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僕らの特別  作者: 壬生一葉
強がりの三箇条
23/31

【5】

亜紀子と森川は然程時間が経たない内に、本音を零せる程親しくなった。


喋るのは専ら亜紀子ばかりで、森川は頷く事と足りない言葉で返事をするだけだったが、其れでも二人は十分に意思疎通が成され、有意義なバイトの時間を過ごしている。

亜紀子は特に森川の彼女の事を聞きたがった。

彼女の周りに居る人達の恋愛話は軽い上に赤裸々過ぎて、亜紀子には刺激が強すぎた。其れに引き換え、森川と萌花の話は初々しく漫画か何かを見ている様で、亜紀子は純粋にドキドキワクワクして、まるで物語の中にいる様な気がして嬉しいのだ。


森川は他人に色恋を話す事を恥ずかしいと思うだけでなく、本当に特に面白い話も出来ないからと、何時も何時も亜紀子の質問をはぐらかそうとしていた。

けれど亜紀子のキラキラとする瞳を見ていると無下にする事も出来ず、結局萌花に差し障りが無い程度に答えていた。




   ◇




「ナオ、ミホがねユウセイ君と明後日プール行くんだって。ねぇ私らも行かない?」


森川は今日はバイトが休みで、萌花と久し振りにデートをしていた。デートと言っても混み合ったショッピングモール内をぶらついているだけなのだが。モールは何処も混んでいて、森川と萌花は空いていた休憩用ソファに座り、テイクアウトした冷たい飲み物で喉を潤していた。


「バイトだから」


週に一回しか休みを入れていない事を萌花には話してあった筈だ。長い休みで曜日の感覚が無くなってしまったのだろうかと、森川は自分の腕に寄りかかる萌花に視線を落とす。萌花はこれ見よがしに盛大な溜め息を吐いた。


「もうバイトばっかりだね…せっかくの夏休みなのに、全然ナオと遊べない…モエつまんないよ」


萌花からしてみれば悪気の無い言葉に違いない。


森川と萌花は小学校からの級友で、中学に上がり二人の距離は男女の其れに変わり、今夏付き合い始めて一年を迎える。森川は奥手であったし、萌花も決して派手な性格ではない。だが、萌花にしてみれば高校生になり、周りの友達が少しずつ変わっていくのを目の当たりにしてきた。萌花も、森川と手を繋ぐその先へステップアップしたいと考えていても可笑しくはない。森川の為に初めてビキニを買い求め、薄らとだがメイクも施して少しでも森川の瞳に可愛く映ろうと一所懸命だ。


森川は萌花の言葉に眉を下げ、思案した。二人で旅行をする為のバイトだ。萌花の家は厳しくバイトは駄目だと言われ、旅費の殆どを森川が持つと二人でそう決めた筈だった。今なら、遠藤の心配が森川にも理解出来た。


「…ごめん」


森川は萌花に謝った。そうする事しか今の森川には出来なかったのだ。


「…私、プール行ってこよっかな」


萌花は未だ少し拗ねた表情をしていたが、話の方向が変わったので森川は其れに同調する様に「良いんじゃない」と目を細めた。バイトばかりの自分に遠慮して、萌花の夏休みが詰まらないものに終わってしまっては可哀想だと森川は思い、そう伝える。

其れを聞いた萌花は、森川の目を見上げ寂しそうに微笑(わら)った。




   ◇




亜紀子は首に巻いていたタオルで米神を流れる汗を拭った。中腰になっていたせいか腰が痛くなってしまい、拳を作った右手で腰を数回叩く。

「お疲れ」

振り向いた所に森川が段ボールを抱え、歩いていた。彼の顔や、首元も汗で光っている。着ているポロシャツも色濃くなっていた。

「うん、森川もお疲れ」

ほんの僅かな擦れ違い様に森川はこうやって亜紀子に声を掛ける。去っていく森川の背中から自分のラインへと意識を戻した亜紀子は、嬉しくて緩む表情を抑え切れなかった。


森川は、決して亜紀子を特別な目で見ず、見返りを求めず、亜紀子の家庭環境を察しているであろうに同情も無く、ただただ亜紀子に優しかった。


寡黙であるが、将来は小学校の先生になりたいと明確なビジョンが有り、恋人の為にバイトを懸命にこなしている彼は好ましかった。

亜紀子の中で、森川を良い人だと思っていた感情が、淡く色付き始めていた。

森川に恋人が居るのは百も承知だ。だから此れは恋ではなく、『森川の様な男が理想』だと、只の憧れだと、亜紀子は自分自身に言い聞かせた。


森川はバイトばかりだから、きっと萌花は会えなくて寂しい想いをしているだろう。けれど亜紀子はそのバイトで、少なくとも森川と時間を共有している。少しの罪悪感が亜紀子の胸に擡げたが、これ位は赦されるよねと自らを擁護した。





「何、見てるの?」


昼の休憩、亜紀子よりも先に森川の方が席に着いていた。最早指定席なのか、互いの目の前の席は何時も空席だ。亜紀子は森川の前に座り、ランチクロスを解き弁当箱を取り出した。森川が何時も面白い動画を見つけては亜紀子に教えるものだから、亜紀子は其れを疑わず携帯を見ている森川にそう訊いた。

森川は携帯を亜紀子の方に向けながら、テーブルの上を滑らせ言う。


「プール」


亜紀子は森川の携帯を覗き込んだ。其処には、森川の彼女である萌花が水着姿で映っている画像が有った。彼女の横には、友人と思しき女と男が二人居る。その画像に亜紀子は違和感を覚えた。

萌花の彼氏である森川は此処にこうしてバイトをしていて、彼女の萌花は男とプールに出掛けている。しかも、萌花の肩には男の手が乗っていて身体が密着していた。


亜紀子は窺う様に、ゆっくりと森川の顔を見上げた。こんな画像を見て、森川は嫌な気持ちにならないのだろうか。


「水、気持ち良さそうだな」


森川はそう言って笑った。


其れを聞いた亜紀子の眉が眉間に寄せられる。心臓が、ぎゅっと掴まれたみたいに痛みを感じた。

森川の笑った顔に、覇気が無い。醜い独占欲や、見っともない程の嫉妬心をこの男は持ち合わせていないに違いない。けれど、自分の彼女が他の男と親しげにしていて寛容に笑える程、鈍感な男ではないのだ。


亜紀子は、初めて萌花に対して怒りを覚えた。


そして直ぐに、小さく頭を振って顔を俯けてしまう。自分が、萌花に対してそんな思いを抱くのは違う気がしたのだ。

でも。

でも、森川は初めて出来た ―― 大事な ―― 異性の友達だ。そんな友達を傷付ける人は、赦せない。




八月も後二週間を残した所で、森川がバイトを三日間休んだ。予てからの彼女との一泊二日の旅行に行ったからだ。亜紀子は、ただ只管に手を動かして働いた。休憩時間に遠藤に話し掛けられても上の空で、自分の前に不在の森川を想って胸が苦しくなる。他の事を考えようと大好きな本を手にしてみても、全くと言って良い程、活字が頭に入らず何度も同じ行を読み直した。

遠藤はそんな亜紀子を見つめながら、彼女の森川に対する想いを案じほんの少し眉を下げたのだった。



森川が三日振りにバイトに出てきて、亜紀子に土産だとキーホルダーをくれた。彼は律儀にも職場の人達にも菓子を用意していて、亜紀子は彼に気を遣わせた事を申し訳なく思った。彼がどれ程の汗を流してその金を捻出したのかを彼女も身を持って知っているからだ。


「嬉しいけど…私にお土産なんて良かったのに」

「日比野達とお揃いのふざけたキーホルダーだから…迷惑だったらごめん」


確かにあまり人前に嬉々として晒せる代物ではない。はまぐりを模した顔に小さな身体をぶら下げているキャラクターである。透明の外装には『はまぐり』をもじったキャラクター名が書かれていた。此れを高校生が喜ぶかどうか。


けれど、そのキャラクターの不愛想な顔が可愛いと亜紀子は顔を綻ばせた。其れは森川が自分の為に、土産を買ってきてくれた事も大きく関係しているのかもしれない。


森川は、亜紀子が可愛げもないキーホルダーに目を細め、その細い指で撫でているのを見て少々気詰まりになる。もう少し亜紀子に似合いそうな物をやっぱり選べば良かったと。幾らなんでも男のノリ過ぎだったと、猛省していた。



亜紀子は家の鍵に森川から貰ったキーホルダーを取り付けて、其れを見る度に幸せな気持ちになった。

森川と会う事の叶わなかったたった三日で、彼女は認めざるを得なかった。



   ――― 私は、森川が好きなのだと



森川への想いを認めた事で胸の閊えが取れた反面、決して報われる想いではない事への苦渋が広がった。



萌花と一夏(・・)を過ごした森川の背中が、亜紀子の知る其れよりも大きく頼り甲斐のある物に見える。亜紀子は、知らず奥歯を噛み締めた。



夏休みが終わり短期のバイトが終了すると、亜紀子と森川の接点はクラスメイト以外の何物でもなくなった。だが約一ヶ月もの間、苦楽を共にした仲間であった事が時折二人の視線を絡ませる。

けれど亜紀子は亜紀子の属するグループとやらが存在し、森川も森川が身を置く場所が有る。あんなに笑い合い、お喋りに興じた事が嘘の様に言葉を通わせる事は無い。



沈黙を重ねる日々が過ぎ、十月下旬に行われる文化祭の準備に追われる様になった頃、亜紀子は何処からか其れを耳にした。





   ――― 森川が彼女と別れた、と







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