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僕らの特別  作者: 壬生一葉
強がりの三箇条
24/31

【6】

森川が彼女に振られたと聞いて、亜紀子は言わずもがな喜びはしなかった。ただただ、困惑した。


  ―― 何故


未だ付き合いも一年程だったと森川から聞いている。数ヶ月前二人は旅行をして日に焼けて帰って来たではないか。何故そんな二人が…疑問ばかりが亜紀子の頭の中を占めた。


森川の別れ話を聞いてから、亜紀子は森川の姿を目で追う事を躊躇わなかった。


感情が表にはっきりと出るタイプではない。どちらかと言えば溜め込んでしまうタイプの森川だ。きっと友達の日比野辺りには何時もの様に笑っているのだろう。

亜紀子が知る限りだが、森川は森川なりに彼女を大切に想っていた様に思う。此れでもかと前面に優しさを押し出すような事はないけれど、萌花(かのじょ)の事を包み込んで温かく見守る、そんな風に彼女を扱っていた様に思う。

其れだけの優しさを持った男を、振るだなんて、一体二人の間に何が有ったのだろう。


「亜紀子? 何見てんの?」


亜紀子は突如思考を遮断され、慌てて人の気配がする方へと目を遣った。スマートフォン片手に此方を見ている友人と目が合った。


「んーん見てない。何かボーっとしてた」

「あー解るー何か気持ち良いよね」


相手の反応に亜紀子は安堵し、先程まで森川が居た場所をもう一度だけチラリと見る。森川は何処かに行ってしまったが、彼と何時も一緒に居る日比野と目が合った。亜紀子は不自然な程直ぐに彼から目を逸らし、目の前の子に倣って  ―― 興味の無い ―― スマートフォンの画面を指で弾いた。





   ◇




忙しかった準備が嘘の様に、文化祭の二日間はあっという間に終わった。亜紀子と森川のクラスは文化部に所属する人間が多かったからなのか、アートなるものを展示していた。絵であったり、書であったり、はたまたガラクタにしか見えないようなブリキだったり。中には本格的な物も有りなかなかに好評だった。


亜紀子は張り切って見えないスレスレのラインで、片付けを手伝った。紗弓等は、ゴミを捨ててくると手ぶらでクラスを出たっきり見掛けていない。真面目な亜紀子は少しのんびりと壁にピンで留められた厚紙を剥がしていく。割と背は高い部類に入る亜紀子が背伸びをし、腕を思いっきり伸ばした先のピンを、誰かに横取りされた。亜紀子は見上げていた先が少し陰ったのを見て、少し身体を強張らせた。

又、何時もの様に善意では無い売り込みをされていると勘繰ったのだ。

だが、次の言葉を聞いて先程とは別の意味で亜紀子に緊張が走る。


「高辻、下」


森川が紙の上側を留めているピンを取り外して少しずつ左側へと移動して行く。亜紀子は平静を装って壁の下側に手を伸ばした。

久し振りに間近に感じる森川の体温に、亜紀子は胸を詰まらせる。

亜紀子は森川と何かを話したかった。別れてしまった彼女の事等ではなく、森川がふっと息を吐く様に笑ってくれる様なくだらない事を話題に挙げたかった。


だが此処は二人が良く知る物流倉庫ではなく、亜紀子が素を晒す事のないこのオフィシャルスペースで、たった二十センチの距離も遠い。


結局亜紀子と森川は、作業を終える迄の数分間沈黙を貫いた。森川は、俯く亜紀子の旋毛を見つめる。バイトの時は纏め髪である事が就業規則だったので、彼女の長い髪が背に垂れているのを、新学期が始まって改めて知る事となった森川。シャンプーの香りだろうか、甘い匂いが森川の鼻腔を擽る。森川はふいに、目を合わせない亜紀子を起こしたくなった。自分の知る『高辻』を見たくなった。


左手には幾つものピンが針先を上に向けて陣取っている。亜紀子の手の中も同様だろう。

森川はその左手を亜紀子の下へ落ちる視線の先へと伸ばす。

亜紀子は、急に現れた森川の大きな手を見て、一度小さく肩を揺らした。手中のピンを見て亜紀子は合点がいって自分が包んでいたピンを其処へ落とす為に指をゆっくりと開くと、彼の手の上に掲げる。掌を少しずつ少しずつ傾けてピンが一つ、二つと亜紀子から森川へと渡された。


「…ありがと」


全てが行き渡り亜紀子は顔を森川に向けて上げ、小さく礼を言うと、「ん」と森川が答えた。



それからと言うもの二人は、距離が近ければ世間話はするし、帰り際昇降口で互いに一人で上履きを履き替えていれば、一緒に帰ったりした。森川の友人、日比野は意味有り気な笑みを浮かべていたし、亜紀子の友人達は一様に眉を顰めた。


「何、最近森川? と仲良いじゃん」


そう言ったのは、相変わらずスキンシップが激しい勝地だった。


「仲良いって言うか、普通でしょ」

「何で急に?」

「急? もう半年も同じクラスじゃん」

勝地は卑下た笑いを浮かべ、「亜紀子のキャラじゃねーじゃん」と言う。


私の何を知っているのだと、亜紀子は自分の肩に触れる勝地の腕からさり気無くすり抜けた。




亜紀子と森川は学校で話せない分、スマートフォンアプリで会話をした。冬休みのバイトはどうするのか、期末の結果はどうだった、二年になったらコースはどうするのだとか。亜紀子の中で森川は特別であり、唯一だった。

想い人であり、真剣に将来を相談出来る大切な人だった。


森川にとっても、亜紀子がただの友人ではなくなっていた。森川はあまり自分の容姿を気にした事が無かったが、亜紀子と自分では吊り合いが取れないだろうな等と珍しく自虐的にさえなった。

亜紀子は外見に加え、中身も真っ新で綺麗だった。

日比野が聞かせてくれる亜紀子の『噂話』等、所詮彼女への妬みが発端なのだと解析出来るほどには、森川は亜紀子を知っている。



ゆっくりとゆっくりと、けれど着実に二人の距離は縮まった。



だが終幕は、やけに簡単に、あっさりと訪れた。





「何ソレ重そうだね」


日直だった亜紀子は担任に面倒事を押し付けられ、職員室から出て来た所、日比野と出くわした。亜紀子と日比野にしっかりとした面識は無い。ただ互いに『森川』と言う男を通して、知った気になっているのだ。亜紀子が両手に抱えたクラス分のテキストを、日比野が半分以上引き受けてくれた。


「有難う、助かる」

「…」

「何?」


礼を言った亜紀子に対し、日比野が驚いた様に固まるから亜紀子は少し目を細めて彼を見る。


「いや…何か森川の言ってた事が、今解った気がする」


日比野が言った事を亜紀子は理解して苦笑いを見せる。

「森川の私の印象が良いみたいでホッとした」

亜紀子がそう答えると、日比野は「良いどころじゃないんじゃねーの?」と茶化した。亜紀子は森川を良く知るこの男がそんな風に言ってくれた事に嬉しさを隠し切れない。



一階にある職員室から三階に有る教室へと、少し息を荒くしながら亜紀子達は戻った。放課後、何時もは開いている筈の引き戸がしっかりと閉じられていた。亜紀子も日比野が両手が塞がっている状態で顔を見合わせてしまった。

すると中からガタリと机が床を滑る音がした。どうやら中に人が居るらしい。それにしては話し声が聞こえてこない。日比野は亜紀子から視線を外し一拍間を置くと、右足で器用に、そして勢いよく引き戸を開けた。


亜紀子と日比野の目に飛び込んで来たのは、萌花を抱き締める森川だった。



「!」

「あ」



衝撃的なシーンに言葉を失った亜紀子と、この場に似つかわしい日比野の間の抜けた一音。萌花は反射的に亜紀子と日比野を振り返り、その瞳は涙に濡れていた。

森川は、何かを言いたげに一旦唇を開きかけたが直ぐに閉じて亜紀子達から視線を外す。


「ご、ごめ…」


萌花は手の甲で目元を一度拭うと、亜紀子達が開けた引き戸とは別の戸から走り去って行った。

茫然とする亜紀子を余所に、日比野は手にしていた大量のテキストを担任が使用するデスクの上にドサッと落とす。森川は相変わらず顔を俯けていたし、亜紀子はショックの余り教室の入り口に立ち尽くしていた。まともに動けたのは、日比野唯一人だった。


「森川?」


”ドウイウ事?” 彼の名を呼んだだけの日比野だったが、其処に彼を詰問する色が混じっている。


そして森川は体の脇に垂らしていた両の拳をぎゅっと握り、答えた。




「言い訳はしない」




其れを聞いた亜紀子は自分が持っていた物等お構いなしに、踵を返す。残りのテキストは廊下に散らばった。


森川の”言い訳はしない” と言う返事。だとしたら、見たそのまんまなのだろう。

森川は彼を振った筈の元彼女を抱き締めた。


よりを戻したと言う事なのだろう。



亜紀子はその晩、恐らくずっと身体に溜め込んでいた涙を纏めて流した。泣く事を堪えようとする余り、嗚咽になり、奥歯が痛み米神がひくつき、顔を埋めたタオルを掴む十本の指が震え続けた。



あんまりだ、あんまりだ、あんまりだ。



恋を失くす事が、こんなにも痛くて苦しいものだなんて、亜紀子は知らなかった。森川が誰かの特別で、其れを傍観するなんて事、今の自分には耐えられそうになかった。


亜紀子は恋愛事において、潔癖過ぎた。





   ◇





あの一幕を見て、亜紀子は森川と一線を引いた。物語ばかりに逃避していた亜紀子は、現実の悲恋に耐えられず森川から逃げる事を選択した。森川に裏切られた自分は可哀想だと、亜紀子は自身を徹底的に守った。

夏休みが始まる前の二人に戻っただけの話だ。森川から亜紀子に接触する事はない。亜紀子は極稀に日比野からの視線を感じたが、其れを受け流す事等造作もない事だった。


時は流れ、亜紀子は迷いなく就職活動に力を入れた。この町から二時間程の東京に就職は決めた。其処なら、『金持ちの愛人が居る女の娘』等と噂される事もない。『慣れている高辻亜紀子』と軽んじられる事もない。

母を残していく事に心苦しくも有ったが、亜紀子は森川との思い出が残るこの町に生き続ける事が耐え難かった。「勝手を許して」と亜紀子が母の有里に頭を下げると、彼女は「貴女は自由よ」と優しく笑い、彼女の背を押した。



東京に出た亜紀子は、先ず『高辻亜紀子』を演ずる事を止めた。

田舎と違って都会には、母子家庭の子供等沢山居る筈だ。言いたい事があるのなら、言わせておけば良い。有里の言う通り、亜紀子は初めて自由らしき自由を手に入れる。ありのままの自分で居る事が、こんなに心地の良いものだとは亜紀子は知らなかった。


亜紀子が西田商事と言う小さな会社に勤めて一年が過ぎた頃、有里から一本の電話。「会わせたい人が居るの」その常套句が何を意味しているのか、亜紀子は勿論解っている。

少し緊張した面持ちで有里の隣に座るのは、人の良さそうな少し丸みを帯びた年嵩の男性だった。目が細くて、常に笑っている印象を受けるその男は、藤井と言った。二十歳そこそこの亜紀子に対して、緊張で身体をカチコチにさせながら藤井は

「ゆ、有里さんを、幸せにしたいと思ってます」

と宣言した。その隣で有里が幸せそうに微笑むものだから、亜紀子も彼女に似た顔を綻ばせる。

「母をお願いします」




そうして、高辻亜紀子は『藤井亜紀子』になった。









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