プロローグ『アルシャ・A・ローレイ‐1』
アルシャ・A・ローレイはアヴァロン居住の冒険者でも最強の一角だ。
母親一人の手で育てられた彼女は、幼少より母を助ける事を第一として行動しており、薬草を摘んでお金に変えるため、毎日のように王都の外へと出かけていた。
その際にゴブリンなどのモンスターと遭遇するのだが、アルシャは恐れる事も無く冷静に、罠に嵌めて殺していた。
当時のアルシャにとって、ゴブリンというのは『お金にならない邪魔者』であり、そこには恐怖は存在せず、ただ面倒なものとして、事務的に殺していた。
結果として、下位とはいえ毎日のようにモンスターを殺していたアルシャは、元々の才能もあり、大きくレベルを上げて猪や熊といった、大人でも危険な獣を単独で正面から狩れるほどの力を手に入れていた。
そこからは早い事で、自分の力がお金になると知ったアルシャは母親の制止を振り切って冒険者として登録し、その身一つで冒険者としての花道を駆け上がっていった。
最初はただの服にナイフ一本という、まともな冒険者からすれば恐ろしい事この上ない装備だった彼女も、剣を持ち、魔術を覚え、近隣のモンスターを駆り尽くすかのような勢いで戦い続けた。
幼い少女が単独で戦う様はすぐに広く人の知る所となり、戦いを見た冒険者達から『魔剣姫』という名前が広がった頃には、アヴァロンという広大な国の中でも最強格の一人として数えられるようになっていた。
だからこそ、王都を脅かすような事態にはいち早く動員される事になる。
「吸血鬼一人に対して騎士百人に私を含めたAランク冒険者十三人。数だけ見れば過剰ですが、正直、不安極まりない話です」
腰の剣に触れながら、小さくため息を吐く。
これから相手にするのは魔族と冥霊族の半血種で、おおよそのハーフが文字通り半分とまではいかないまでも、両親の種族の弱点を相応に受け継ぎ、能力自体もそれほどではないのだが、ごく一部のハーフは通常の種族よりも強くなる。その一つが、吸血鬼なのだ。
吸血鬼は日中は能力が下がるが、代わりに夜や闇の中では本来の力よりも増幅される。その上、光魔術も魔族や冥霊族ほどには効かず、名前通り他者の血を吸う事で傷を癒すだけでなく、元々強靭な生命力を持っていて、多少の傷ではすぐに回復してしまうのだ。
万一にも真祖だったならば事態はさらに深刻で、光が効かず夜闇では力が増幅されるというのに、日中の弱体化が存在しないのだ。しかも、回復力もまるで傷が無かったかのように、大きな傷では時間が巻き戻るかのように治るらしい。
幸いなのは種としての成長限界が低く、モンスターで言うならば吸血鬼が二千、真祖が四千レベル相当で打ち止めになるという事くらいだが、強さだけで見れば、それぞれ五百から千ほど上乗せしたのが正しい値である、という噂もある。
しかし、そんな話では笑えないくらい絶望的なのが、人族の現在の限界だ。
三千年と少し昔の話だが、人族と獣人族の始祖が死に、その混乱で上位種になる秘術が人から失われた結果、今の人族はほとんどが下位種族であり、上位種族ですら極一部の者が、突発的に変異して成る程度。転生の秘術は種族毎に違うため、他の種族に教わって、という事もできず、辛うじて大まかな転生方法が判明した魔人と力人などの上位種が最近増え始めたくらいで、もしも他の種族が戦争を仕掛けてくれば、そのまま滅ぶしかないほどに今の人族は弱い。
今回の討伐隊も上位種はアルシャと隊長の二人だけで、他の従軍している人員は、最悪全滅も視野に入れられている。もし、真祖だったならば、そこにアルシャと隊長の男が加わるだけだ。
「アルシャ殿。今回の件、どう見ますか」
「えっと、意見になるか分かりませんけど、今回は威力偵察として考えた方がいいと思います」
「そこまで割り切るのですか?」
隊長を務める男に意見を求められ、アルシャは躊躇しつつも答える。思ったよりも弱気な返答を聞いて、王都でもトップクラスの実力者として名高い彼女への期待を裏切られたと思ったのか、僅かな失望と驚きを混ぜて、再度男は問いかけた。
そんな男に、アルシャはある種の諦観とともに頷く。
「当然、倒せるようなら倒しますけど、まずは生き残る事が優先です。相手を殺して私たちも死にましたではどうしようもありませんし、万が一にも、相手が真祖だったなら、私と隊長さん以外は全員戦力外ですから。その場合、どれだけの兵を逃がせるか、という事態になると思います」
「それは買いかぶり過ぎでしょう。どうせ他国では稼げず、逃げ回ってここに住み着いた程度の輩です。この人数でも過剰と言うべきですよ」
「それでも、この国では、いいえ、人族にとっては脅威です。今回の仕事は、殺せるか殺せないかではなく、生き残れるか生き残れないかという話が先に来る類のものですよ。他のハーフならともかく、吸血鬼は特別な部類の種族ですから」
「それでも我々が勝ちますよ。レベルが全てではありません。ここにいる者たちはみな、過酷な訓練と多くの実戦経験を経て、精鋭として認められた者たちなのです。賊に落ちるような輩程度、物の数ではありません!」
渾身の忠告も軽く受け止められて、笑う彼らを余所にアルシャはため息を吐いて俯く。
これまで格上と言える相手とばかり戦い、その尽くに勝利してきたアルシャだからこそ、今回の相手は死を覚悟しなければならないほどの敵だと理解できる。
そもそも、アルシャがこれまで戦ってきた相手は、情報を集め、観察し、勝てると確信した存在しかおらず、これまでその読みを違わなかったからこそ、今まで生き残ってこられたのであって、今回のように何も分からない、最悪自身の事など即座に殺せるかもしれない相手と戦った事はない。
今回の件だって、本来ならばギルドの上位陣を揃えて、多数の兵で囲み、確殺できるだけの環境を整えて望むはずだったし、アルシャ自身もギルドマスターにそう訴えたのだ。
しかし、折りしも他のAランク冒険者達の多くは別の依頼で帰還は遅れる上に、兵に至っては貴族達が保身に走った結果、騎士を百人しか借りることはできず、他のAランク冒険者も、直接の戦闘能力は低い者ばかりだ。
しかも、冒険者たちはまだしも、騎士達は自分達の実力に誇りを持っており、『賊程度に負ける事なんて無い』などという慢心を抱えていて、そこに希望など見出せようはずも無い。
ただ、人生最後の場所になるかもしれない戦場が、あの美しい朱色の森だという事だけは、ほんの僅かにアルシャの心を慰めてくれる。
「……って駄目だよね。ちゃんと生き残る事を考えないと」
「何か言いましたか?」
「いえ。もうすぐ賊が潜んでいる朱の森ですから、気を引き締めないといけないと思っただけです。気にしないでください」
隊長の男にそう返したところで、前方に赤い色の奇妙な門が見えてきた。
アルシャがここでしか見た事の無い、東方にある神を奉る建物の前に建てられるというこの門がどうしてここにあるのかという謎はあるが、それ以上に、この門は不定期に異界へと繋がる奇妙な物として知られている。
なぜこんな物があるのかは知らないが、アルシャは以前、この門を越えて、その先の美しい世界を見た事がある。
それから幾度か同じ景色を見に行った事から、門の右の柱、その下部に存在する記号を見れば異界に繋がっているか分かる事を知っていた。
そして今、記号は輝き、門が異界に繋がっている事をはっきりと示していた。
「門は繋がっているようですね」
「賊が根城にしているんです。繋がっていなければ困りますよ。じゃあ、さっさと行って、帰って美味い酒を飲むとしますか!」
「「「「おおおおおおおお!!」」」」
確認して呟いたアルシャに笑い、隊長は騎士を鼓舞し、一同はようやく戦場となる朱の森へと踏み込んだ。
そうして踏み込んだ先で、神の庭だと言われても納得できる美しい場所に騎士たちと冒険者達が思わず足を止める中で、アルシャだけは周囲を警戒しつつ、注意を促す。
「皆さん、ここはもう敵の領域です。周囲に注意して、異変があれば決して見逃さないようにしてください」
「あ、ああ、そうですね。すみません。あまりに美しい光景だったもので、つい見惚れてしまいました」
「別に構いません。初めて来た時は私も見惚れましたから。それから、事前に話した通り、ここのモンスターは森を縄張りにしていますから、決して踏み込まないようにお願いします。彼らの縄張りに踏み込めば、道まで戻ってきても追って来ます」
ここに来る前の作戦会議で、朱の森に関する情報は、覚えているだけ全て共有している。
隊長も事前にされた説明を思い出しつつ頷き、ここからの指針を示す。
「ここまで大した消耗もありませんし、作戦通り、正面の遺跡から探索しましょう」
「はい。それでいいと思います。では、私は前に行きますね」
「お気をつけて。私は後方より奇襲を警戒します」
アルシャは前方で接触時の不意打ちに、隊長は後方で左右後方からの襲撃に備えるため移動する。
そうして緊張を保ったまま移動する事十分ほどで、討伐隊は広く開けた場所へと出た。
入って正面に在る、紅の波打った石のような屋根に、朱色の柱、赤色の壁にところどころ黒があり、この近辺ではここでしか見られない建築様式の巨大な木造の遺跡。その脇には同じく赤い建物がいくつかあり、荘厳という言葉が良く合う雰囲気の場所だ。
そんな遺跡の入り口に、その男は立っていた。
「やれやれ。人間風情が私の寝所へ土足で踏み入るとは。少々、調子に乗っているようですね」
呟くように言って、ワイングラスを揺らす赤味がかった銀髪の男は微笑む。
たったそれだけの仕草。ただそれだけの事で、アルシャと隊長を除き、全員が蛇に睨まれたかのように動けなかった。
格上。見ただけではっきりと理解させられるそれは、当然のようにアルシャと隊長にも圧迫感としてきつく圧し掛かっている。が、アルシャはこれまでの格上と戦って来た経験で、隊長は後方にいた事でなんとか動く事が出来た。
「……あなたがここを根城に周辺の村落を襲っている吸血鬼、ですね」
「そうだと言ったらどうするかね? その程度のゴミばかり引き連れて、私をどうにかできるとでも思っているのかな? だとすれば、これはとても面白い冗談だよ。この吸血鬼の真祖たる私を君達ごときが殺そうなどというのだからね」
「民の生活を脅かす者の手から民を守るのが騎士の仕事ですよ。弱者を襲って悦に浸るような下種は、どれほど強かろうとも、我々騎士団が殺さねばならない“ゴミ”です」
相手が圧倒的な強者だと知りつつも、しかしそれでも隊長はアルシャの横まで進み出て言い返した。
ゴミと呼んだ相手から「お前がゴミだ」と言い返され、吸血鬼の手が震え、グラスを握り潰す。
「ハハハ。負け犬の遠吠えは耳障りだな。守るのが仕事? ろくに守れてもいない雑魚がよく吼えるものだ。それにしても、私を殺すとは面白い冗談だな。なぁ、負け犬よ?」
「冗談じゃありませんよ。ここで私が死んだとしても、あなたを殺す。無理でも、深手を負わせて見せましょう。そうすれば、あとは後詰の者がやってくれるでしょう。弱い者いじめしかできない愚か者に私の命を使うのはもったいないくらいです。ほら、むせび泣いて喜びなさい」
「今すぐ死にたいようだなぁ! クソザルどもがぁっ!」
「私が時間を稼ぎます! 今すぐ撤退「逃がす訳ないだろぉが!」ちっ、結界で出入り口を塞がれましたか。各自に判断を一任します! なんとしてでも逃げて情報を届けなさい! アルシャ殿、援護をお願いします!」
「分かりました。この規模の結界なら、それほど時間は持たないはずです。とにかく防御主体で時間を稼ぎましょう」
逃走の指示を出す前に炎の壁がドーム状に建物を含んだ一帯を包み込み、退路を断った。
しかし、建物があるこの空間は相応に広く、この規模なら長時間の維持は困難と見たアルシャの意見に頷き、隊長は前に出る。アルシャは抜剣しつつも後ろに下がり、魔術の詠唱に入った。
他の騎士が散開して他の冒険者と共に結界の抜け道を探す中、吸血鬼はニタリと嗤う。
「馬鹿が! 逃がさないと言っただろうが!」
吸血鬼が腕を振ると共に、散開していた騎士の一人が上半身を失って倒れる。
騎士達が硬直し、絶望に心を染める中、隊長とアルシャは剣の柄を強く握り締めた。
「私を無視して部下に手を出した事――」
「弱者から狙うその腐った性根――」
「「必ず後悔させてあげましょう」」
絶望的で、しかし、決して引けない戦いが始まる。