~弐ノ下~
『南無霊山会上来集ノ分身諸仏――南無諸大菩薩――五番ノ前神 諸天等 特ニハ鬼子母大善神 惣ジテハ仏眼所明ノ一切三宝来臨影蒿 妙法経力 速得自在――』
訳の分からない文が永遠と続いていく、その先。
一つの仏像がひっそりと居座っていた。
「ここまで厳重に経文を書き連ねてなお、オーナーの変死か……」
「変死? どんな死に方だったんだ?」
その時、蝶番の外れていた扉が大きな音を立てて暗闇に沈んだ。
「お、おい……」
岡部が動揺したように振り返るが、そこにはただぼうっと映し出される扉のシルエットがあるだけだ。
五十鈴も頭痛は起こさない。
つまり、霊ではないということだろうか……?
「そうか、なるほどな……」
山田は経文を見ながら一点を指さす。
「怨敵退散と書いてある」
一同がその指先を見る。
「お、本当だ」
怨敵、つまりそれは生きている者を指す場合が多い。
相手が死者ならばここは怨霊退散となるはずだからだ。
「じゃあこの経文は……」
「生き霊返し――」
五十鈴の声にゾクリとした感触が背筋を駆け上がる。
生き霊とは生きた人間が霊となって彷徨う姿を指す。
具体的には自分の思った不幸が知らぬ間に起きたり、憎い相手が思った災難に見舞われたりする。
そこにあるのは潜在意識の邪なる動きであり、生き霊がもたらすものはほぼ悪しきことである場合が多い。
「ちょっと待てよ、そしたら今この空間っていうのは――ッ」
パシンパシンとまるで拍手をするかのように部屋中に奇怪な音が鳴り響き始める。
まるで部屋が冷蔵庫にでもなったか、全身が身震いしてしまうほど寒い。
「五十鈴――」
俺が五十鈴に注意を呼びかけるよりも早く、山田が動いていた。
「臨兵闘者皆陣裂在前」
よほど結び慣れているのか、もの凄い速さで印を切る山田。
怪奇現象がピタリと止まる。
「……やべ……」
しかし、山田から漏れたのは意外な一言だった。
「どうした? 成功じゃないのか」
わずかな風を感じる。
生ぬるいお湯に浸かったような言いようのない不快感が肌をぬぐっていく。
先ほど壊れたはずの扉が急に起き上がり、部屋の出入り口にけたたましい音を立ててはまる。
「岡部……見てきてくれ」
「え? 俺っすか?」
恐る恐る近づくも扉は微動だにしない。
岡部はノブを回すが、当然びくともしなかった。
その時、山田の方からバキッと甲高い音がした。
「やめた方がいい」
五十鈴の言葉がわからないが、それはすぐにわかった。
電灯に映し出された山田は脂汗を額に垂らしながら必死に両手に掛かる謎の力に抗っていた。
両手は印を結んだままで、それを何か為体の知れない力が引っ張っているようだった。
「人を殺すほどの念だとすれば、それを抑えるだけでも並大抵じゃない。すぐにやめるべきだ」
五十鈴のはっきりとした抑止の声。
だが、どうしろというのだろう。
やめれば次にどんな攻撃がくるのかわからない。
状況を見てから後手にまわっていては命がいくつあっても足りない。
師匠こと山田の行動はまさに先手必勝、絶対的に低リスクな判断だったといえる。
「これの力を借りよう」
生き霊返しの経文を指して五十鈴が座り込む。
中心の菩薩に何やら一字を加えて印を切る。
「(オン、シュチリ、キャラロハ、ウンケンソワカ)」
それはまさかの呪詛返しだった。
しかし、地盤にあるのは生き霊返し。
「山田、解け」
五十鈴の一言で、山田の印が解かれる。
その時、確かに見えた。
山田の首に手を回す、長髪の女。
眼窩の中に狂気を宿したそれは狙いを五十鈴に定めたのか、信じられない速度で迫る。
「五十鈴――!」
反応するとかそんなレベルではない。
俺が声を上げた時には既に女と五十鈴の距離はゼロだった。
「オ゛。ァァア゛ア゛ア゛――――――」
女は急に悲痛に叫びだした。
座った五十鈴の首が女の両腕に掴まれる。
「まずい――」
しかし、九字を切ってここから間に合うはずもない。
霊の後手にまわるということはこういうことなのだと後悔する。
次の瞬間一気に五十鈴の首が反転した。
空間から音を抜き取ったようにスローモーションで映像が流れる。
女はそれと同時にかき消えた。
「おい、五十鈴……」
「なに?」
えっ、と一同が声の方を見る。
五十鈴はずっと俺の後ろにいたらしい。
じゃあさっき見ていたのは――、
そこには菩薩の彫像が転がっていた。
もちろん、首は取れていたが……。
頭の後ろに一文字「此」というような字が書かれていた。
「信じられん……追っ払ったのか?」
山田の指はおかしな方向に曲がっているようだった。
「結局、ガチだったんじゃないですかあ」
尻餅をついてうなだれる岡部。
「今のうちに早く出よう」
いつの間にか明るくなりつつある空。
岡部と山田が消えていく中で、五十鈴の腕が俺の腕を掴んでいた。
「どうしたんだ?」
「?」
五十鈴はまるでそれに気づいていないとでもいう風に見つめる。
「ごめん」
俺は歩き出した。
五十鈴の気配はずっと背中にある。
「おい、見ろよ。日の出だぞ」
「嘘だろ、さっきまで夕方だったはずだ」
見たことのない陽の光が俺たちを照らす。
8月の終わりだった。