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虚栄の人  作者: 北川瑞山
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 そしてその後暫く経って、私は遂に会社を辞める決心をした。全く報われなかったが、それでも六年半もいた会社だ。思い入れもなくはない。だから相当に思い切った決心だった。そういう決心がついた理由は何かと言うと、一つは一度失敗した所に長く居続けるのは時間の無駄だと分かったというのと、もう一つは明確な目標ができたということだ。今までは退職の意志があっても、理由はと言えば仕事で認められず、興味もなく、会社の事業内容にも共感できず、また人間関係も劣悪、というような後ろ向きの退職理由だったのに対し、今回はこれをやるから会社を辞めたい、という前向きな退職理由ができたのだ。何を隠そう、私は、公認会計士になろうと決意した。勿論会計士だって組織で働く以上はサラリーマンだ。面倒な人間関係が今以上にあるかも知れない。それにそもそも会計士の就職難が喧伝されて久しい。監査法人に入れるかどうかも分からない。いや、それ以前に、私はもう三十だ。この年齢で、就職も危ないが、そもそも試験に受かるのか?ものを覚えられるのか?不安は数限りない。しかしやってやろうという意欲に燃えていた。そして何か新しいものにチャレンジするとき、どん底から這い上がろうとするときに感じるこの高揚感こそが幸福感の正体ではないかとその時には思えた。予備校の資料を取り寄せ、合格までのスケジュールを大まかに決め、一発合格を心に誓った。そしてまず、カニケンにその決心を打ち明け相談し、力を貸してくれるよう、深々と頭を下げようと思った。プライドなんか捨てた。彼は少なくともこの分野においては成功者だ。彼と同じ勉強をしていれば私にも可能性があるかもしれない。だから彼に勉強の仕方を教えてもらおう。彼は私より優れているのだから。私は正直、切羽詰まっていた。

 私はそう思った週末の夜、仕事終わりに彼と会う約束をした。事前に会計士になろうと思っている決意を伝えたら、快く会ってくれた。その日は猛暑で、夜になっても熱気が昼間のまま街中に居座って、猛威を振るっていた。場所は水道橋。カニケンの家が神保町なので、そこなら時間を気にせず飲めるからだ。水道橋駅の近くの居酒屋に入り、私達は乾杯した。マカオ旅行から数えて、ちょうど一ヶ月ぶりだった。

「会計士目指すんだって?」

「うん」

私達の間に、生温い沈黙が流れた。口火を切ったのはカニケンだった。

「まあね、結論から言えば、思った通りやったらいいと思うよ」

「うん」

私は肝心な時に、言葉が出ない性分だった。数えきれないくらい悩み考え抜いてきたくせに、それがいざとなるとどうしても言葉にならない。嫌になるくらい不器用な性質だ。

「メリットとデメリットあるけど、どっちから話す?」

「どっちでも」

「じゃあメリットから。まあね、そりゃちやほやはされるよ。どこ行ってもスゴいですねっていわれるし。まあ待遇面でも悪くない。今だから言うけど、一年目は550万だった。二年目以降は700万くらいかな。まあ昔の話だから言うけどね」

すると社会人七年目の私は未だカニケンの初年度の年収にすら到達していないわけだ。

「でもね、リスクはあるよ。うちの監査法人にも30歳過ぎて入ってくる人って殆どいないよ。殆どが24から26歳くらいで入ってくるから、就職できたとしても年下の上司の言う事を聞かなきゃいけなくなるのは必至だね」

「今の会社でも俺より年下で職階が上なんてのは結構あるけどね」

「ああ、じゃあそれがもっと著しくなるわけだ」

そうか、そりゃ確かに耐えられそうにない。年下の奴に追い越される屈辱感は、実際自分の身に起こってみると予想以上のものだった。こういう周りから見れば些細なことの一つ一つが私を追い込んでいた。当人にしてみれば、それは全く些細ではなかった。

「それにね、そもそも試験勉強って相当辛いよ。一日十時間くらい勉強しなきゃいけないのって相当だよ。若い頃ならまだしも、俺らの年齢じゃね。俺も今やれって言われたら嫌だもん。それに相当の適性がないと受からないよ。適性のない人が何年やっても受からない試験だと思う」

「そりゃそうだろうね。でもそのくらいの覚悟はあるつもりなんだけどね。人生賭けてるわけだから」

「そう、その間実家に帰って勉強すんの?」

「いや、実家には帰りたくない。あんな所では勉強できない」

「じゃあ一人暮らしして?」

「そのつもり」

「そうか、するとまあ家賃とか光熱費、食費で少なくとも200万はかかるかな。予備校の受講料、交通費その他諸々で300万、いや400万はかかってくると思うよ。勿論最短合格した場合でね」

具体的な金額を言われると流石に気がひける。そんな額の貯金は、私にはなかった。しかしそれはプライドが邪魔して言えなかった。

「アルバイトしながら勉強するのは流石に厳しいよね?」

アルバイトしながら勉強しようとしていた私は、恐る恐る聞いた。

「そんなのはダメだよ。そんなんじゃいつの間にかただのアルバイターになっちゃうよ。そんな中途半端なやり方は友人として止めなきゃいけないね。預金から400万吹っ飛んでもいいくらいの覚悟は必要だよね」

預金に400万もない私は、その覚悟のしようもないわけだった。私は黙ってしまった。

「でももし君が本当に会計をやりたいっていうなら止めないよ。一度しかない人生な訳だし、やりたいことをやったらいいと思うよ」

「いや、本当に会計がやりたいって訳じゃないかも知れない。今のこの閉塞的な状況から逃れたいだけなんじゃないかという気もする。適性だってないかも知れない。でも今の会社で、少なくとも今の状態のままいてはいけないと思うんだ。何とか前に進みたいんだよ」

「それならさ、月並みな話だけど、会計士のまえに、簿記一級受けてみたら?本当に会計がやりたいのか、あるいはそれに適性があるのかも分かるしね。ちょうど今から三ヶ月後に一級の試験があるけど、三ヶ月で受かったら大したもんだよ。そのときは適性があると思っていいと思うね。会社辞めずにまずそれをやれば、殆どリスクもないしね」

「それがいいかもね。今の会社でも簿記は奨励してるし」

「今の君の話を聞いていると、それでも同じだけの満足が得られるような気もするね。実際そこで結果を出せば、周りの評価だって変わってくるかも知れないし、その時に初めて見えてくる事もあるかもしれない。簿記の試験勉強をしながら、たまに街コンにでも行って彼女を探せば、案外気持ちもすっきりするかもよ」

こいつはなんて前向きで、生産的な奴だろうと思った。今まで私は彼のこうした実利主義を軽蔑していたのだ。物事を数値的にしか見ることがないし、口をついて出てくる話題と言えば金の話ばかりだったからだ。しかしそのとき私は自分の後ろ向きさ、非生産性、非現実性を思い知らされた。相手の考えを肯定するでも否定するでもなく、現実だけを見てどうすべきかを具体的に導き出す。会計士としてレベルの高い人間の間で日々研鑽されている人間は、違ってくるものだなと思った。それに比べて自分はこんなにも子供のままだ。自分の人生を賭けてきたか否かで、こんなにも差がつくとは知らなかった。ああ、内心見下していた人間が、ここ何年かでこんなにも立派に成長していた。自分は誰かのせいにして成長を避けてきたんだ。それに気付いた。

「そうしようかな。いきなり会計士よりも、その方が現実的だな」

「うん、勉強するのは悪い事じゃないしね。会社も資格を奨励してるってことであれば、何もデメリットはない気がするよ」

ああ、私はなんていい友人を持ったのだろう、と軽率にも思った。自分に無いものを持ってる。こんな友人の何一つをも理解せず、私は彼に嫉妬し、彼の不幸を嘲笑っていたのだ。それとも私は他人の一言一言に影響されやすい質なのだろうか?目の前にいる人間がいつでも正しく見えてしまう、自我のない性分なのだろうか?確かにそれも少しはあるかも知れないけれども。

「すみません、そろそろ閉店になりますので、お会計だけお願いできますか?」

店員がきた。私達は、お互いに財布を取り出した。カニケンは真新しい財布を取り出した。

「またブルガリにしたの?」

「ああ、迷ったけど、やっぱりこれがいいんだ」

「あれは災難だったね」

「ああ、でももうすっかり笑い話だよ。すぐに被害届を出した英断のお陰で、保険もおりたしね」

何が英断だ。マカオ到着早々警察署に付き合わされたこっちの身にもなってみろ。やはりこいつには無神経な所がある。それは否めない。

 その後私達は店を出て、ドームシティーホテルのバーで、夜景を見ながら飲んだ。カニケンはそこで酒を飲み、饒舌になった。

「俺だってね、悩んでるんだよ。悩みたいお年頃だよ。俺だってこれがしたいっていう思いがあって会計士になったわけじゃない、ただ社会的ステータスに憧れてやってたまたま合格しただけだよ。俺より後に入ってきた連中もどんどん転職しちゃってさ。三十超えたら転職先が一気に狭まるなんて言われて、どうしようかなって思うよ。誰だっていつかは三十歳になるのにね。それに俺の周りは皆高学歴で、俺みたいな地方の公立大出は肩身が狭いよ。監査も飽きたしね。もうやりたくないよ。それなのに選択肢がどんどん減っていくみたいで、不安だよ。でも受験当時は俺だってそりゃあ頑張ったんだよ。最初の頃は大して勉強してなかったけどね、あの頃俺の事を小さい頃から可愛がってくれた婆ちゃんが死んだんだ。ホントに可愛がってくれたんだよ。こんな就職活動に一社も受からなくて、資格浪人してる俺をさ。この子は、今にいいとこに就職して、立派になるって、言ってくれたんだ。でも俺が資格浪人してるうちに、死んじゃった。泣いたよ。それからだね。本気になったのは。昼飯は予備校の向かいのそば屋で、かけそばに天かす山盛りにして15分以内で食って、夜もコンビニの卵サラダパン一つで済ませて、とにかく勉強してた。自画自賛になるけど、これは自分でも偉いと思ってるよ。今の俺なんかよりもずっと偉いね。だから俺の受かった年は合格率が良かったからって運がよかったんだなんて言われると頭にくるんだよね。合格率がどうだろうと、俺は受かってた自信がある」

モヒートのグラスを片手に、カニケンはいつになく真剣な口調だった。

「そうだな、そうやって人生賭けて結果を出した経験が俺にはないからな。羨ましいよ」

それは私の本心からでた言葉だった。

「確かに合格したときの喜びは何物にも代え難いものだよ。でもね、会計士になって何がしたいっていう目標もなかったから、正直これからどうなればいいのかわからない。だから、自分はこれがやりたい、こうなりたいって明言してる人を見ると羨ましいよ。そういう目標があれば、あとはそこに向かって努力するだけだからね」

皆悩んでるんだ、と言って片付けるつもりはない。同じ悩んでるにしたって程度の差がある筈だ。私よりもカニケンの方が現時点では生活も仕事も充実しているのは認めなければならないし、もし私達にカニケンの言う目標ができたとしたら、それが余程突飛な目標でない限り、それを達成しやすいのは圧倒的にカニケンの方だろう。だからどんな立場になっても結局は同じように悩むんだ、などと安易な結論は控えたい。しかし何だろう、共に悩んでいるときのこの安心感は。

「カニケンでもそういう悩みがあるんだね。すっかり満たされているのかと思ったよ」

これは真っ赤な嘘だ。むしろやっぱり満たされていなかったのか、という感じがした。しかしそれは当人の口から聞いてみると、私が思っていたよりも遥かに切実な悩みであることがわかった。

「そりゃあるよ、全然満たされてないよ」

私達は暫くそこで飲んだ。私はロングアイランドアイスティーという強いカクテルや、アードベッグなどのウイスキーなどを飲んだので、相当酔っていた。

 深夜になってバーを出た後、照明が消されて真っ暗で何も見えない中、酔って足取りも覚束ない私達は、張り巡らされたロープを跨ぎ、何とかドームシティーの外に出ようとした。跨ぐ時に全然脚が挙がらないので、悲しくなった。

「脚が挙がらないね」と私が言うと、

「俺らもうおっさんだもんな」とカニケンが言って、それがまた悲しかった。苦笑いしながら、心底うんざりした。

 何とかドームシティーを抜け出すと、私達は私の泊まる予定のホテルに向かった。この日は水道橋で遅くまで飲む事を想定し、私は近くのホテルを取っていたのだ。夜中の二時くらいなのに、熱気はまとわりつくようだった。もうこの辺でいいよとカニケンに言ったが、何故か付いてきた。夜の水道橋を二人とぼとぼと歩くと、無性に落ち着いた。いるべき所にいるような気がした。カニケンが突如言い出した。

「実は俺も相談があるんだけどさ」

「ん?なに?」

「SNSのお見合いサイトで知り合った娘と、明日会うんだ。もう会うのは三回目くらいなんだけどさ、結構美人なんだ。びっくりするくらい。その娘にアタックしてもいいかなって」

「こないだ言ってた女子高生はどうしたの?」

「ああ、あれは自然消滅。簿記の試験が終わったら連絡が来なくなったよ」

「そうか、まあ女子高生はちょっとな。それで、その娘はそれ相応の歳なの?」

「うん、24って言ってた。美容系のセラピストらしい」

「ふーん、アタックしてみりゃいいんじゃないの?嫌いな奴にそんなに何回も会わないって」

「そうだよね?来週から俺夏休み取って実家に帰るんだけど、その間ずっと悶々としてるのも嫌だし、いっその事気持ちを打ち明けて、すっきりしちゃいたいなって思ってさ」

「そうだよ。どうせダメなときはどれだけ時間かけてもダメなんだから、もう言っちゃいなよ」

私は無責任にもそう言った。

「そうだね、言ってみるか!うまくいったらSNSに「桜咲く」って書いておくよ」

その後その話がどうなったか、私は知らない。それについて何も連絡がなく、SNSにも「桜咲く」という投稿がなかったところを見ると、ダメだったかも知れない。人生は、いつも思い通りにいかない。

 その後、猛暑の中やっと辿り着いたホテルのロビーで暫く談笑した後、カニケンと分かれた。私は一人、部屋に入ると、汗まみれになったスーツを脱ぎ、シャワーを浴びて冷たい麦茶を飲んだ。汗は引く気配もない。ベッドの上でテレビを見ながら、カニケンと二人、遠い目をして、アコーディオンを弾いているあの写真を思い出した。何も変わっていない。そのとき、私は何故か涙を流していた。ああ、私達に幸あれ。


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