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時は、私が小学六年生の頃にまで遡る。私はまだ、カニケンとは話をしたこともなかった。カニケンの本名は蟹江賢太郎で、勿論略称でもあるのだが、妙に角ばった顔の輪郭と左右に離れた目が何となく蟹を思わせる所があり、そのせいかそのころからカニケンの愛称は周囲に浸透していた。尤も、私はカニケンの愛称を、少なくとも本人に向かって呼ぶことはなかった。クラスも違ったし、何の接点もなかったのだ。ただ二つだけ、カニケンとの思い出がある。一つは、学芸会のオーケストラの時のことだ。カニケンと私は同じアコーディオンを演奏した。別にその時何か話した記憶もないが、当時の写真が今でも残っている。私とカニケンが、隣同士の椅子に座ってどこか遠くを見つめながらアコーディオンを弾いている写真だ。カニケンは小学六年生にしては体が大きかった。多分160センチくらいはあったのではないか。それに対してその頃の私は、ひどく繊細でひ弱なおぼっちゃまといった感じで、140センチくらいだったと思うので、体格の差は歴然としていた。カニケンは今と比べても大して変わっていないのに対して、私はまるで赤子のようだった。しかしカニケンはその後、165センチで身長が伸びなくなった。私は今170センチ程なので、今ではむしろ私の方が大きいくらいで、そういう今この写真を見ると誰もが信じられないと驚嘆する。だが、人間の大きさでは、どうだろう。まあそれは後で考えることとしよう。
もう一つの思い出は、もう少し偶発的なものである。近所のスーパーに、一度地元のテレビ局が取材に来たことがあった。私達田舎小学生はその噂を聞きつけ、少しでもテレビに写ってやろうと、大挙してそのスーパーに押し寄せた。取材と言っても、スポンサーのスーパーの安売り情報を宣伝しようとしたのに過ぎなかっただろう。特別な催しがあったわけでは決してない。ところが、ここで事故が起こった。生放送本番が始まり、地元局のリポーターが懸命にスーパーの安売り情報をアピールし、その周りで小学生達がカメラに群がるそのうしろで、突如大きな音がした。恐ろしい程唐突な激突音だった。柔らかいものが硬いものにぶつかる時に起こる鈍い音、そのあまりにも突然の音にリポーターも、浮かれていた小学生も、あるいはそれに全く関心を抱かずに黙々と仕事をしていたスーパーの店員も、一斉にそちらを見た。そこにはスーパーの入口付近で鼻血を流して仰向けに倒れているカニケンがいたのである。どうも自分もテレビの生中継の撮影に遅れまいと、スーパーの自動扉が閉まっているのも気が付かずに走って駆け込もうとし、ガラス戸に激突したらしい。そこで泡でも噴いていればまだ気が利いていたのだが。その後、暫く私達の小学校では、カニケンが自動扉に激突した話題で持ち切りだった。この出来事は、後に話すであろう話をする上でも重要な意味を持っていると思われる。カニケンは興奮しすぎると周りが見えなくなる性格の持ち主だった。この性格が後々まで尾を引き、三十直前の今日になってある事件を引き起こすのだ。
とまあ、小学生時代での思い出と言えばこのくらいで、この頃まだ私達の間柄は赤の他人と言ってもいいくらいにお互いに無関心だった。私達の距離が急速に縮まったのは、中学生の頃だった。たまたま同じクラスの、前後ろの席になったことで、私達はいつの間にか気の置けない親友同士になっていた。なぜそうなったのか、色々な要因があるだろうが、一つには私達がクラスの成績トップを争っていたこともあると思う。当時、カニケンと私は僭越ながら成績優秀で、クラスの中では大抵一二を争っていたものだ。だが私は殆どの場合、カニケンだけには勝てなかった。後一歩のところで、どうしても勝てないのである。また、学年の弁論大会でも、後一歩のところでカニケンに負けた。国語の節穴教師が独断でクラス代表をカニケンに決めたのである(因みにその時のカニケンの弁論文のタイトルが『ベストを尽くせ!』という幼稚極まるもので、内容はといえばただ夏休みに部活動を頑張りました、という薄っぺらいものだった。対して私のは、『内申点制度と教師の権威について』というこれまた教師から絶望的に嫌われそうなタイトルだった。だが内容は私の方が圧倒的に優れていたと今でも思うし、私は今もってこの判定に納得がいっていない)。そういう意味で私がカニケンにライバル意識を燃やしていたのも、私達の仲が急速に温まっていった要因であると思う。私は少なくとも学業面では、カニケンを尊敬していたのである。
しかし一方で、私はカニケンがいけ好かなくもあった。カニケンは当時から相当な野心家で、自尊心のかたまりのような人間であり、成績と内申点のためには手段を選ばない所があった。多分私だけでなく、他の連中も少なからずカニケンをいけ好かなく思っていただろうと思われる。いつも我田引水を目論み、その為に最も効率のよい方法を導き出し、その通りに振る舞うことが出来るタイプで、またそういう振る舞いを公然となすことを何ら躊躇しない、恥ずかしいとも思わない、まるで息をするように平然とやってのけられる、ある種鈍感なところがあった。典型的な「点取り虫」だったのである。そういう性格もあって、カニケンは周囲には嫌われていたものの、教師の間ではかなり評判が良かった。まあそうなるように本人が意識していたのだから、当然である。対して私はそうした小細工を弄することや権威に追従することを嫌う性質であり、他者の評価などくそくらえで、先の弁論文のように、自分の清潔さを証明したいがために、公然と教師を嘲るようなことばかりしていたため、教師達からは頗る評判が悪かったし、内申点も然りであった。これも当然である。そのせいか、私とカニケンの成績は大した違いもなかったのだが、カニケンは推薦入試であっさりと志望校に合格したにも拘らず、私は一般入試でそこに挑み、その上不合格で、不本意にも別の私立高校に通わねばならなかった。これは私にとって相当の屈辱であり、挫折でもあった。自分で撒いた種とはいえ、どこか納得のできないところがあった。ともすると、私はカニケンを憎悪さえしていたのである。「実力では決して負けていない」当時の私はそんな風に考えて、自分のプライドを守っていた。この「実力」なるものが他ならぬ他者からの評価であることに気付いたのは、私が社会人になってからであったのだが。
とまあ、そんなこともありながらも、中学の頃から私達は総じて仲が良かったし、別々の高校に進んでからもお互いたまには連絡を取っていたのであるが、と言って別にカニケンが私にとってそう特別な存在だったわけではなかった。カニケンよりも仲のいい友人が私には沢山いたし、連絡をとっていたとか、たまに会ったりすることがあったとは言っても、それは中学の同級生達と何人かで食事に行った時のメンバーにたまたまカニケンが含まれていたというのに過ぎなかった。カニケンだけと特別深く付き合っていたわけではないのである。だから、カニケンがその後どんな高校生活を送っていたのか、その辺は私にはよく分からない。分かっているのは、東京の大学に行きたかったが親に最後まで反対され、そうこうしているうちに大学入試を受け損ねて、後期日程で受験した地元の公立大学に現役で入学したということである。カニケンの学力を知る者は、名もない地元の公立大学なんてと、少々驚いた顔をしたものだが、よく考えれば後期日程というのは前期日程よりも遥かに倍率が高く、受験者の殆どが不合格となるところを合格したことを考えると、やはりカニケンの学力は相当に高かったのだろう。
私はと言えば、学力不足で一年浪人した。学力がそれほどでもなかった割に、理想は高かった。しかし一年後には晴れて東京の大学に入ることができた。カニケンは、たまに会うと私を羨望の視線で見た。一浪したとはいえ、東京の大学に入学し、東京で生活しているということが、カニケンにはとても眩しく映ったようであった。そのためか、カニケンはときたま東京に遊びにきた。その際は私と行動を共にし、遊び、一緒に飲みにいった。そして夜は私の下宿していた部屋に泊まっていった。こうした付き合いを続けるうちに、私達の間柄は、中学時代以来、いやそれ以上の親密さを呈していった。そうしてそのうちに、私はいつしか、あの頃と変わらぬ強い自尊心、野心をカニケンの中に見出した。彼は東京に住みたいという野望も捨てていなかったし、あわよくば東京の大企業に就職して一旗揚げたいと考えているらしいことが分かった。
そのうちに、カニケンは大学三年になり、就職活動を開始した。彼はやはり、東京の会社を志望していた。カニケンが東京に出てくるのを、私はよく部屋に泊めてやった。地方から東京の企業の面接を何度も受けにくるのは、貧乏学生には相当に辛かったらしい。私はせめて宿代だけでも援助してやれるように、カニケンを快く泊めていた。カニケンはスーツ姿の疲れきった表情で、何回も面接を受けていた。だが結果は悉く惨敗で、一社としてカニケンの入社を許してくれる会社はなかった。私は日に日に疲れていくカニケンの表情と、くたびれたしわだらけのスーツを見て、哀れに思った。だがやはり、カニケンが一社も入社試験を通過しなかったのは、当然と言えば当然なのだった。第一に、カニケンが面接を受けにいく企業は大抵誰でも知っている世界的大企業、優良企業であり、そんなところから地方の公立大出身のカニケンがそう簡単に内定を得られるわけもなかった。はっきり言って、高望みだったのだ。それもカニケンの強すぎる自尊心のなせる技だったのだろう。第二に、カニケンはペーパーテストこそ得意だったが、コミュニケーションにおいてはからっきしダメであったということだ。引きこもりのオタク人間で、声が小さく早口で聞き取りづらいし、その上話し出すと額の汗が止まらなく、目に流れ入ろうとするそれを拭きながら話す癖があり、何となく相手に不快な印象を与えた。また、それでなくともカニケンは言葉に対して無神経なところがあり、自分の野心や他人への軽蔑などを必要以上に開けっぴろげに話すことがあった。例えば、中学時代の話だが、カニケンが学級委員に立候補したことがあり、その動機を教師から問われた際に、「内申点のためです」と平然と答えたことがあった。まあさすがに面接の場で「御社が大企業だからです」とか「安定した収入のためです」と答えるとは思わないが、あの無神経さで面接を突破できる筈もないなと誰もが思うだろう。そういえば、カニケンは大学時代に怪しげなオタク系のサークルに入っていたらしいのだが、そこで仲間達とアニメを見たりゲームをしたりといった非生産的かつ閉鎖的な活動に明け暮れていたらしい。彼の大学時代の話と言うと、まるっきりそれしか聞いた事がない。そうするとカニケンは大学時代、コミュニケーション能力を磨くことはおろか、学業面でも大した研鑽を積んでいなかったのだろう。これでは面接時にアピールできることなどあるわけもなく、落ちるのが当然である。第三に、カニケンは当時、見た目に相当無頓着だったということだ。これは彼がオタク系の学生だったことを考えれば大方想像がつくだろうが、やはりカニケンの見た目には清潔感というものがなかった。髪の毛は常時べたついていたし、顔は汗でてかり、スーツはしわだらけ、一度は上下が全く別の色のスーツを着て面接に出かけていったことさえあったくらいである。これではとても採用されまい。
カニケンについて随分と酷なことを書いてしまったが、これでカニケンの就職活動がうまく行く筈のないことは読者にもおおよそ分かってもらえただろう。カニケンはあえなく、就職活動に全滅したのである。いくらカニケンが高望みで、業界屈指の大手優良企業しか受けていなかったとはいえ、この結果は相当カニケンには応えたらしい。そこでカニケンは方向転換をしたのである。
カニケンの就職活動が終盤に差し掛かり、未だ何らの戦果も持ち帰れないでいる時期、カニケンが面接を受け終えたある日の夜、二人で近くの安酒屋に飲みに行くと、カニケンはビールを舐めながら、愚痴るように言っていた。
「どこにも引っかからない負け犬の俺が言うのもなんだけどさ、例えばもし運良くどこかに引っかかってだよ?それで普通のサラリーマンとして働いて、それで本当に自分は満足なのかって、最近思うんだ。サラリーマンだよ?なりたくないよ」
カニケンは明るい人柄だ。こういうことをいとも明るく、沈んだ様子もなく言ってのける。ああ、こんなことを居酒屋で声高らかに口走ったら、それを小耳に挟んだ周囲の「普通のサラリーマン」達の逆鱗に触れるのではないか、という心配は元より彼の眼中にない。なんて幸せな奴だろう。差別的発言が息をするように口をついて出てくるということは、もはや差別意識が前提にあって、その上で自己を表現することに主眼が置かれているのである。差別するつもりのない差別。無意識から出る差別。それこそが実は差別というものの本質かも知れない。
ともかく、そういう分不相応なサラリーマン蔑視が高じて、それが若いうちに資格取得にチャレンジして、スペシャリストとして働いた方がどれだけ有益か分からないという上昇志向に変わっていくのにそう時間はかからなかった。カニケンは、心機一転、公認会計士を目指した。大学を出てもどこにも就職せず、予備校に通い続けた。その間に一度だけ彼を誘って飲みにいったことがある。そのときのカニケンは安っぽいウィンドブレーカーを着て、分厚いレンズのメガネをかけていた。頭髪も顔面も脂ぎって、青白い顔に無精髭を生やし、その上不健康な太り方をしていた。その姿を見て、流石に不憫に思った。しかしその後なんやかんやと言われながらも、何とあっさり二年で合格してしまった。これにはさすがに私も驚かずにはいられなかった。いくらカニケンがペーパーテストに強いとは言え、二年で公認会計士に一発合格するなんて、スゴい奴だと言わざるを得なかった。
だがここで白状しておかねばならないのは、彼が公認会計士に合格したと聞いたとき、私は全くもって面白くない気分だったということだ。実に面白くない、不愉快、憂鬱とさえ言って差し支えない気分だった。勿論、カニケンが無意識に人を見下すような人種だったから、というのもある。そういうナルシストじみた人種が成功して調子に乗っているのを見るのは、誰でも面白くないだろう。だが、それ以上の理由がある。それは私がその時サラリーマンだったということである。私は正に、彼が過去に蔑視した「普通のサラリーマン」だったのだ。それまでは負け犬の遠吠えくらいに思ってさして気にもしていなかったが、こうして彼が夢を実現してしまうと、その差別の正当性が証明されたようで、実に面白くなかった。本当に下世話な話だが、これが正直なところである。
しかし、本当に面白くないのはここからだった。カニケンは、試験に合格して勢いづいたのか、インターネット上に自身のSNSを立ち上げた。このSNSの自己紹介文をここに掲載しておこう。
「大学四年時に就職活動を行うも、自分の人生このままで良いのか、ただのサラリーマンになるだけで本当に満足か?という疑問を抱き、公認会計士を志す。そして二年後、公認会計士試験に一発合格を果たす&就職。社会人としてのスタート地点に降り立つ。んで、現在に至る。とりあえず今は英語の勉強したいかなー。 海外旅行にいっぱい行って、三十前に留学するのが目標です!合言葉は「ベストを尽くせ!」。資格浪人時代のことを思えば、できないことは何もない!」
全体的に舞い上がった文章なのはまあいいとして、「ただのサラリーマン」という考えは基本的にあの頃から変わっていなかったわけだ。まあそれでもまだこのくらいは可愛いものだ。しかし、その後の舞い上がりっぷり、傲慢さは、はっきりと酷いの一言に尽きた。例として、SNSに掲載された彼の日記の一部を挙げておこう。予め言っておくが、気分を害すること請け合いである。
「つうか俺の完全勝利です。俺様の人生にはなぁ、HAPPY ENDしか用意されてねぇんだよ!俺様が公認会計士(試験合格者)だよ!さぁ惜しみない賞賛の言葉と視線を頂戴な!遠慮することはないよ?思う存分褒めちぎるがよいッ!というわけで東京に弾丸祝賀会ツアー行ってきました。画像を何点か載せときます。会場は帝国ホテルでした。帝 国 ホ テ ル だよ?スイートいくらすると思ってんの!?m9(^Д^)プギャー年550ちょっとじゃ到底泊まれないようなところの料理食べ放題キタコレ!ローストビーフ二回くらい並んじゃったよ。この高級感こそ俺様が求めていたものさ!いやぁ、昨日今日で世界が変わったね!まじで。思うところが多少はあるんだけど、それはまた今度。今は、ようやく手に入れた地位と名誉にひとまず酔いしれようと思います」
「昨日不在だったため届かなかった合格証書を取りに郵便局へ。受付のおねいさんが、封筒の「合格証書在中」をみて「うわっすごっww」って言ってた!そうだよ!俺はすげーんだよ!m9(^Д^)あと、予備校に授業料返還の手続に行ったら、受付のお兄さんが「一回で合格なんてホントスゴイな~まだ若いのに」ってしきりに褒めてくれました!そうだよ、俺は秀才なんだよコンチクショウ!ヽ(゜∀゜)ノさぁ~て、明日は大学にチヤホヤされに行こう~っと♪」
「ただの会社に興味はありません。この中に一部上場会社、株式公開予定、M&A予定会社がいたら、あたしのところに来なさい。以上! という偉そうな監査法人に就職する訳ですね。てなわけで今週末は東京行きますよ!さて今日は皆さんにクイズです。世の中に株式会社なんて掃いて捨てるほどありますが、俺様が監査に行ってみたいと思ってる会社は一体何処だと思います?」
「僕の後ろに道はできる」
「就活から帰ってきました。もう結構前だけど。結果、二社受けて二社とも内定貰えますた!そんなに俺が欲しいか、うりうり!ちょろいもんだ!今回の就活は、超売り手市場ということもあって、何処の法人行っても接待されまくりでした。まじで食費かかんないです。ハッハッハー羨ましいだろ!m9(・∀・)」
本当はまだまだこんなものではないのだが、もうこの辺にしておこう。紙面が汚れる。何かに恵まれなかったために、絶えず周りから軽蔑され、虐げられてきた者が急に権力を持った時、とたんに怪物になる。ヒトラーだってそうだし、彼に従った民衆だってそうだ。カニケンだって同じようなものだ。何せオタクで自己中心的なために、友情面でも恋愛面でもうまくいかず、しかも大学も行きたいところに行けず、就職活動でもつまはじきにされ、無職の資格浪人生として鬱々としていた積年のコンプレックスが一気に反動化したのだ。このSNSでカニケンが少なからぬ友人を失ったことは間違いがないが、こういうコンプレックスの反動は何もこのSNSだけでなく、実際の会話にも現れていた。以下は私と直接会ったときの、酔った彼の発言だ。
「あのとき、誰かが俺を救ってくれたか?無職の俺を「お前まだ親の臑かじってんの?」とか「何その分厚いリュック。同人誌でも入ってんの?」なんて言って侮辱したじゃないか。言いたい放題言いやがって。今俺が何を言おうと、文句を言う権利なんて誰にもありはしない。俺は正しかった。間違っているのはあいつらだったんだ。俺に暴言吐いた奴にはその分覚悟してもらわないとな」
このあいつらというのが具体的に誰のことを指しているのかまでは分からなかったが、大方地元の民度の低い連中だろう。確かにそういうことを言いそうな奴は沢山いる。因みに私は逆に「応援してくれた数少ない友人の一人」だそうで、大いにお誉めにあずかった。だが私は内心ではやはりこのコンプレックスの反動を喜ばなかったし、こんなことなら応援なんかするんじゃなかったとまで思ったものだ。何より、その様子は彼自身が全く満たされていないことを物語っていた。もっと賞賛されたい、もっと誉められたいという自己愛的欲求が全身から湯気のように漂っていて、そのくせその期待が全く裏切られている様子で、見るからに満たされていなかった。公認会計士という、社会的ステータスの高い仕事に就くことができて、「ただのサラリーマン」が得られる以上の高い報酬を得ているにも拘らず、全く満たされていなさそうだったのだ。それはなぜなのか?当時の私には、思った程の賞賛が得られなかったという理由の他には何も思い浮かばなかった。しかしそれは今考えると少々皮相的な見方に思えなくもない。今思えば、カニケンはもっと根本的な問題、すなわち社会的ステータスや報酬の多寡など、世の中で人間の価値を測るための指標とされている(これも実は誤解なのかも知れないが)ものがおおよそ贋作で、実は大した意味がないという事に気が付いてしまったのではないかと思う。自分がこれまで多大なリスクを取って、血のにじむような努力をし、更にこれからも相当に責任の重い業務に携わらなければならないのに対し、その成果として与えられたものがあまりに詰まらない贋作であったということは恐らく私やその他の第三者が考えるよりもよほど絶望的なことであったろう。そして恐らくカニケンはそれを心の底で気付いていつつも、認めたくなかったのである。これは意識的か無意識にかは分からないが、それに気付かない振りをし、そんな考えは最初からなかった、あったとしてもそれは自分の思い過ごしであると自己欺瞞的な態度を貫いていたのである。「それが如何に詰まらない贋作だとしても、持っていないより持っていた方が余程いい」「何にせよ自分が勝者であることには変わりがない。成功体験やそこから来る自信に価値がある」など、彼が内心の不安をかき消すための材料は十分にあったであろう。しかしそうした自分の正直な気持ちに対して目を背ける行為を日常的に行っていると、人間はいつしか精神的に疲弊し、摩耗する。仕舞いには自分が何を考えているのかも分からなくなり、却って不安になる。カニケンの満たされていない様子は、恐らくそういうところから来ているのではないかと、今では思う。なお、そういう私の推測が私自身の嫉妬心から来ていて、彼は別に満たされない存在ではなく、そもそも社会的成功が必ずしも贋作ではない事も急いで付け加えなければならない。
しかしそうした自己欺瞞的態度があったにしろ、それと上手く付き合っていけるところがまたカニケンの器用なところでもあったらしい。人によっては「自分に嘘をつくのは嫌だ」などと言ってひどく追いつめられたりするものだが、少なくとも外面的にはカニケンはそんな様子もなく、今も公認会計士を続けている。恐らくもう六年くらいになるのではないか。昇進もしたらしい。私はそういうカニケンの鈍感さ、強さが羨ましくもある。なぜなら今では私自身がそうした自己欺瞞的態度に悩んでいるからである。
早いもので、私達は、いつの間にか三十歳目前になっていた。