第一話『無情な世界で』
人が死んだ。
殺したのは吸血鬼で、しかも真祖を名乗っている。その実力は私達よりも上であることは確定していて、しかし、それは決して退く理由になどなろうはずもなかった。
――ここで殺さねば王都が落ちる。
予想でも予感でもない。今の王都が出せる最精鋭で挑んでいる以上、私達が、いや、私と隊長が殺されてしまえば、現状で彼を阻む物は何もなくなってしまう。
こうして戦闘が始まってしまえば、私達が事前に行った目算がどれほど愚かしく傲慢なものだったかが良く分かってしまう。それほどに、討伐隊と賊の戦力は開いている。
戦力的には百十三対一であったにも関わらず、騎士団は隊長以外盾にもならず、死線で生きる事に慣れているはずの冒険者達も、どう動いても明確な死のイメージしか浮かばないような圧倒的強者の存在感に呑まれてしまっている。
実質的に二対一、しかも、百十もの足手纏いを抱え、対する向こうは不死との呼び声高い吸血鬼の、始祖にも届くとまで言われる真祖なのだ。
勝てる勝てないではなく、本来は運良く生き残れるか、虫のように死ぬかの選択権すらない二択しか存在しないような怪物で、遠い昔ならばともかく、今の人族には正気では敵対して勝つなどという妄想すらできない化け物。
だからこそ、母のいる王都に近付かせるなどありえない。
「私とアルシャ殿が奴を討つ! 可能ならば隙を見て我々の援護! それが不可能ならば結界の破壊に尽力せよ!」
「たかが卑しい賊が一人です! 討伐が終わったのならば私が食事を奢りましょう! 総員、生きて帰る事を第一として行動に移りなさい!」
隊長に続き、私も鼓舞するための声を上げて吸血鬼に斬りかかる。
ほぼ同時の縮地で奴の左右に出た直後、間髪入れずに前後から胴体を切り上げる。
たとえ片方を防げたとしても、もう片方は確実に入るだろう攻撃で、基本的だがタイミングさえ合えば回避の困難な攻撃だ。
しかし、振りぬくと同時に私は再度の縮地で距離を取った。当然、剣に手応えは無い。
隊長も同じだったようで、先程まで奴がいた場所を挟んで反対側に立っているのが見えた。
「――っ!」
直感。奴の姿を求めて視線を巡らせようとした瞬間、背筋に強い悪寒が走り、縮地でその場から移動するとほぼ同時に、立っていた地面が大きく弾けた。
そこに立っているのは当然のように奴であり、しかし、手にはあり得ざる『物』があった。
「遅い遅い。あまりにも遅すぎるからあくびついでに首が捥げたぞ。ほら、取りたてだ」
ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべた奴が放り投げてきたのは、呆然とした表情の騎士の首だった。
視界の隅で首を失った体から噴水のように血が噴出して倒れるのを見て、柄を握る手に力が入る。
私ですら怒りを抑えるのに心を割かねばならなかったのだ。当然、隊長はその比では無い事は明らかであり、暴走しないかとチラと見れば、剣の柄が軋むほどに強く握り締め、それに反比例するかのように表情が抜け落ちた隊長がいた。
しかし、そちらを気にしているような余裕も時間も無い。
ほんの僅かでも時間を与えれば、奴は他の騎士達を殺して玩ぶだろう。それを阻止するためにも、息をつかせる暇も無く攻め通し、それを奴を殺すまで維持し続けるしかない。
これまでの経験から言っても、格上を相手に長期戦など不利な状況へと自ら持っていくにも等しく、また、炎に囲まれている状況下では、徐々に息苦しくなっていくのだから、モンスターと比べても何ら遜色無い奴が同じ条件かも分からない以上、なおさらに短時間で決着をつける事は必須だ。
一瞬だけ隊長と視線を交わし、踏み込む。
「シッ!」
剣を薙ぐ、が、当然躱され、しかしほぼ同時に隊長の剣が背後から入り、それでも掠ることすらなく回避されて終わる。
だが、その時には最短で回避予想地点へと振るった刃が奴を捕らえた。
血飛沫。そして、怒号。
それを見て思ったのは、浅い、という悔恨の念を伴った一言で、同時にさらに踏み込み追撃をしようとした体を押し留め、全力で飛び退る。
見るまでもなく隊長も奴から離れたのを肌で感じながら、紙一重の差で自身の代わりに砕かれた石畳が粉塵を伴って舞い上がるのを好機として、目くらましになっている内に再度突撃する。
最初の突撃で知れたが、奴は自身の能力が高いが故に技量は低い。だからこそ、自身にとって不利な状況を作るし、先程のように簡単に回避方向を誘導されて攻撃に身を晒す。
だから、この攻撃が致命傷と言える深さで入ったのも当然の結末だ。
だが、逆撃を受けたのは完全に想定外だった。
「――っ、くっ……」
警戒は怠っていなかった。だが、まさか“攻撃を受けた”状態で反撃されるとは思っていなかったし、そんな狂人の取る選択を、弱者をいたぶる事を楽しむような、自分本位の輩が選ぶはずが無いという思い込みが、先読みを外す原因となった。
腹部に強烈な拳を受け、靴底が削れて無くなるのではと思うほど強く制動を掛けつつ見れば、服が破れているものの、傷の無い奴が怒りに顔を歪ませてこちらを睨んでおり、その背後には胴鎧を砕かれた隊長が、苦悶の表情を浮かべつつも剣を構えている。
「殺す。殺す殺す殺すっ! 私に傷を負わせて楽に死ねると思うなっ!」
「安心してください。ここで死ぬのはあなたです。そして、私達はあなたのようなクズではありません。殺す時は痛みを感じないように殺して差し上げます」
「ふざけてんじゃねぇぞ! このクソアマがぁっ!」
挑発するように言った瞬間、襲ってきた衝撃を剣で防ぎいなして流す。
見える速度ではない。反応できる速度でもない。防ぐのはこれまでの経験と知識による勘で、読み違えればあっけなく死ぬだろうし、これ以上速くなっても死ぬ。そうでなくとも、このまま攻撃を防ぐだけではいずれ限界が来て死んでしまうだろう。
だが、ここにいるのは別に自分一人ではないのだから、私はこのままでも問題ない。
私と同様に、奴の動きを目で追えずとも、経験で予測しただろう隊長が気配を殺したまま剣を振るい、しかし、そのまま弾き飛ばされて後退した。
辛うじて見えたのは、奴が片手で振るった腕の一振りで剣ごと吹き飛ばされた、という信じがたい光景だった。
驚愕に固まっていると、奴は心底楽しそうに笑い出す。
「ハハハハハ! 貴様に掛かりきりで他がおろそかになるとでも思ったかぁ!? クカカ! てめぇの死にも気付いてもらえないとは哀れだなぁ、おい!」
「――っ。貴様っ!」
奴の言葉を聞き、防ぐ事に全て割いていた意識を油断する事無く周囲に向ける。いや、そんな事をしなくても分かった。
視線を振るまでも無く、私達が戦っていた場所を囲うかのように、血溜まりがある。
一体何人死んだのかと奥歯を噛み締めるが、まだ諦めず結界の破壊に尽力している生き残りの騎士達と冒険者達の声を聞き、意思を固く持ち直す。
挑発して意識を向けさせても無駄ならば、攻めて余裕を奪うだけだ。
「死になさい、下郎」
自分でも驚くほど低い声だったが、無防備と取られるほど自然に奴の懐に入り込み、斬り付ける。
驚く奴が防いだ時には極短距離の縮地で背後に回り、斬る。
躱されたならば、今度は左から。
右。
左。
右後ろ。
右。
右。
後ろ。
左後ろ。右。右前。左。真上。後ろ。前。左前。左。右前。右後ろ。左前。後ろ。左。左。右前。右上。左前。右前。後ろ。後ろ。左。左。右。左。右。前。後ろ。右。右後ろ。左。右後ろ。前。左上。右前。左後ろ。左。後ろ。左後ろ。右。右。前。後ろ。左。左前。右後ろ。
斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。
まるで城の舞踏会で踊るように。消えては現れる、まるで魔に魅せられたかのような、美しい少女が舞い踊る死のワルツ。
いつしか与えられた綽名の元となった、上位者を一方的に切り刻み地に堕とす剣に魅入られた姫の舞。
レベルの差から、当然の如く入る傷は浅い。だが、幾重にも重ねられる傷は最初に付けられた傷を深くし、より多くの血を流させる。そう、吸血鬼が相手でさえなければ、その命を奪うには十分過ぎるほどの攻撃だった。
だが、相手は吸血鬼のそれも真祖。
己より圧倒的に高い技量で持って攻められても、血が流れるのはほんの一時。卓越した剣閃に翻弄されていたが、その身が滅びるよりも遥かに早く、剣舞の限界が訪れた。
最後に縮地で大きく距離を取り、膝を突く。同時に奴も蓄積したダメージからか、ふらついて膝を突いたのが見える。ただ、今はその隙を突けるような余力は存在しない。
だから、それをするのは私ではなく隊長だ。
「ハァ……ハァ……貴様は絶対嬲りごろsぐぁ?」
背後から骨を避けて心臓を貫いて飛び出している刃を心底不思議そうな顔で見下ろし、首を捻る。
その瞬間、私は体力が尽きている事とは関係なく動けなくなった。周囲で結界の解除に動いていた者達も凍りつき、至近距離にいる隊長に至っては、もはや生きているのかと問いたくなるほど蒼白な顔をしている。
そんな中で、奴は自身を貫いている隊長を見て、それからゆっくりと周囲を見回し、眉根を寄せた。
「アン? いきなりなんだこの状況は。ログイン直後にキルされかけてるとか笑えねー。討伐依頼を受けたプレイヤー、って訳でもなさそうだな。イベントか?」
まるで刀など刺さっていないかのように、一人意味不明な言葉を羅列する姿に怖気が走る。
いや、それだけではない。隊長に刺されたその直後から、明らかに雰囲気が変わっていて、先程までの傲慢さや油断している空気が無くなり、まるで幾度も殺し合いを経験してきた老練の戦士のような、鋭さを感じさせる空気を纏っている。
ただそこにいるだけなのに、まるで上位種のモンスターと遭遇したかのような威圧感があり、それだけで、今までとは“違う”のだと、強制的に理解させられた。
奴は、とりあえずといった風に胸から生える刃を掴むと――まるでその辺の小枝でも折るかのように剣を圧し折った。
それから軽く腕を振ったと思った次の瞬間、隊長の首が消える。いや、吹き飛んだ。
「さて、どうも雑魚しかいないみたいだし、逃げようとしてる奴から消してくか」
首を失った体から吹き出る血を浴びながら、奴は軽い調子で肩を回す。
一体、さきほどまでの言動は何だったのか。少なくとも私と隊長の二人がかりならば渡り合えていた奴が、今度は正真正銘、私では目でも追えないような速度で、私に見せ付けるかのように死体を増やし、眼前に積み上げていく。
腕を振るえば体の一部が消し飛んで、魔術を使えば正確に心臓や脳天を潰して殺す。
突然、万全だったとしても絶対に敵わない存在と化した奴は、ほんの十数秒で討伐隊を全滅させ、その山を足蹴にしている。
無力だった。
死体の山を築き上げた怪物を前にして、山が出来上がるまで、そして今もなお、指一本動かせない、動かそうという意思を持てない事が悔しく、己が無力に、自身が弱者であるという現実にただただ打ちのめされた。
死体の山から下りた奴が死刑宣告をするかのように腕を振り上げ、『ああ、死ぬんだ』と理解させられる。
死ぬ前に私の心に浮かんだのは、一人残してしまう母の姿だった。
「ごめんなさい、母さん」
涙が零れ、視界がぼやける。
それでも眼前に迫る死から逃げまいと目を見開いていたが、訪れたのは死ではなく、結界を打ち崩す澄んだ音と、二つの足音。そして――
「やれやれ。間に合ったかどうかで言えば確実に間に合ってないが、一人助けられただけで良しとするべきかね」
『心底どうでもいいです。それより、そこのゴキブリ並の生命力を持ったコウモリをさっさと駆除しましょう』
――これからの人生を大きく変える出会いだった。