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その翌日、私は予定通り羽田空港国際線ターミナルで、カニケンを待っていた。いい天気だ。気温もちょうどいい。ロビーの柔らかな革張りのベンチに腰掛けて、本を読んでいたが、どうしても文字面を追いかけているだけで内容が頭に入ってこない。「会社辞めようかな」その言葉が頭の中でかけずり回っていた。私は仕方なく本をしまって、ロビーを見渡しながらぼんやりと考え事に耽った。
まだ時間が早いせいか、ロビーには人もまばらだった。私の隣には東南アジア系と思しき母親と、その子供がいた。子供はまだ歩けるようになったばかりというくらいの幼さで、私のスーツケースのところによちよちと歩み寄ってきて、それを指差し、何か私に言っていた。母親は私に笑いかけながら会釈をし、子供を自分のところに引き戻した。私にはそれが感じのいい光景に感じられ、一時の安らぎを得られた。それが実に何年かぶりの慰藉のようにすら感じられた。それでも私はまたすぐに不安の波にさらわれた。会社を辞めたら、生活はどうしよう?きっと苦しいに違いない。貯金が必要に違いない。マカオ旅行に行く金があったら、少しでも貯金しなければならないのに、俺と来たら…。しかしもう進み出してしまったものは引き返せない。こんなことなら早くカニケンが来てくれればいいのにと思った。その時、携帯が鳴った。カニケンからメールだ。
「ごめん!十分程遅れます!」
カニケンには遅刻癖があり、大抵待ち合わせをすると遅刻する。慣れたことだったが、この時の私は少々苛立った。この罪悪感の欠片も感じられないメールが気に触ったし、何より気分が気分だった。仕方がないので、私は空港内のコンビニでコーヒーを買い、一気に飲んだ。空腹状態だったので、気分が悪くなり、更に落ち込んだ。コーヒーを飲むと、血糖値が乱高下するらしい。頭の中が、どんよりと曇った。しかし、何となく、今の自分はとことん落ち込むところまで落ち込むべきであるような気がして、不思議なくらいに違和感はなかった。
その後、暫くしてカニケンが現れた。一目見て、完全に浮かれていると分かった。派手なアロハシャツに、妙な麦わら帽子など被って現れたのである。それがいつものように左手で額の汗を拭い、右手でガラガラとスーツケースを引きながら、足早に歩いてくる。こう言っちゃなんだが、実に不格好である。
「いやいや、遅くなって申し訳ない」
そこにいつもの早口が飛び出す。カニケンは早口でしかも声が小さいので、何を言っているのか聞き取りにくいところがある。
「いや、大丈夫」
私は苛々した気持ちを抑えて、穏やかに言った。
「だいぶバカンスに行きますって感じの格好だね」
「行けば分かるよ。浮かれる気持ちが。天国だよ。今からテンション上がってしょうがないよ」
「天国ってそりゃあ…」
私が言い終わらないうちに、カニケンはすたすたとレンタルWi-Fiのコーナに歩いて行った。
「Wi-Fi借りる?ここで借りると現地のホテルで借りるよりも安いみたいよ。ここだとまあ750円くらいだけど、むこうだと千円以上するんだよね」
「ふーん、でも俺は多分向こうでネットすることはないと思うし、今回はタブレットも持ってきてないからなあ」
私は、正直Wi-Fiの話などどうでも良かった。
「スマホで繋ぐとバカ高い通信料とられちゃうからね、でもWi-Fiスポットで繋げばまあ…、ホテルの一階にはスポットがあるらしいから…」
私はもう返事をしなかった。Wi-Fiどうのこうのに興味がなかったのもあるが、カニケンの話というのはこういう自己完結型の独り言が実に多いのである。会話をしている様でいて、実は呟いているだけなのだ。返事のしようがない。結局Wi-Fiは借りなかった。
私達は、空港の本屋でガイドブックを買ったり、お茶を飲んだりして、時間をつぶした。食事は機内食が出るだろうから、空腹だったが我慢した。私は、何故か機内食というのが好きなので、お腹をすかせておこうと思ったのだ。
お茶をしている時に、私はカニケンにお金を渡そうと思い付いた。旅行代金をカニケンに立て替えてもらっていたからだ。現地で使う小遣いにするから、当日に現金で持ってくるように言われていたのだが、正直大金を財布に入れて持ち歩くのが不安で、早く渡してしまいたかった。
「カニケン、ここでお金渡そうか?」
「ああ、そうだね、俺全然金持ってきてないから」
「じゃあこれ、十万円で」
「ああ、はいこれ、256円のお釣り」
「ありがとう」
私は軽くなった財布を見て、ほっとした。そしてまた不安にもなった。こんなに派手に散財していて、まともに会社を辞められるのか、と。そしてまた一方では、たったの十万円ぽっちでびくびくしていたら、とても会社なんて辞められないぞ、会社を辞めるということはそれよりも遥かに多額の生涯賃金を失うことなのだからな、と思い直したりもした。そしてとにかく今は旅行を楽しもうと、頭からこのことを追い払おうとしたが、それはうまくいかなかった。私は多分、旅行者にしては浮かない表情をしていただろう。一方カニケンは一人、さっき買ったガイドブックを熱心に読んでいた。一緒に旅行している者同士のこの心のちぐはぐは、一体何と表現すれば良いだろう。強いて言うなら、一人がカラオケで熱唱している間に、もう一人は曲選びに夢中になっているあの感じだ。一緒にいても、孤独は癒されない。そして何より驚くべきことには、この時既に足音を潜め忍び寄っている災厄は、落ち込む私ではなく、浮かれているカニケンの方に忍び寄っていたのである。
私達は香港空港行きの便に乗った。香港からフェリーでマカオに向かう予定だった。飛行機に乗って、無事飛び立ったはいいが、私達はお互いに完全に孤立していた。機内食を食べ終えた後にはなおそれが顕著になった。まあそれは、飛行機に乗っている間中しゃべっているわけにもいかないし、普通のことであると思うけれども、それにしてもカニケンには話しかける余地がなかった。彼はガイドブックを読んでいるか、ニンテンドーDSをやっているか、座席に装備されている画面でゲームをやっているか、どれかであった。それでも何か私から話題を提供すればよかったのだが、残念なことにカニケンと共有したい話題は私としても一つとしてなかった。その場凌ぎの会話をしても全て単発で終わってしまうので、私ももう諦めて本を読んでいた。しかし内容が頭に入ってこず、やはり「あのこと」ばかり考えてしまうのだ。
これまで、私にはどこか自己愛的なところがあった。そしてそれを守り通す為に、あらゆる人やものを言い訳に使ってきた。環境が悪い、会社が悪い、親が悪い、運が悪いなど。そうした全てが間違いではないかも知れないが、しかし自分の無能力を認められない自分がいたことは確かだ。そして本当は自分の無能力に、無意識のレベルでは気が付いていたのだ。それも大分昔から。それを認めたくなく、またそれを他人に察知されたくなく、いつも自分に対する自己イメージを守り抜いてきた。しかし、それは単なるナルシシズムだったのだ。大して好きでもない仕事に、会社に、しがみつかなければならなかったのは、正にこのナルシシズムが故のことだろう。何とか正社員の、知的労働者の、安定した収入を確保する能力のある者の地位を守り抜き、他人に対してというよりも自分に対して格好をつけたかったのだ。しかしこの期に及んで、もうそうした自己欺瞞は一切捨ててしまおう。自分の無能力、不完全さ、どうしようもない無力さを認めて、その上でやりたいことを考えよう。もちろん、自己欺瞞とか自己愛を捨てろと言ったって、すぐにできる話じゃない。それらは心の奥底に巣食っているのだから。だから会社を辞めてやるんじゃないか。まずは行動だ。行動して始めて気持ちだって付いて来る。私はそこで孤独になる、無力で不安になる。帰属感や安定感は失われる。しかしそれと引き換えに自由を得る。そこで始めて、何か分かる筈だ。とにかく、ずっと考えてばかりいても同じ思考を繰り返してしまって、どうしようもない…。
「マカオ料理、ポルトガル料理」
ガイドブックを睨んでいたカニケンが突如呟いた。
「え?」
「香港料理」
「香港?」
「食いたいわ〜」
「じゃあ香港で飯食おうか?」
「機内食食い過ぎないようにしなきゃなあ」
私達は、噛み合わない会話のなか、途中の香港で飯を食うことに決めた。そしてまた、私達は元通りに無言になった。私は密かに、自分について考えていた自己愛的な性格が、カニケンにも、もしかすると私以上に見られるのではないかと考えていた。が、勿論それは口には出さなかった。
香港の澄んだ、しかし暗い緑色の海が、眼下に迫ってきていた。それが大して美しくもないのに、妙に妖しげで魅力的だった。