花は蝶へ希う
花は蝶を己に招きよせるため、美しい姿、芳しい香で誘惑する。
少しでも長く己に留まってほしいから、何より甘い蜜を滴らせて懇願する。
風に激しく揺れる花が不安定で舞い降りるには不安定な場所でも、結局蝶はその花めがけて羽を動かし、疲れた羽を休めながら極上の蜜をうっとりと啜るのだ。
* * *
「揚羽」
「花?はは、本当に花だ」
「……どうして、そんなに嬉しそうに笑えるんだ?」
「だって花が話しかけてくれたのは、本当に久しぶりだぞ。喜ばずにいろというほうが無理だ」
「どうして、お前はそうなんだ?俺を罵ればいいだろう。責めて、詰れよ」
「嫌だよ、そんなこと。確かに悲しかったけど、今は嬉しい方が上なんだ。わざわざ自分の気持ちを無理矢理捩じってまで花を非難する気にはなれないね」
「……どうして、お前は」
「さっきからどうしてばっかりだな、花は。なあ、たまには難しく考えるのを放棄して、感情を優先させてもいいじゃないか。私は花が好きだよ。花は?」
「お前は、ずるい」
泣きそうに萎んだ花は、しかし雨の激しさにより潤いを根に蓄え、より一層美しく咲くのだろうという噂。
「俺に惚れるなんて馬鹿な女だよ」
「うん」
「見る目ないよな」
「うん」
「いっそのことさ、俺でいっぱいになってしまえよ」
「うん」
「馬鹿なまんま、いつまでも変わらないでくれ」
「うん」
「そうして、余所見をしないでくれ」
「うん」
「俺から離れられないようになってしまえばいい」
「うん」
「それで、できれば……俺を、愛してくれ」
「うん」
「ずっとずっと、愛し続けてくれ」
「うん……当たり前だ。今さらそんなこと言われなくても、とっくに承知だよ。なにせ私は、本当に馬鹿みたいに一途な女だからな。知らなかったか?」
「……知ってた、さ」
零れる涙は満月に煌く真珠の連なり。金剛石の光りのはじめ。天鵝絨がはじく艶めき色。いいえ、他の何にも例えようなく美しかったという噂。
「花は結局何に怯えていたんだ?」
「怯えて……そう、だな。変わること、かな」
「変化は怖い?」
「ああ。今のままで幸せなのに。これ以上もこれ以下もなく、ただ今のままでいたいだけなのに、こうして呼吸して生きている以上、それは許されないことだろう」
「変わらない、とは信じられなかったのか?」
「そんな幻想を信じられるほど、俺は優しくないんだよ。強くもない」
「そうだな。花は弱い。綺麗だが、温室でしか咲けないか弱さがある。私はそんなのはごめんだ。どこにも壁がない、広いところで生きていきたい」
「そう、か」
「怒ったか?」
「……ふん、本当のこと言われたからって怒りを露にするほど落ちぶれちゃいない」
「残念だ。怒ってほしかったのに」
「は?」
「怒って、悔しいと思って、そのまま温室の壁を破ってきてほしかった。私は変わらない。今の私の核を変えるわけにはいかない。そう、花と約束したからな」
「……」
「だから、花がここに来て欲しい」
「温室からでたら、花は萎れて枯れるかもしれないぜ?」
「それは困るな。でも大丈夫だ。私がいるから。責任もって、手間ひま惜しまず育て上げよう」
「って、それってかっこよすぎだろ」
「嫌だったか?」
「……なあ、ちゃんと最後まで、面倒みろよ?」
「任せておけ」
やっとやっと。昔の……元の、見慣れた光景に戻りつつあると、馴染んだ視界に顔を緩める者が密かに続出したという噂。
「なあ、揚羽。触っても、いいか?」
「駄目だ」
「そう、か」
「私が触る」
「っ、て……苦しい、揚羽」
「でも、あったかいだろう?」
「……ああ。それに、柔らかい」
「花の身体は意外と固いな」
「髪も少しだけ伸びたな。腰は細くなった。痩せたな」
「しばらく外に出なかったから、色も白くなってるだろう?」
「知らなかった。揚羽、いつの間にそんないい女になったんだ?」
「ふふっ、そうか?そうだとしたら……たぶん、花が目を離した隙に、だ」
「なっ」
「悔しいか?」
「……」
「だったら、今度こそ目を離さないでくれ。私はこれからもどんどんいい女になるぞ。少しでも目を離したら、それこそあっという間だ。そんなのは嫌だろう?」
「当たり前だ、ばか。ちきしょー、揚羽のくせに。俺のもんのくせに」
「ああ。私は、花のものだよ」
久方ぶりに触れた熱は、吐息をもらすほど懐かしく。ぬるく身体の芯まで溶かし、唇はやがて一つの形に重なりあったという噂。
「風子」
「……旭。久しぶりね。もうしばらくは話しかけられないと思ってたわ」
「何故」
「だって怒っていたでしょう。あの2人の間に私が立ち入ったことを」
「否」
「え、怒って、ないの。……そう。相変わらず、私には貴方のことがよくわからないわね。貴方が私のことを分からないのと同じくらいに、ね」
「否」
「今度は、何に対しての否定?」
「風子」
「だから何よ」
「私は風子を見ている。知っている。こうして……」
「っ!」
「触れることもできる」
「ぁっ、」
「だから、分からない事は教えあえる」
「なんでっ、どうしてっ、そんな今更!」
「風子」
月は永遠に手が届きはしない幻ではなく。果て無き夢に見るように霞むけれども、世界を巡る風ならいつか。辿り着けるかもしれないという噂。
「朝野さん」
「ああ、揚羽さん。こんにちは」
「あっと、その。大丈夫、だろうか?」
「……ふふっ。貴女は優しいのね。今日はどうしたの?」
「花のことで、話をしたくて来た」
「ふぅん。でも、ちゃんと元の鞘に戻ったんでしょう。私は振られちゃったわけだし、話すことなんてないわよ」
「本当に?」
「ええ。大体、一ヶ月も付き合ってないし、ね。そもそも、付き合うというほど一緒にいなかったけど」
「それが不思議だった。どうして朝野さんは花と付き合うことになったんだ?……好きでも、ないのに」
「失礼ね。ちゃんと好きだったわよ。自分に対してと同じように愛情を抱いて、同じように嫌いだったけど」
「花と、朝野さんが似ているということか?」
「ある処はね。でも結局はそれも間違いだったということかしら。広い温室の中一人で咲く孤独と、夜目覚めて声を殺して泣く孤独と。似ていてるようで、違ったみたい」
「……花は、温室から出ると言ってくれた」
「そう。良かったわね。それならきっと、他に息づくものを見つけられるでしょう」
「ああ。花の側には私がいようと勝手にきめた。だが、朝野さんは?朝野さんは、まだ一人のままなのか?」
「そうね。多分、もうしばらくはこのままでしょうね」
「っ、そんな!」
「----『cry for the moon』」
「え?」
「でもね。今度から夜目覚めて泣く時は声なんか殺してあげないことにするわ。思い切り泣き叫んで、疲れて寝てしまうまで欲張り続けることにしたの」
「……そうか。誰かに、届くといいな」
「ええ。ありがとう」
風は風のままに。蝶は蝶のままに。それぞれの道をすすむことを、2人の女性はただ静かに分かりあったという噂。
* * *
花は太陽の下で咲き乱れ、己の匂いを放ち誘う。
どうか一匹の蝶が訪れてくれるようにと祈りながら。
守られ育てられた花よりも、野生に咲く花の香の方が強く漂うだろう。
どこまでも必至に咲く強さがあるが故に。
蝶はきっとその香に気付く。気付いたならば、舞い降りずにはいられない。
何故ならその香は、ただその蝶だけを呼ぶ祈りなのだから。
そして月はそれをそっと見下ろし佇む。
ただ優しく光だけを降り注ぎつつ。煌々とした灯りで彼らの眠りを見張るだろう。
遠く、遠く、唯あるがままの月。
だが風は強く吹く。いつか、届けといわんばかりに。
吹くことを忘れたのは風にあらず。ゆえに、風はいつまでも舞い踊りそして吹き続けることだろう。




