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虚栄の人  作者: 北川瑞山
5/8

 私達は、ホテル行きの黄色いシャトルバスを見つけ(私はとっくに見つけていたが)、それに乗った。夜とはいえ、その日のマカオは恐ろしく暑かったので、やっと涼しいところに入ることができて、私はほっとしていた。私は疲れていた。この想定外の旅程もそうだが、カニケンの自分勝手な行動にもつくづく疲れ果てていた。ようやくホテルに帰ってカクテルでも一杯やって、ゆっくりできるのだと思った。そこに突然、思いがけない一言が飛び込んできた。

「財布ないんだけど!?」

私は最初、何かの勘違いだろうと思った。だがカニケンの表情が必死なので、少し心配になった。

「スラレタ!」

言うが早いかカニケンは座席から立ち上がり、バスを降りていった。このときはまだ、私はそれを本気にしておらず、すぐに出てくるだろうと思っていた。しかしカニケンは、バスには戻ってこなかった。私は仕方がないので、バスを降りた。私は再び熱気の渦巻く中に放り出された。そこには、路端でスーツケースを丸ごとひっくり返しているカニケンがいた。

「マジで?マジで?」

普段から汗かきなカニケンは、普段の二倍以上の汗をかきながら、叫んでいた。どうやら背中の方に回していたボディバッグのジッパーが気付くと開いていて、財布がなくなっていたらしい。

「マジかよ?何でだよ?」

もうカニケンは泣きそうだった。汗なのか涙なのか判別しかねるぐちゃぐちゃの顔をしていた。私はさすがに見ていられなかった。しかしどうする事もできなかった。

 私達は仕方なく、元来た道を戻っていった。地下道を、来たときとは反対にとぼとぼと歩いた。そして私よりも下の段のエスカレーターに乗ったカニケンは、ずっと俯いていた。来るときとはまるで正反対だ。

 私達はフェリー乗り場の係員に、財布の落とし物がないかどうかを聞いた。が、そんなものはやはりなかった。日本語の話せる係員に事情を説明し、色々と取りはからってもらった。色が浅黒い、若い男性の係員だった。カニケンは狼狽えていて状況説明も覚束ない様子だったが、彼は親切だった。

「マカオ治安大丈夫だけど、たまにスリある」と彼は言った。そして私達に、警察に届け出るようにすすめ、警察署の住所を書いた紙を渡してくれた。タクシーでここに行けということらしかった。

「気をつけて、荷物は前に持ってきて」と、彼は最後まで私達を気遣ってくれた。私は餃子のような形をした自分の見窄らしいポーチに感謝しながら、それを抱きかかえた。このポーチは無理にジッパーを開けようとすると、中身が全部飛び出して落っこちる。その使い勝手の悪さに、そのときの私は心強さを感じていた。

 私達は、タクシーに乗ってマカオの警察署に向かった。きらびやかなネオンの中を、私達を乗せたタクシーは淋しく走り抜けた。カニケンは私の隣でうなだれていて、意気消沈していた。私は彼に声をかけられなかった。暫くするとカニケンは消えそうな声でこう言った。

「ごめん…、旅行中はお金借りる事になると思うけど…」

「いや、それはもう全然気にしなくていい。カードもあるし大丈夫だよ」

この時私は、心の底からカニケンに同情していた。それは嘘偽りのない事実である。だが一方で、私はあろう事か心の底から優越感に浸っていた。何と言う事だ!他人の不幸がこんなにも心地よいなんて!

「ちょっと待ってよ〜!」

カニケンは両膝に顔を埋めるようにしてうずくまり、叫んだ。私は悲しげな表情を浮かべながら、内心は嘲笑っていた。調子に乗って自分勝手にちょろちょろしているからそうなるんだ馬鹿!俺は間違ってなかった!こいつは報いを浮けたんだ!ああ、神様はいるんだなあ!天誅天誅!

 その後マカオの警察署に行って盗難届を出した。マカオと言っても、当然警察署の建物は至って質素で、日本と変わらなかった。しかし日本語の分からない、頼りない警察官は何を話しても状況を理解できないらしく、スマートフォンの翻訳アプリなどを使いながら、何とか盗難届が受理された。こんな調子じゃもう財布は出てこないだろうことが誰の目にも明白だった。

 その後私達は、タクシーに乗ってホテルに向かった。私はどこかで飯を食おうと提案したが、カニケンに無視された。まあ無理もない。この時ばかりは怒りも湧いてこなかった。乗り込んだホテル行きのタクシーの後部座席で、カニケンは頭を抱え、再び嗚咽し始めた。

「ちょっと待ってよ〜!」

「めんどくさがらずに早めにお金分散してればよかった〜!」

「十万近く入ってたんだけど!財布もブルガリの6万5千円のやつだよ!気に入ってたのに〜!」

「ちくしょ〜!ふぁ〜〜ん!ひどいよひどいよ〜!」

私は終始無言でいたが、内心笑いが止まらなかった。合計16万5千円の特別損失計上ですか先生!しかし痛いですな!金の力にものを言わせ過ぎですぞ先生!いやあこんなことなら俺が財布もらっとくんだったな!カジノで増やしてやったのに!元々俺が持ってきた金だったんだし!

 街のネオンが、極彩色に飛び交って私達を迎えた。涙目で、カニケンはそれらを見上げる。

「ふぁ〜ん!何でこうなるの〜!」

私はもう、勃起していた。グランド・リスボアの天に向かって花開くような、豪奢を極めた建物が眼前に迫ってきた。これぞマカオのシンボル。根元のギラギラした装飾が球根みたいだ。その周りを、タクシーは急ハンドルを切って、乱暴に、優雅に疾駆する。

「これ見るの楽しみにしてたのに〜!ふぁ〜ん!」

私は射精しそうだった。やがてタクシーは長い橋を渡り、タイパ島に着いた。ギャラクシーホテル、フォーシーズンズ、ベネチアンホテル、その他数えきれない程のラグジュアリーホテルがそびえ立ち、目も眩むばかりの光を、光沢のある建物の外壁からギラギラと放っていた。まるで成金趣味と言われようが何と言われようが開き直っているみたいな、清々しいくらいの派手さだった。南国風の街路樹と西洋風の建築、それらを取り巻くネオンの渦が私達を迎え撃った。禍々しい、悪魔の根城のような、悪趣味な美しさだった。

 眩いネオンに頬を照らされながら、カニケンはもはや放心状態だった。

「あ〜あ、財布なくなってなかったらテンション上がりまくりだったのにな〜。まさかこんな事になるなんて〜」

ああ、お前のテンションなんて上がりまくらなくて本当に良かったね。あれ以上自分勝手に騒がれていたらたまったもんじゃなかったよ!むしろ何か今のお前は落ち着いていてなかなかいいよ。ずっとそんな感じでいてご覧よ!代わりにこっちがテンション上げてやるよ!財布があるって幸せ!

 私の気持ちの悪辣さについて、何も弁解などはすまい。私は本当にこう思ったのだ。そして私は同時に、自分の中でわだかまっていた悩みが嘘のように消えていくのを感じた。たかが十万やそこら無くなったくらいで、人間はこうも不幸のどん底に陥るのだ。会社を辞めなくて本当に良かった!俺は会社を辞めないぞ!いやーセーフセーフ!安定した大企業万歳!

 やがてタクシーは目的地のコンラッドホテルに着いた。立派なホテルだった。だだっ広いエントランスの隅々にまで冷房が行き届いていた。カニケンはすぐにホテルのフロントに電話を借りて、カード会社に連絡し、盗まれたカードの使用を止めてもらっていた。カニケンの話によると、財布が盗まれたと気付いたのとほぼ同じ時刻に、ATMでカードからお金を引き出そうとした痕跡があったらしい。とするとやはり落としたのではなく、盗まれたのだ。カニケンはそれを聞いて、財布が戻ってくる事を諦めた。フロントで長々と電話をするカニケンを、私はずっと待っていなければならなかった。本当は早いところカクテルでも一杯やりたかったし、何より夕飯を食っていないので腹が減っていたが、自分だけ行くわけにもいかず、ずっと待たされた。その間、私はホテルのエントランスに飾ってある花や噴水をぼんやりと見ながら、時間をつぶさなければならなかった。それはそれで楽しかったのではあるが。

 やっとカニケンの電話が終わり、私達は部屋に案内された。さっきのフロントの説明によれば、スイートの部屋が空いたので、料金そのままでスイートに格上げしてもらえるということだった。幸運だ。名うてのラグジュアリーホテル、コタイセントラル、その中でも最も高級なコンラッド。そのスイートと言ったらどんなものだろう?私は期待せずにはいられなかった。私は女性ホテル従業員に付いていきながら、昂る気分に胸をときめかせていた。カニケンは微妙な角度に首を落とし、うなだれていた。ここにきて、カニケンと私の立場が入れ替わっている事を知った。私は確かに興奮していた。

 そして27階までエレベーターで上がり、部屋に通される。ドアを開けた瞬間、そこで見たものは、ここまで来るのに散々膨らましてきた期待をも更に上回るものだった。通された部屋には、それこそ見た事もないような、贅を尽くした、だだっ広い空間が広がっていた。入口を入ると、コーヒーメーカーや飲み物やつまみの用意された濃緑の大理石のミニバーがあり、それを通り抜けるとリビングである。シャンデリアの下にテーブルがあり、そこで椅子に座りながら煙草なども吸う事ができる。その奥には円形の低いテーブル、それを囲むようにして白い革張りのソファーが弧を描き、その上に白と茶色のクッションが交互に並べられ、それと対面する壁には大型のテレビがかけられていた。奥の大きな窓からはギラギラと流水の様に輝く眩しいマカオの夜景を見渡す事ができた。リビングを抜けると、別に広い寝室があり、そこにも大きな窓から夜景が一望できる。寝室にもリビングと同じ大きなテレビがかけられているという徹底ぶりだ。そして寝室の更に奥に浴室があり、巨大な鏡と大理石の浴槽、シャワールームまで用意されている。目につく何もかもがラグジュアリーだった。高々三十歳やそこらでこんな部屋に泊まっていいのか、などという罪悪感すら感じられた。女性従業員が大方の説明をして

「それではごゆっくり」と言い残して出て行った。

私達はそのお互いの顔も見えないくらい込み入った作りの、広すぎる部屋に二人になった。私はリビングにいて、カニケンは奥の寝室にいた。奥からベッドに倒れ込む音が聞こえ、続いてカニケンの一人呟く声が聞こえた。

「あ〜あ、財布なくしてなかったらテンション上がりまくりだったんだけどなあ…」

「人生でこんないい部屋に泊まる事は二度とないんだろうなあ。人生最良の思い出と人生最悪の思い出が混在しているんだけど…」

顔は見えないが、カニケンはベッドの上で仰向けになりながら、泣いているのかも知れないと思った。ふと私は、小学生の頃にカニケンがスーパーの自動扉に激突して仰向けに倒れていた図を思い浮かべた。頭に血が上り過ぎて、興奮し過ぎて、透明なガラス戸に激突し、仰向けに倒れるカニケン。あの頃と何も変わっていないなあと思って、少し笑ってしまった。その笑いは勿論、カニケンに聞こえる事はなかった。私は白革のソファーに座り、クッションに腕を乗せ、ばかでかい窓に広がる素晴らしい夜景を見ながら、人の不幸に一人ほくそ笑み、そろそろ飽きたななどと思っていたのだ。悪趣味極まりないが、愉快だった。

 急にカニケンが、こちらの部屋に来て言った。

「お金おろしにいこっか?」

何がいこっかだ。お金貸してくださいだろう。全く被害者だからといっていつまでも気を遣ってもらえると思ったら大間違いだ。しかしそれは心に押しとどめ、言わなかった。私達は部屋を出て、私は一階にあるATMでお金を下ろした。勿論銀行のキャッシュカードは使えなかったので、クレジットカードで下ろした。異国の地でクレジットカードを使うのは少々不安だったが、仕方がない。後で手数料も併せてきっちり請求してやるぞと思った。

 そして私達はラウンジでドリンクを飲んだ。間接照明にスワロフスキーのカーテンが眩しいラウンジだった。私は深いソファーに体ごと預け、やっとこさとばかりにフローズンダイキリを頼んだが、カニケンはスイカジュースを頼んだ。酒を飲む気にもなれないのだと思うが、それにしても下戸でもないのにこんな所にきてノンアルコールを頼むなんて馬鹿だ。そういえば脂汗で光ったこいつの頭はスイカに似ているな。しかしそれは言わなかった。ラウンジにいる間中、カニケンは一人でスマートフォンをいじっていた。何か調べているらしいが、どうでもいい。会計士先生はどうやら他人に気を遣わなくてもいいご身分であるらしい。そういう周りに無関心な態度が財布すられたりする原因だよ、と心で思っていたが、やはり言わなかった。私は黙ってカクテルを飲んでいた。諸々の不満があったにせよ、カクテルは流石に美味かった。

 それから、腹が減ったので、場所を移して館内のレストランで遅めの夕食をとった。青島ビールを飲みながら、私は担々麺、カニケンは小龍包を食った。その頃にはカニケンも徐々に元気を取り戻していて、普通に会話ができた。ただしあまりに落ち込み過ぎた反動なのか、カニケンの話は暴露話から始まった。

「あまり言いたくない事なんだけどさ…」

「うん」

「最近、高校生の、十七歳の娘と会ってるんだ…」

「なんで?」

「うん、まあ詳しくは言えないけど、あるネット上の機会で知り合ってね、向こうが商業高校の学生だって言うから、こっちは会計士だって言ったら、簿記を教えてくれってお願いしてきたんだよね。それでさ」

「ふ〜ん」

「しかしさ、若い娘はいいよ。職場の三十超えた減損女とは違うよ。今は喫茶店の一席で勉強を教えているんだけど、肩と肩が触れ合いそうなくらい接近してるのよ。するとさ、その娘の髪の毛から甘い香りがふんわりしてくるのよね。それでたまにボールペンの先で僕のほっぺたを突ついてきたりして、もうたまらんのよ。ともすると、僕はもう我慢できなくなっちゃいそうだね。勿論制服姿だしね。たまらんね、犯罪だね!あ〜!」

やっといつもの調子に戻ってきた。しかしそれが鬱陶しくもあった。カニケンの若い女好きは昔からで、年下にしか興味がないとかなり若い頃から公言していた。「三十超えた女は減損対象」が最近の彼の口癖だった。しかし十七歳は流石にないだろう。私はカニケンを軽蔑した。気分が悪かった。三十にもなってまだそんな高校生の遊びのような事をしているのかと、怒りさえ湧いてきた。そろそろ友達付き合いを考えようかとすら思った。そして自分の肩書きをちらつかせて未成年者を絡めとっている阿呆は財布をすられて当然だと、こじつけの因果応報がふと私の中に浮かんできた。

 こうして私達のマカオでの一日目が終わった。長い一日だった。疲労困憊の私達は、順番に風呂に入り、ばかでかいベッドの上で、ふわふわで気持ちいいバスローブを着て、深く眠った。


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