閑話休題~2~
五十鈴の家に初めて上がったのは中学に上がってからだった。
その頃、学校内で流行っていたこっくりさんがぱたりと行われなくなったのと同時期、五十鈴は学校を休む毎日が続いていた。
「この家は君の家だと思っていいからね」
どういう因果か、五十鈴にプリントを届けにきた折りに両親が出迎えてくれ、そのまま泊まっていかないかと言われた。
この時はまだ、その真意に気づくこともなく、俺は丁重にもてなされた。
もちろん、食卓の場に五十鈴はいない。
なんだか他人の大人にもてなされるおかしな構図が酷く不気味で、俺は料理にもあまり手つかずのまま五十鈴の状態を尋ねた。
「ずっと寝込んだままだ、しばらくしたら入院させようと思っている」
五十鈴が寝込む理由は一つしかない。
風邪などという陳腐な原因ではなく、俺の頭に浮かんだのは憑依の二文字だった。
五十鈴の話題に踏み切るとどうにも歯切れが悪いこの両親はどこかおかしい。
俺は帰ると告げて家を出ようとしたのだが、両親はこんなことを言い出した。
「今日は五十鈴のそばにいてやってくれないかな」
仮にも五十鈴と俺は男と女で、友達のよしみでしかない。
それなのにこの両親の言うことなす事はまるで俺をここにとどめようとしているかのようだ。
「どうしてそんなことを言うんですか……?」
曲がりなりにもそういうことに何か言いしれぬ危機感を感じた俺はその訳を尋ねてしまった。
「頼む……この通りだ」
土下座。およそ俺が見る最初の土下座である。
「…………」
五十鈴の部屋に通された俺はあまりの異質な空間に身じろぎどころか、心臓まで凍り付く思いだった。
ベッドの上で座っている五十鈴は一糸纏わぬ姿。もはや、生きている人間とは思えぬほど痩せこけて、白い肌を一層白くしていた。
長い髪はぼさぼさに顔を隠して、だらりと下げられた両腕がこちらを向いている。
これがお化けだと言われれば、そうですかと言いたくなるような異形さだった。
後ろの扉からは五十鈴の母親と父親とが口論していた。
「あんな――に会わせる――て」
「し――ないだろう! ――は、――を連れてこ――るんだから」
「あの子は――の――ない――――のよ」
「――……」
その声は徐々に遠ざかって行き、俺はもうあの両親の会話を聞く気にはなれなかった。
つまりは、俺がここで五十鈴におかしくされるか、俺がここで五十鈴を治すか。
二つに一つだと、何かがそう告げているようだった。
「い、五十鈴。俺だ、分かるか?」
「…………」
分かるはずがない。
「源さんは? いないのか? おーい、源さん!」
源さんとは、五十鈴についている守護霊のようなものだ。
五十鈴自身が自分の精神で拒めなくなるほどの憑依が行われる瞬間に強靱な守護霊に先に憑依してもらう。
それが五十鈴の続けてきた十数年の護身術だった。
「う……う。ゥ、す、ばる……」
「源さんか? 五十鈴か?」
不用意には近づくな。
それは五十鈴がいつも言っていたことだ。
「い、いすず……」
くぐもった押しつぶされたような声で五十鈴が喋った。
「何でだ、源さんがいれば憑依なんてへっちゃらのはずだったろ!」
「足、りない……霊格が……」
馬鹿なと思った。
源さんの霊格は確か上から五番目くらいに高かったはずだった。
学校で流行っていた降霊術を思い出す。
生徒がしきりに行われたこっくりさんがよもや神格に拮抗するレベルの悪霊を呼び込んだということだろうか。
「ど、どうしろっていうんだよ。無理だよ、そんな――」
キィィンと目眩がするほどの耳鳴りが始まる。
五十鈴の背中に見えるどす黒い人影。
いや、人の影ではなく無数の首だった。
五十鈴はもう意識が飛んだのか、耳から流した血を頬に伝わせ、口からだらしなく唾液を流して弓なりに痙攣している。
「これだけの霊を憑依させるなんて……」
霊の憑依数はその者の霊力に比例する。
霊媒体質とはいえ、一度に数百数千という霊を憑依させるとすれば、それはもう生きながらの神格に近い。
五十鈴はまさに学校で無闇に降霊される全ての下級霊の憑依先と化していたに違いない。
あの学校では五十鈴以上に憑依しやすい人物はいなかったということだ。(例え欠席しようと五十鈴の机などには五十鈴に繋がる 道が出来ている)
そして、憑依された五十鈴はダムが決壊するようにこの霊の波に呑み込まれた。
憑依された人間がその憑依を払えなければ、待っているのは魂の不浄。
「ゴポ……ポ」
人間の持つ魂は大きく分けると二つで、一つは意識体。もう一つは心体という部位だ。
意識体(自我)は魂を覆う膜のようなもので、死ねば消える。
しかし、心体は一つの人格であり魂そのもののようなもの。これがなければ肉体は保てない。
その本質が犯されるということはすなわち人体の死を意味する。
転生もなければ二度と、五十鈴のような人間がこの世に現れることもない。
目の前で唐突に起こる死に対して俺は迷っていた。
怖いのだ。魂がその闇の怖さを知っている。
究極の死がそこにある。
その時、突如開け放たれた扉から十字架を握った男が乱入してきた。
ヒッという声と何か水やら塩やらを撒き出す男。
『だめだよ、そんなんじゃ』
「え?」
後ろを振り向くが、五十鈴の両親の絶句した姿以外に影はない。
『君が助けてあげないと、あの子は死んじゃうよ。それでもいいの?』
どこか懐かしい声が俺の中に響き渡った。
「だめだ、やめてください」
反射的にやってきた男を制止しようとするが、男は何かの力に抑え付けられて倒れてしまう。
『じゃあ、今から教えるこれを覚えて』
頭の中に自然と浮かぶイメージは綺麗な着物を着た少女のものだった。
どこかで忘れた懐かしい記憶だ。
『怖畏軍陣中衆怨悉退散』
素人からでも感じるその圧倒的な破滅の念。
俺は慎重にその念を五十鈴の背後に向かって解き放つ。
『怖』「怖」『畏』「畏」『軍』「軍」『陣』「陣」『中』「中」『衆』「衆」『怨』「怨」『悉』「悉」『退』「退」『散』「散」
既に傍らで伏す謎の男を尻目に俺は五十鈴の背後に蔓延る黒い影を破壊の念で切った。
そこから一切の記憶はない。