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僕らの特別  作者: 壬生一葉
強がりの三箇条
21/31

【3】

亜紀子の住む町の図書館は小規模で、亜紀子が興味の有る本は中学に上がった頃、粗方読破してしまった。成長と共に行動範囲も広がり、今亜紀子が気に入ってるのは駅二つ超えた所に有る中央図書館だった。繁華街にも程近いこの図書館は、ビルの二階、三階を使用していて沢山の書物が置かれている。初めて此処に足を踏み入れた時、亜紀子は感動の余り入り口で立ち止まり暫し動けず、司書に声を掛けられた程だった。


今日も今日とて彼女は嬉々としてお気に入りの一角に、新刊を持って腰を下ろす。午前中のバイトの疲れ等、物語に入り込んでしまえば直ぐに忘却の彼方だ。

一ページ目を捲る瞬間が、亜紀子はとても好きだった。



そんな亜紀子を、森川は図書館に足を運ぶ度目にしていた。最初に見たのは、森川が付き合っている彼女と受験勉強をしに来た中学三年の時だった。その時は名前すら知らない女だった。森川の彼女が森川の腕にちょんと触れ「ねぇあそこに座っている人、めっちゃ綺麗じゃない?」と同意を求めたのが初見。


確かに、綺麗と言う形容詞がぴったりの容姿をした女が其処に座っていた。


背をピンと伸ばし、大切そうに両手で文庫本を抱え視線を走らせていく。そのスピードは速い。森川は、よっぽど本が好きなんだなと感心し、自分は迫りくる高校受験の為に参考書を開いた。


あれから一年も経たない内に、同じクラスに図書館の彼女が居た事に森川は驚いた。まさか同い年だとは思わなかったのだ。整った顔立ちの亜紀子は雰囲気も大人びていた。


「ナオ、高辻さんと喋った?」


森川と共に受験に臨んだ彼女、萌花は森川とはクラスが離れてしまった。一学年十二クラスも有る高校で、彼等はワンフロアの端と端と言うクラスだった。萌花は『淋しいな』と言って眉を下げた。

生徒数が多いだけに別のクラスである萌花が、亜紀子に気付いたのは入学してから半月も過ぎた頃だった。


「ううん」

「え、そうなの? よく図書館に居るよねとか何とか…」


森川は萌花が何故そんな事を言うのか不思議だった。確かに森川達は何度か、亜紀子が図書館で本を読んでいる姿を目撃した。けれど其れだけだった。彼等は勉強の為にテーブルの有る椅子を利用していて、彼女は彼女で定位置と思しき一人掛けのソファーに座っていた。特に席が隣と言う訳でも、目的も違うのに話した事は疎か、目すら合った事が無い。

だから話し掛ける理由にさえならない様に思えた。


萌花は身長が百五十センチ程しかないので、森川の顔を窺う様に見上げている。


「高辻さん、美人だよね、うちのクラスでもすっごい人気っ」


何故だか萌花がはしゃいでそう言った。「だから、どうした」と言う感想しかない森川はやはり首を傾げた。確かに高辻は森川のクラスでも一目置かれている。高嶺の花だと、森川と仲の良い同じ中学出身の日比野が言っていた。彼女が美人だから周りは気後れするんだろう。


「ナオも、美人だと思うよね? ねぇ?」


萌花は森川にそう訊ねるのに、彼から肯定の返事を聞きたくないと表情を強張らせている。女心に鈍い森川に其れは通じていない様だったが。


「あー…美人なんじゃない?」


森川は萌花の質問の意図を汲み取る事を出来ないまま、在り来たりな返事をした。萌花は「だよね」と、一拍間を置いて返して俯くと、森川の指に自分の右手を絡ませ強く握った。萌花の小さな嫉妬に森川が気付く事は無い。






   ◇




校内球技大会の打ち上げが有ってから数日経った日曜日の午後。

亜紀子がバイトを終えて何時もの様に図書館に向かっていると、灰色の空からぽつりと雨が落ちてきた。用意周到な亜紀子はバッグの中から折り畳み傘を取り出し、空に向かって其れを広げるとオレンジ色の花が咲く。亜紀子は傘を見上げ、少しだけ笑みを零した。

亜紀子は雨が嫌いではない。

友達の紗弓は、髪が広がるから雨は嫌いと言うし、誰かは靴が駄目になるから嫌だと言った。

確かに憂鬱な事も有る。洗濯物が乾かないとか、買い物の量を減らさないと傘がさせないとか。


けれど、雨が降ると土や緑の匂いが立ち上り、亜紀子は季節を感じる事が出来た。もう直ぐ梅雨入りと言う今日この頃。何処からか梔子の香りが風に乗ってやってくる。

傘を打ち付ける雨音も心躍るBGMの様だと、亜紀子は水溜りを避けながら道中を行く。流石にキャンパス地のスニーカーは、濡れると悲惨だ。



図書館が入るビルのエントランスで傘の滴を払い落としていると「あ」と男の声がした。亜紀子が顔を上げると見知った顔が其処に在った。


「森川、君」


彼は傘を持っていなかったのか半袖のコットンシャツが濡れていた。森川は思わず声が漏れてしまった事を恥じながら、亜紀子に返事するかの様に一度小さく頷く。短く切り揃えられた髪を右手で掻き混ぜて、雨を落とし入り口からエントランスへと足を伸ばす。亜紀子は小さくなった折り畳み傘を、ビルに設置されていた濡れ傘を収める細長いビニール袋に突っ込み、少し迷った後「図書館?」と森川に訊ねた。


急な雨を避ける為の避難場所かもしれない、亜紀子はそんな事を思いながら彼を見上げる。亜紀子は決して背が低い訳では無いが、森川は十五歳にして既に百八十を超えており彼を見上げるのは当然だった。


亜紀子の質問の意図を解り過ぎる程解ってしまった森川は微苦笑し

「高辻の邪魔はしないよ」

と言った。

「…え?」

「本、読むんだろ」


森川は其れを当たり前の様に言い、図書館へと上がる為の階段を目指して亜紀子より先に歩き出した。亜紀子は慌てて森川の後を追う。

節電の為か、階段に明かりは灯っていないが仄かに暗い程度で、歩行に支障は来さない。


亜紀子は、森川の濡れた背中を見上げながら一段ずつ階段を上る。彼の先程の言い方は、自分が図書館を利用しているのを知っている話し振りだった。そして自分の邪魔はしないとさえ、森川は言い切った。


本を読んでいる時の亜紀子は、自由だ。

想像を膨らませ、物語に身を委ね、何にも侵されない世界だ。


生来の自分を隠し、周りに同調し世渡り上手な『高辻亜紀子』は幻想。その美しさで男を魅了し、楽しい事しか興味が無い、煩わしい事は傅く下々達が片付けてくれる女王様。

そんな女王様が、休日に図書館で時間の許す限り本を読み漁っているとは誰も思わない。


そんな自由を森川に奪われてしまうかもしれないと危惧した亜紀子であったが、背中を見せる森川は迷いなく三階へと上がって行った。其処で亜紀子は彼を追う事を止めた。亜紀子のお気に入りは二階なのだ。

気も漫ろに今日は返却されているだろうかと目当ての書棚に向かう。

図書館は二階から三階に続くオープン階段の造りになっていて、亜紀子は其処から見る事の出来る三階を見上げた。森川は専門書を探して書棚に隠れてしまったらしく、亜紀子に彼の姿を確認する事は出来なかった。


”邪魔をしない” と言うのだから邪魔はされないのだろう。だが、亜紀子は落ち着かなかった。


異性は、亜紀子の容姿に性的な視線を寄越してその先を欲しがった。彼女の服の下を知りたがった。だから森川の態度は些か解せないものだった。

勿論誰もが亜紀子に興味を抱くとは思っていない。そんな救い難いナルシストだとは思っていないのだが……初めてだったのだ。



   ――― あんなにも何気なく亜紀子の前を通り過ぎて行った男は







週明け、亜紀子が学校に行くと、森川は先週末の日直の仕事をサボったと担任に日誌で頭を叩かれていた。其れを近くに居た数人が笑う。彼はほんの少しだけ笑って、自席へと戻り仲の良い友人達と何やら話し始めた。と言っても彼は聞き役なのか、余り口を動かしていない。友人の日比野が大袈裟にアクションを取り、其れを周りが笑って一歩遅れて森川が笑う。

始業のベルが鳴る迄の僅かな時間を各々が過ごす中、亜紀子と森川のクラスに一人の少女がやって来た。



「ナオ」



亜紀子は紗弓達とファッション誌を見ていたのだが、窓際の壁に背を預けていて教室全体を見渡せる場所に居たせいか、教室の扉から中を覗く女子生徒が自然と目に入る。

”ナオ” と呼ばれ、其れに応えたのは森川だった。森川が立ち上がると、日比野が森川の腕を無遠慮に叩き、叩かれた本人は「何だよ」と笑う。その遣り取りを微笑ましく見ている彼女は、森川の恋人であろう事が窺い知れた。


亜紀子は森川の彼女であるその女生徒の名前は知らない。けれど二人の雰囲気が、遠目に見ても昨日今日で培われた物ではない事ぐらい亜紀子にも理解出来た。

背が小さくて、大きな森川を見上げる彼女は彼への想いが溢れていて、亜紀子の目には可愛らしく映る。




物語の中でしか知らない『純愛』を、亜紀子は初めて羨ましいと思った。









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