【1】
「…っ!」
小名木真は体に纏わりつく暑い空気を剥ぎ取るように、被っていた布団を盛大に取り払った。
又、嫌な夢を見た。小名木は其れが夢だったと知り、深い息を吐き出すと呼吸を正す為に、大きな右手を胸に押し当てた。暫くそうしていた小名木だったが、安寧を手に入れると
「仕事行こ」
と独り言ちて万年床から立ち上がって、パジャマ替わりのスウェットを脱ぎ捨てる。
◇
小名木が会社のドアを開けるとお馴染みの光景が目に飛び込んでくる。同期の上市と紅緒が犬猿の仲宜しくギャーギャーと煩いのだ。
「あそこは俺が行くっつったろーが!」
「元々は私の顧客でしょうがっ!」
ローパーテーションを挟みながら二人は何時もの如く、遣り合っている。小名木は欠伸をしながら肩に担いでいたトートバッグを床に乱暴に落とし、同じ技術部の後輩、杵淵に「おはよ」と挨拶をした。
「おはようございます。此れカナさんから」
カナ、さんとは、営業部の稼ぎ頭の椎木奏大の事である。図面とサンプルをざっと目通しして、杵淵に其れを戻した。
「杵淵に任せた。難しいと思ったとこで声掛けて」
「了解っス」
小名木はオーニングやバナーを工業用ミシンで縫う所謂職人だ。この会社に就職して既に六年が経過した。杵淵と云う後輩も出来、彼本来の性格も手伝ってか誰からも頼られる小名木と言うポジションが確立されている。
「小名木、悪いけどこの前のテント、仕様変更出た」
「…この前のってコーヒーショップの? もう生地こっちに入ってるんだけど」
其れは既に裁断が済みミシンに入る直前の生地の事で、小名木は上市に責める様な視線を向けた。しかし上市はそんな視線など諸共せず「デザイナーから言われたから、悪いけど」と言う。確かに、今回は完全に下請け案件、こっちからは何一つ言える事は無い。
解ってはいるが、上市の其れをやって当然の物言いは気持ちの良いものじゃない。小名木は少し息を吐いて
「了解。駄目になった生地、ちゃんと売ってよ」
そう言うと軽く握った拳を上市の胸に押し当てた。上市は小名木ならきっとそう言ってくれると確信していた様で、礼を言うと手にしていた仕様変更書を小名木に差し出した。
地味な変更だな、こりゃ…そう心の中で悪態を吐きながらも、小名木は早速ペンと電卓を取り出して生地寸法を算出した。
昼を過ぎると定期的なメールが小名木の携帯に届く。送信元は小名木の遠距離恋愛中の恋人、古関恵麻だ。タイトルは、今日の日付と『ランチ』の定型で添付画像には彼女の今日の弁当。
恵麻は栄養士で、料理が得意で食べる事が大好きだ。
彼女の食べっぷりの良さに、小名木は惹かれたのだと思っている。
二人は高校からの知り合いで、お友達期間を経て彼氏彼女の関係にステップアップした。大学は別々の場所に進み、彼女は栄養士の専門学校の講師、小名木は西田商事の技術部へと就職を決めた。二人の関係は既に十六の時から、十二年の付き合い…結婚を強く意識した十年の節目に遠距離恋愛を余儀なくされた。
恵麻が勤める学校法人が名古屋に学校を新しく設ける事になり、優秀さを買われた恵麻は二年と言う期間限定で二人の地盤であった東京を離れる事になった。
十年も一緒に居れば、阿吽の呼吸と言えるぐらいに二人の絆は深い。『結婚』と言う一つの形は先延ばしにして今少し『恋人』で居ようと二人は決めたのだ。
――― 二年なんて、あっという間。遠恋になっても大丈夫
恵麻が名古屋に行く前の日、二人はベッドの中で手を繋ぎ額を合わせ、そんな風に語り合った。
本当にあの時はそう思ってた。
十年と言う長い年月、一緒に居ても気持ちが離れた事は無かったし、少しの喧嘩は有ったけど絶対的な衝突は無かった。小名木は恵麻が好きで、恵麻も小名木が好きで互いが互いを想い合えていた。
実際一年目はあっという間に暦が変わっていった。
恵麻は慣れない場所での生活に必死で、小名木もそんな恵麻を支えたいと貯金を切り崩し三週間に一度は東京から名古屋へ向かう新幹線に乗っていた。こう言っては恵麻に悪いが、小名木はこの距離感を嬉しくも思っていた。これまでずっと二人は一緒で、会わない日が十日を超えた事さえ無かった。だから、少し新鮮だったのだ。会えない時間が二人の情を深くすると、誰かが歌っていた気がした。
ところが、順調だった遠距離恋愛に陰りが見え始めた。
恵麻が名古屋と言う土地、習慣、新しい職場に慣れ始めて少し息がし易くなると、何時も傍に在った小名木と言う存在が直ぐ傍に無い事に寂しく感じる様になった。
同僚が彼氏とデートをしたと聞き羨み、恵麻は独りの部屋に帰るのだった。ホームシックとの併発で孤独感は一層募った。
『会いたい』
小名木が恵麻に会いに来たのは二週間前の事だった。彼が恵麻の為に、疲れた体を押して新幹線に飛び乗ってくれている事を知っている。金銭的にも ―― 小名木は恵麻が申し出た交通費折半をやんわりと断っていた ―― 、肉体的にも容易な事ではない。其れでも、家族も友人も居ないこの場所で寂しいと訴える心を満たしてくれるのは小名木しか居ない様に思えて恵麻は会いたいとメールを打った。
送信してから暫く無言を貫く無機質な端末を恵麻はぎゅっと握った。反応の無い其れに、又不安が積み上がっていく。
後一週間もすれば小名木と会う予定になっているのに会いたいなんて、鬱陶しいと思われただろうか。もしかして、小名木は誰かと飲みに行っているのだろうか。誰と…女の子と?
要らぬ妄想が沸き上がる。小名木はそんな男でない事を恵麻は十分に知っているのに、孤独は彼女を追い詰めた。返事を待ち切れない恵麻は携帯の電話帳を開く事も無く、ナンバーを押し最後にコールボタンに指を掲げる。
――― トゥル
ワンコールが鳴りきらない内に、恵麻は小名木からの電話に対応した。
「も、もしもし真っ?」
『恵麻?』
尻上がりの此方の様子を案ずるような小名木の口調に恵麻の涙腺が決壊し、ボロボロと涙を零す。恵麻は自分の中に安堵の色が広がり、小名木の声にギスギスした心が和らいでいくのが解った。
「真? ごめんねっごめんねっ」
小名木は携帯の向こうで泣きじゃくる恋人の恵麻の様子を頭に思い浮かべ、会社の椅子に背を預ける。
後輩の杵淵は既に退社していたので、事務所には小名木一人だった。必要最低限の箇所にしか明かりは灯っていない。
恵麻が何に対して謝罪しているのかを、小名木は痛い程理解していた。
”会いたいなんて無理言ってごめんね”
”我慢できずに我が儘言ってごめんね”
”電話くれて、有難う”
恵麻は我慢強い女性だ。真面目で慎ましく、思慮深い。そんな彼女がこんな風に心を乱して、小名木に縋ってくる。恵麻の穏やかな気持ちが暗く深い淀みに嵌っていたに違いない。
何日か置きの電話、毎日のメールでも彼女の心が満たされる事は無かった証しだ。
けれど小名木にも、小名木の生活が有る。残業が無いとは言わない、展示会が近付けば上市と同様営業紛いの仕事もこなす。実家暮らしだが、全く家の手伝いをしない訳では無い。三十手前で”疲れ” を知らない訳じゃない。
其れでも地元を離れてしまった恵麻の方が心労も多いだろうし、何より恵麻を支えるのは自分だと言う強い責任感も有った。彼女が東京に戻ってきたら結婚の話を直ぐにでも進めるつもりだ。
『恵麻?』
小名木はもう一度先程と同じ様に語尾を上げ、彼女に問い掛ける様に彼女の名を呼んだ。
「ん」
『寂しい思いさせてごめんね。俺も会いたいからね』
小名木の優しい言葉に恵麻は更に涙を流した。
『今ね、上市に無理に押し付けられた仕事してたの。残業だよ残業。頑張ってる俺、褒めて』
穏やかな口調で電話の向こうに居る恵麻に話し掛ける小名木の顔は優しい。
「ぷっ…又、上市さん?」
『そう、同期だからって直ぐ無理言うんだ。困る』
「真、偉いね。頑張ってるね」
『うん、ありがと。恵麻もそっちで頑張ってるでしょう? だからね、俺も頑張るよ』
「…私も、褒めて?」
『偉い偉い。恵麻は偉いよ、頑張ってるもんね』
小名木は携帯を持つ手では無い右手を、太腿の上で閉じたり開いたりした。脳裏に浮かぶのは彼女の手だった。
会いたいのに、会えない。
触れたいのに、触れられない。
物理的な距離は、そう縮まるものでは無かった。




