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僕らの特別  作者: 壬生一葉
強がりの三箇条
25/31

【7】

東京での生活にも慣れた七年目。亜紀子は偶然にも、就業中に足を運んだ銀行のATMで高校時代のクラスメイト、日比野に再会した。


「今度同窓会有るって連絡いってる?」


亜紀子は首を横に振った。あの町に住んでいた頃の知り合いとは一切交流が無い。こんな偶然でもなければ、亜紀子は同窓会が開催されると言う事すら知らなかっただろう。


「携帯、教えて」


日比野は片腕に引っ掛けていたジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。亜紀子は其れを拒否するように眉根を寄せる。


「うーわ、高辻そんな態度取る子?」


日比野は呆れた様に笑う。けれどその手には仕舞われる事のない端末。まるで引きそうにない日比野に、亜紀子は諦めて携帯の番号を早口で伝えた。


「じゃ、後でアプリで知らせる。出席、しろよ」


命令口調な事に亜紀子は閉口して、日比野に応える様な事はせず職場へと戻る道に身体を向けると彼は追い打ちを掛けるように言った。


「てか、してよ。それで”言い訳” 聞いてやってよ」




そのキーワードに、亜紀子はあっという間に九年前と連れ戻されてしまった。



森川が、しないと言った『言い訳』。


あれから、萌花は森川の隣を歩いていた。亜紀子にとって其れは泣きたくなる程残酷な、そしてしっくりとくる絵面だった。





   ――― 今更だ






   ◇




そう思ったのに、連れ戻されてしまった過去は亜紀子を捕えて放さなかった。


何度も忘れようとした森川の存在を。

囚われた感情を清算して、前に進まなければと。

忘れなければと瞑目する事が、失う事の出来ない記憶だと言う事に、亜紀子は気付かない。




亜紀子が森川を最後に見たのは、高校の卒業式の日だった。式典が終わり、体育館から教室へと帰る赤いフェルト地の通路を歩く森川を見たのが最後。

けれど今、亜紀子の前に立つ二十五歳の森川はあの頃より大人びたぐらいで、大きく変わったところは無い様だった。亜紀子の中で安堵と緊張が綯い交ぜになっていた。


森川は亜紀子にその結婚生活は、今のお前は幸せかと問うた。そして亜紀子は答えた。『幸せ』だと。けれど、森川は亜紀子のその答えに満足していない。


森川は作り笑いの亜紀子に重ね重ね、訊いた。

「本当に?」と。

問い質された内容に、亜紀子は然るべき答えをはじき出すべくボキャブラリーを総動員させる。だが、森川が納得してくれそうな答えは用意出来ずに、息を吐いただけだった。


亜紀子は其処で気付くべきだった。


   ――― 森川がそんなに執拗である事の意味を




二次会に行かない、帰ると言った亜紀子の手を森川はまるで捕える様に放そうとはしなかった。亜紀子は戸惑いながら、森川の手から逃れる事が出来なかった。其れは彼の彼女を捕える力が強過ぎたからなのか、彼女の抗いが弱かったからなのか、判らない。



亜紀子が亜紀子を演じない為にか、森川は宴会場よりもかなり上、二人の事を誰も知らないホテルのバーへと亜紀子を引っ張った。毛足の長い絨毯の上、エレベーターの中、何度か亜紀子は森川の名を呼んだが、彼が足を止める事は無かった。


亜紀子は、森川をきっぱりと思い出にし新たに一歩を踏み出さなければと今日の同窓会への参加を決めた。日比野に言われた事を真に受けた訳じゃない。亜紀子は其れを何度も何度も自分に言い聞かせた。


重厚なカウンターテーブルに身を寄せた二人。亜紀子は森川の左側に座り、モスコミュールに口を付けた。森川はウィスキーのシングルを水割りで飲んでいる。亜紀子が知る男でウィスキーを飲む者は居ない。亜紀子の知る森川は高校生のままで、そんな男が蒸留酒を嗜んでいるなんて俄かに信じ難かった。


「言い訳、聞きにきてくれたんだよな?」


落とされた照明の下、森川の表情は硬く、亜紀子が見た事もない大人の色香を放っている。


「…何の事」

亜紀子は森川から目を逸らすと喉越しの良いカクテルをゴクリと飲んだ。森川はふと鼻で小さく笑い、グラスの中の氷を人差し指で動かした。

「じゃぁ独り言。高辻は横で聞いてて」

森川はそう言って、切り出した。



高一の夏、俺は高辻と仲良くなって、高辻が周りが言う様な女じゃない事を知った。多分その時から、高辻は俺の中で特別になってた。萌花(かのじょ)が居たけど、高辻は確かに特別な存在だった。解らない、美人だったからかもしれないし、俺にしか見せない素が堪らなく嬉しかったからかもしれない。

萌花(かのじょ)を好きだったし萌花(かのじょ)を大切にしてるつもりだった。だけど…俺の中の高辻が徐々に大きくなっていった。萌花(かのじょ)と一緒に居ても、高辻がどうしてるのかを考えてしまう程に―――――。



亜紀子は汗を掻き始めたロンググラスに添えていた指先に力を込める。



俺のそういう気持ちが萌花(かのじょ)にも気付かれていたのか、萌花(かのじょ)の気持ちは別の男に行った。ショックも有ったけど…元を糺せば俺のせいなのかもしれないとも思った。それから半年位経って、萌花(かのじょ)が俺に言ったんだ。やっぱり俺が好きだって―――――。



あの時の事を言っているのは直ぐに解った。亜紀子は何かを堪える様に目をきつく閉じて歯を食い縛る。



あの時、萌花(かのじょ)に抱き付かれて…復縁を求められて嬉しかった訳でもないし、絆されたつもりもない。俺は罪悪感から萌花(かのじょ)を抱き止めてた。其れを高辻に見られて息が止まるかと思った。誤解だって、叫びたかった…でも俺は其れを言える立場じゃなかったし…実際萌花(かのじょ)を一瞬でも受け入れた俺の言い分なんて、ただの言い訳だと思った。

それでも…萌花(かのじょ)とよりを戻すつもりはなかったし、高辻なら話せば解ってくれるんじゃないかって何処かで思ってたんだ。俺は高辻を解ってるつもりだったし、高辻も俺を解ってくれてると、高を括ってた―――――。



森川の独白に亜紀子は泣きそうになった。森川は、あの頃亜紀子を想っていた。そして、亜紀子の気持ちが森川に寄せられていた事を、彼自身も気付いていた。そう、あの頃、もう戻れはしないあの頃、二人は確かに想い合っていたのだ。



でも、俺は高辻を解ってなかった。まさかあんな徹底的に避けられるとは考えてもいなかった。学校では勿論、唯一の繋がりだった携帯も変えられて、話してくれてたホームセンターのバイト先でも見つけられなかった。高辻は卒業後の進路を、学校は勿論両親(・・)にも徹底的に箝口令を強いてた―――――。



亜紀子は顔面の筋肉を緩め、驚きを口にしない様に口元を手で押さえながら右隣に居る森川に視線を向けた。森川は其れに気付いているであろうに、亜紀子の方を見ようとはせずロックグラスをコースターの上から持ち上げて、グラスを軽く回した。



俺が、何もしてないと思ってた―――――?



森川はそう言ってグラスを口元に寄せ、ぐいっと煽り一気に液体を飲み込んだ。コースターへと戻されたグラスには、形を変えた氷しか無い。シングルとは言え、森川にとって飲み慣れないウィスキーは胸を焼き、身体を一瞬で熱くした。

森川は、酔ったのかもしれない。

亜紀子が居るこの場所と、亜紀子との共有の時間と、彼女が彼に向ける視線の熱に。




「ねぇ高辻、溢れてるよ」

「え?」

亜紀子は慌てて、手元のグラスを見た。どうしてそうしたかは解らない。何ら変わり映えの無い手元から、森川へと視線を戻す。森川は眉を少し下げながらも、笑みを浮かべて言った。



「俺を、今でも好きだって気持ちが」



亜紀子は何を言われたのか、直ぐには理解出来なかった。森川がそんな台詞を言うなんて思いも寄らず、森川の思考が其処へ到達している事への驚きの現れだった。



「君は、日比野に言われて俺の言い訳を聞きにわざわざ同窓会にやって来た。『既婚』であると、偽って」

「!」

「言ったでしょ、君は両親(・・)にも箝口令を強いてたって」

「会ったの?」


驚愕の眼を浮かべる亜紀子に対し、森川は全てを把握した上での幾らかの余裕が見受けられる。その柔らかい表情から、森川が亜紀子の居場所を知る為に何度か有里達を訪ねた事を肯定していた。確かに亜紀子が地元を離れた七年の間に、有里から何度か友達と連絡は取っていないのかと聞かれた事が有った。其れはきっと、森川が実家を訪れた直後の事だったのだろう。


嬉しさの反面、亜紀子はこの後どうしたら良いのか全く解らなくなってしまった。既に森川は亜紀子の結婚が偽りだと知っている。左手薬指の鈍く光る指輪が滑稽だった。

亜紀子の想いを知っているかの口振りの森川にも困惑している。

亜紀子の知っている森川はそんな事を口にする男ではなかったのだ。亜紀子の知らない森川が其処に居るのだ。


「高辻」


森川は亜紀子の名を呼び、左手で彼女の右手首にそっと触れた。その瞬間身体を固くする亜紀子に、森川は彼女の戸惑いを感じ取る。


「言葉にしなくても解ってくれるなんて、そう言うの止めたんだ、俺。ただへらへら笑ってるのも止めた」


亜紀子は森川の触れるその手から顔を上げ、恐る恐る森川と視線を合わせた。


「俺と結婚して、高辻」


森川が奏でる”たかつじ” と言う音。

何の効果も持たなかった指輪。

脆い、矜持。


はらはらと涙を流す亜紀子を見て森川は、やっと彼本来の笑みを浮かべた。そしてスツールを回し亜紀子の方へ身体を向けると、彼女も自然に倣う。森川が左手の指で彼女の頬に流れる滴を拭い、右手で彼女の手を握る。そして薬指に嵌る偽物に触れた。

自分に嘘を吐いてでも、決着をつけようとした亜紀子が愛おしかった。

其れと同時に、彼女に寄り添う為の『言い訳』が間に合った事を、神に感謝した。


「九年、ずっと想ってた」


森川の顔が切なげに歪む。亜紀子は彼のそんな表情の中に彼の葛藤を垣間見て、やはり彼女も同じように森川を慈しむ様に見つめ返す。



互いを知らなかった九年を埋めるのは、二人ならきっと難しい事じゃない。亜紀子はそう思いながら森川の首に腕を巻き付け、ぎゅっと彼を抱き締めた。彼女は何度も、森川の名を呼んだ。その度に森川は「うん」と応える。




「好き、好き森川」




森川は亜紀子を抱く腕に力を込める。九年振りの逢瀬を噛み締める様に。















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