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僕らの特別  作者: 壬生一葉
落ちるまでの、七日間
13/31

【6】

カフェで使用するオーニングの生地は、結局オーナーも何方の生地を選んだのか解らなくなったと言い、店に足を運ぶ事に相成った。本来なら、デザイン会社の下請けである椎木ではなく、直接取引の横山が確認をしなければならない所であったが、時間が押していた事も有り椎木が其れを請け負った。


カフェ・ナインに正午前に到着した椎木は千景との挨拶もそこそこに直ぐにオーナーへサンプル地を見せる。よく似た生地であるが、一方は白い糸が織り込まれているので、やはりニュアンスが違うのだ。オーナーが指差した品番を紙に控え、念の為彼にも一筆書いてもらう。此処で間違いは罷り通らないからだ。


確認作業を終えて店を退こうとした椎木に、オーナーは「是非、食べて行って」と声を掛ける。特に断る理由も無かった椎木は、頷いた。


ランチタイムは全席禁煙だったが、椎木は以前着席したテーブルへと腰を下ろした。タブレットで先程の品番が控えられた書類を撮影し、会社宛のメールに添付する。

「ご注文はお決まりですか」

オーナーではない男性の声に椎木は顔を上げた。男は少し小柄だが大学生位だろうか、コットンシャツに身体のラインが出ていないので随分と華奢な印象を受ける。

「Aランチ、ホットコーヒーで」

「畏まりました」

僅かに目が細められ、優しそうな顔付きになった男は軽く頭を下げると椎木からは死角になっているキッチンカウンターへと戻った。

そのまま視線を残しているとプレートを持った千景が、窓際へと向かう姿が飛び込んでくる。接客業だと言うのに余り笑顔はない。


   ――― 笑うと、可愛いのに


椎木は残念そうな顔をしながら、千景の姿を追う。

フロアへ先程椎木の元へオーダーを取りに来た男が現れた。男もプレートを手にし、目的のテーブルへと進んで行く。キッチンへと戻る千景と、テーブルへと向かう男が擦れ違う。二人同時に同じ方向へと体を避けるものだから、ぶつかりそうになって千景と男は顔を見合わせた。

千景が笑う、そして男もはにかむ様に笑う。



   ――― あぁ…



心の機微に聡い椎木は、嬉しさの余り表情が緩んでしまった男に、右手で頬杖をつきながら羨望の眼差しを送った。



男の真っ直ぐな気持ちが羨ましい。きっと未だ(・・)誰のものでもない千景の心を手にする権利を持っている男が羨ましい。

手を伸ばす事の叶う男が、恨めしい。



椎木はジャケットの内ポケットに手を伸ばす。カサリとフィルムの音がして、何となく気を落ち着かせた。

そして、此処は禁煙だったと頭を過る。


心を乱している時でさえ、常識を覆すような事を椎木はしない。



もっと即物的な考えで生きられれば、良いのに。椎木は過去何度そう思っただろう。

欲しい物を欲しいと言い、自分の欲を満たす為に是が非でも手に入れる。そうやって出来たのなら、幾らかの幸せを噛み締める事が可能だった筈だ。


例え其れが儚い幸福だとしても。




「お待たせ致しました」


椎木のテーブルに一枚のプレートが置かれ、意識を取り戻して「有難う」と千景に向かって甘い笑みを零す。

千景は椎木の表情と声に、湧き上がる衝動を抑えようと一瞬息を止めた。椎木が見せる微笑みは千景の平常心を奪って、椎木の声は毒の様に身体を痺れさせてしまう。


「こ、コーヒーは食後で良い?」

「うん、後で良いよ。千景ちゃんは今日はフルなんだ?」

「うん…ハイ」


砕けた口調と丁寧語が入り混じる千景の言葉。まる彼女の心が反映されてるみたいだった。

千景は、椎木の存在に戸惑っている。


椎木に焦がれてしまう自分に、戸惑いを感じている。


千景の今日の予定を確認する椎木に、彼女は淡い期待を抱く。もしかしたら、夜又二人で飲もうと言ってくれるのではないかと。千景は期待と緊張でその場から動けない。


「そっか、立ち仕事だから大変だよね。頑張ってね。俺も今日は残業そう」


ぐにゃりと千景の視界が歪んだ。椎木はあっけない程簡単に千景の気持ちを、捻り潰した。

千景の顔が強張るのを椎木が見逃す訳が無い。


千景は接客の定型句等放って、椎木の元から踵を返す。千景が歩く先に、もう一人のスタッフが此方を見ていた。

  

心配、敵意、嫉妬。


あからさまな剥き出しの感情を、椎木は事もなげに受け止める。

椎木が余裕たっぷりの笑顔を男に返すと、男は憤慨した様に顔を逸らし、椎木の視界から消えた。




オーナーの用意したランチプレートを、椎木は綺麗に食した。食後の満足そうな顔が、味を保証している。

そう椎木は、こんな事が有っても料理を味わう位には図太く、出来てる。


そんな風に、生きてる。





   ◇




「藤井、頼んでおいた請求書どうした?」

「昨日の郵便で発送してます」

「サンキュ」


椎木は今日も忙しなく働いている。何も変わらないのだ。

仕事が終わり「お先に」と椎木は会社を後にした。駅に向かう椎木の携帯が振動を起こす。


メールだったら無視も出来たけれど、電話着信ともなれば拒否し難い。そんなに非道なつもりはない。


「もしもし、千景ちゃん? どうしたの?」


柔らかい声色で椎木は、電話の相手千景に問う。


『椎木さん、今から会えますか』


千景の声は逆に硬い。決意を匂わせる其れに、椎木は刹那身構える。一蹴する事は簡単だ。けれど、彼女にはもう一度会いたいと思う。彼女と同等のものは返せないけれど、もう一度会う事は赦される気がした。





椎木は千景のテリトリーである池袋で待ち合わせをした。二人が初めて会った場所だ。

何時も通りの誰が見ても甘やかな笑みを湛え、椎木は千景の前に登場した。定番の待ち合わせ場所だった為、周囲の人間が椎木に視線を奪われた。其れに付随する形で千景にも、好奇の目が向けられる。決して気持ちの良い物ではない。千景は不快になり、眉間に皺が寄る。


そんな千景を見て椎木は笑みを深くした。


「ご飯でも?」

椎木がそう言うと千景は首を横に振る。「じゃぁお茶?」やはり千景は首を振った。話が有るから会いたいと千景の方から言ってきたので、椎木は快諾をしこの場に居る。こんなに往来のある場所で先へ進むつもりだろうか、椎木は頑なな千景を静かに見守った。


「適当に、歩きながらで」


ぼそりと千景は言い、椎木の反応を確かめる様に上目遣いで彼を見上げる。椎木が断るとは思わなかったが、勝手を言って相手を困らせている自覚が千景には有った。


「了解。じゃぁ取り敢えず、あっちの方に歩こうか」


千景の大学がある方を椎木は指差した。


そうして二人は歩き出し、千景が何も切り出さないので椎木も其れに合わせる形で黙って、行く当てもなく足を前に動かした。千景の緊張が痛い程伝わって来る。彼女が、椎木に話したい何かも、椎木には見当がついていた。


木曜の夜の池袋は、週の後半だと言うのも手伝って賑やかだ。飲み屋の近くには幾人もの人間が輪を作っているし、学校の制服を着た学生達も楽しそうに街を闊歩している。

池袋駅からどんどん離れていく椎木と千景は並んで歩いているものの、二人の間に見えない壁があるかの様に寄り添う事はなかった。

千景は俯きながら歩き、右横に歩く椎木の左腕が歩みに合わせて揺れるのを注視する。自分よりも大きく節くれた指。男性の温もりを知らないとは言わないが、こんなに『男』を思わせる手は初めてだった。


繁華街から少しずれて、高架下を歩くとアスファルトの上を勢いよく走り抜ける車の音が激しくなる。


「椎木、さん」


千景が椎木の名を呼んだのは、二人が歩き出してから十分ほど経過してからだった。椎木は「なに?」と優しい声で振り返る。


そんな椎木を見て千景の胸はぎゅっと苦しくなる。息が出来なくなる。一度目を瞑って、彼が目の前に居る事は現実だと言い聞かせるようにゆっくりと瞼を起こす。


「私、椎木さんが好きです」


千景の真っ直ぐな告白を、椎木は俄かに動揺し、受け止めた。想像通りの告白では有ったのだが、こんなに真摯に気持ちをぶつけられたのは、高校生以来の事だった。


椎木が選んできたのは、”美知ではない” 女だった。年齢は年下であったり年上であったり様々だったが、始まりは曖昧なものだった。酒を飲み、ホテルで身体を重ね、翌日からは当然の様にメールや電話で連絡を取った。簡単に『恋人』となり、睦言として愛を囁いたりもする。相手はどうであったか知らないが、椎木なりに彼女達を好きになり大切にしていた。


今、目の前の女は椎木を好きだと言った。

ベッドの中でもない、夜の路上で。


イニシアティブを取られるのは不本意だ。椎木は目を細めて、薄い唇の口角を上げ笑みを作る。


「俺も千景ちゃんが、好きだよ?」


千景は椎木の答えに悲痛な表情で頭を振った。


「椎木さんの好きは、私の好きと違います」

「…そうかなぁ? 俺は千景ちゃんとデートをしたりしたいと思うけど」

「椎木さんは私でなくても、良いんでしょ」


千景の声色は硬い、眼差しは厳しい、身体の両脇に垂れた腕が拳を作りフルフルと震えている。椎木は、そんな千景を不思議に思う。




   ――― 得られるモノが無い事をはなから承知しているのに、何故愚直で居られるのだろう




「…んー千景ちゃんがそう言うなら、そうかもね」


千景には自分の様な軽薄な男ではなく、もっと相応しい男が居る筈だ。きっと、凄く近くに。椎木はカフェで見たあの男を思い出していた。


「私は椎木さんの事何にも知らないけど…笑った顔とか掛ける言葉とか…きっとどれも本物じゃないんだろうけど…それでも、椎木さんの事考えない日はなくて…」


千景は結局自制出来ずに、椎木に惹かれてしまった。何一つ椎木を知りはしないのに、どうしようもなく惹き付けられてしまった。


「俺もだよ?」


椎木は作り物の微笑を湛え、小首を傾げた。


千景は一層傷付いた顔をしたが、椎木から目を逸らさず言葉を紡いだ。


「私が付き合ってと言えば椎木さんは付き合うでしょ」

「勿論。大事にするよ?」

「其れは、嫌なんです。エキストラみたいなのは嫌。だから…」


エキストラ、言い得て妙だなと椎木は感心し、小さく笑ったが次に千景の口から発せられた言葉に息を飲む。


「貴方に、私の痕を残したい」


今にも泣き出しそうな千景の潤んだ瞳は、しっかりと椎木を捉えている。そして、椎木はその千景の言葉に囚われた。二十歳の女が言う台詞ではない。情事になれた椎木でさえ、その言葉に身体がゾクリと疼いた。


「椎木さん、貴方が好きでした。たったの七日間、でも本当に好きでした」


数分前に千景は”好き” だと言ったが今は、過去形へと変化している。意表を突かれた椎木は言葉に窮し、千景は意趣返しが出来たと肩の力を抜いた。

千景は鉛の様に重かった足を少しずつ動かし、椎木との距離を詰める。触れる事が可能な距離に二人は居る。椎木は千景を見下ろしていたし、千景も椎木を見上げていた。


「もう会いません」


もう未練など無いとばかりに椎木の横をすり抜け、元来た道を引き返す千景の足取りは軽い。



さっき見上げた先の椎木の瞳が色を放っていた。

出逢ってから笑顔ばかりを振り撒く椎木の瞳は何も映さないただの瞳孔だったのに、たった今の椎木の瞳は鈍い色を放って揺れていた。



車が行き交う音は止む事を知らない。何処かでクラクションの音がして、椎木は意識を自分の元へ引き戻す。


「はっ…」


右手で口元を抑えたが、込み上げる笑い声が漏れた。


「現代っ子、怖い」

椎木は肩を震わせながら、千景が向かったであろう駅に視線を遣る。


二十歳の子にあんな顔で告白されて、しかも振られるなんて、椎木の人生において無かった事だ。

千景は、椎木に痕を残す事に成功した。傷跡の深さを知る事は叶わないが、椎木の頭の中に井上千景は刻まれたのだ。



見えなくなった千景の背に、椎木が呟く。


「君が、好きだったよ」







椎木は彼なりに、誰かを想う。










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