胸に渦巻いた。


沙織の、目には目を歯には歯をの精神は理解し難いが、彼女の寂しさなら恵麻にも解る。

小名木は会う度に彼女を抱き締めてくれるが、仕事で失敗をした時、愚痴を零せる友人が居ない時、どうしてもぬくもりが欲しい時、恵麻の手の届く場所に最愛の小名木は不在なのだ。


小名木はきっと、恵麻が寂しいと感じていたとしても気丈に「大丈夫」と振る舞ってしまうだろう事を解っている筈。だからこそ、彼も疲労の色一つ見せず数週間に一度名古屋迄足を運んでくれるのだ。恵麻は嬉しいと愛されていると、実感する。

けれどどうしたって、東京と名古屋との距離は縮められるものでは無い。


『今』抱き締めて欲しいと言う瞬間に、小名木は居ない。





こんな事を思う自分は、贅沢なのだろうと恵麻は思う。でもそのネガティブな思考は抑える事が出来なかった。






   ◇




「え、ちょっとカナさん、この納期ホント?」

「うん…悪い。どうしても工期きついから、テントも来週の水曜迄にあげて」

「…こんな数あるのに?」


オーニング仕上がりに五日間と流石に厳しい納期に小名木は頭を抱えた。杵淵と手分けしたとしてもギリギリだ。小名木を悩ますのは週末の名古屋行きの件も有った。納期内に仕上げるには、土日返上は覚悟しなければならず、恵麻に「行けなくなった」と言うのが心苦しかった。

最近の恵麻は小名木が会いに行っても、時折寂しいのを隠して無理に笑っている節が有る。恵麻は元々自分の感情を明け透けに見せるタイプではないので、小名木は彼女の変化に常に気を配っていた。


「悪い。手伝える事有れば俺もやるから」


営業の稼ぎ頭である椎木にそう頭を下げられては、此れ以上見っともない姿は晒せないと小名木は工程表から顔を上げる。


「了解です。生地一日で入ってこないと思うんで、入った分から縫製入りますね。俺、土日も出ますから申請お願いします」

「サンキュ助かる…あ、お前名古屋(むこう)行く日とかじゃなかった?」

「あ、大丈夫っス」


小名木は椎木にそう答えながら、今晩恵麻に電話を入れなければいけないなと思った。





『恵麻?』


恵麻は、小名木の声に思う所が有るのか携帯を握る手に力を込めた。


「ん、どうしたの? 仕事終わった?」

『今、帰り』


電話の向こうから車道を走る車の音が聞こえてくる。時刻は既に二十一時を回っていたので、恵麻は小名木からの電話を自宅のカーペットの上でファッション雑誌を目の前に受けていた。


『急ぎの仕事が入って…明日、行けなくなった。ごめん』


あぁ…と恵麻は苦しくなる胸を無意識に抑え、漏れ出す息を止める。仕事だ、解ってる、仕方ない事だ。頭では解っていても、心が追い付かないのだ。


「そっか…残念だけど…しょうがないね」

『来週に行くよ』

「い、良いよっ無理しないで。来週は今週分の疲れをゆっくりと取った方が良いよ。あ、私が来週行こうかな」

『恵麻、俺そんな老い耄れてないから』


小名木は電話口でそう笑った。

恵麻の方から東京へ行くと此れまでも何度か話題に上ったが、小名木は何時も其れをやんわりと断った。金銭的な負担を思うからだ。小名木は実家暮らしで、家に入れている金は恐らく恵麻の家賃にも満たない位の少額だ。だが恵麻は、セキュリティの高いマンションに一人暮らしをしている。互いに給料の話をした事は無いが、恐らく小名木の方が高給であるし、特にマニアックな趣味も無いから財布には余裕が有る。


「真が老い耄れてたら私もそうだって事だし、其処まで言ってないよ」


小名木の軽口に合わせる様に恵麻も言い返す。でも言った後にやはり胸がぎゅっと締め付けられる。この優しい声が間近で自分の名を呼び、あの大きな手が明日には自分を包んでくれると疑わなかった。でも、其れは叶わないものになった。




   ――― 我が儘だ



恵麻は雑誌のページを掴んでいた右手をぎゅっと握ってしまい、薄い紙がくしゃりと小さな音を立て歪んだ。


『恵麻、会えない日も俺はお前の事想ってるから』


恵麻の押し隠した気持ちを慮って小名木がそう愛を吐露する。ぶわりと目元に涙が浮かんだ。そう言われて嬉しくない訳ないのに、小名木の声が遠くから聞こえる。



「ん」



恵麻は小名木に気取られない様、涙を拭った。










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