~弐ノ上~
駅につくと突然岡部が全員分の切符を払うと言い出した。
「ああ、僕F病院の院長の子供なんで」
「そうか、悪いな」
男、山田拓也は悪びれもなく岡部の切符を受け取る。
「はい、石妙君と三雲さんの分も」
隣町とはいえ、三人分を負担すれば三千円ほどになる。
俺はそんなものを率先して払おうとした岡部に意図を尋ねた。
「おかしいかな? まぁ、強いて言うなら師匠の機嫌が悪そうだったから」
師匠。なぜそう呼ばれているのか、俺には不思議だった。
山田という男はどこか変わった雰囲気で、息を殺したような濁った目をしている。
「師匠と呼ぶ理由ですか? いずれ分かります」
思わせぶりな口調で岡部はその陽気な笑みを列車の窓へと流した。
「昴」
うとうととしてきたところに鈴の音が響く。
五十鈴のどこか浮世離れした冷たい瞳が俺を見つめていた。
「あ、なに」
不快感はない。
あの冷たい瞳は俺にとっては安らぎに近い感情さえ持たせる。
「もう着いたって」
気づけば岡部も師匠と呼ばれる山田もいない。
慌てて下車すると、何やら山田は取り乱していた。
「まずい」
「なにがですか?」
「この時間だと着くのが夜になる」
え? と一同の顔が翳った。
「まあ、大したことは起こらないと思うけど……」
大したことって何だ、それは。もう起こっている。
山田は意に介した様子もなく、ずかずかと改札口へ消える。
俺たちもその背中を追うが、岡部が不意にこんなことを言った。
「師匠が起こらないと言って起こらなかったことってあんまりない」
バスに乗り継いで二十分余り、着いた辺境は何処知れぬ殺風景な田舎の真ん中だった。
「こんなところに旅館が?」
民家というか、小さな農家のような家がぽつぽつとあるだけの何とも心許ない場所。
電車とバスに乗るだけでこんなところに来られることが信じられない。
「もう日が沈むな……」
ふと山田が空を見上げて言った。
太陽は黄金の鋭い日射しを輝かせながら静かに山の背中へまわっていく。
宿は取っていないし正直、こいつら普通じゃないと思う。
俺たちはそこから徒歩で十分ほど歩いたところで、考えられない一角を目の当たりにした。
『立ち入――禁止』
真っ二つに折られたフェンスが訪問者を拒絶している。
辺りはすっかりと薄暗くなり、空はもう濁った水色になっていた。
その真下に立つ一見安穏と荒廃した旅館。
「はいこれ」
手渡される懐中電灯。
正直勘弁してくれと言いたいところだが、五十鈴の表情は変わりないもので自分だけが取り残された気分だった。
がしゃん、ぱきりとガラスを踏みながら踏み入ると案外広い建物なのが伺えた。
酒瓶もそのままのカウンターにあるし、ひっくり返ったテーブルや横たわった椅子などはまだまだ使えそうなものに見える。
「師匠、どうせだからちゃんとここの噂を聞かせてくださいよ。何があったのか」
また岡部はどうしようもないことを言う。
そんなのを聞いてしまえば、これからの行動に必然気の迷いが生じるだろう。
しかし、俺は好奇心からその言動を諫めることはしなかった。
「端的に言うと、宿泊客は全員怪死するって噂の宿だった」
怪死という聞き慣れないフレーズに意味を考える。
怪死といえば、原因不明の死ではないだろうか。
「でもそれは、もっぱら自作自演っていうか、ただ凄惨な死を遂げた客がいたからそれにかこつけて知名度を上げようとしたってものだった」
「最悪じゃないですか」
「まあな」
しかし、話はこれで終わりではなかった。
それでもわずかに収益が上がったことに味をしめたオーナーは宿泊客に記念写真を撮らせ、それを自分で加工しネットに流出したのだという。
いつしか旅館は噂の『出る旅館』として収益を上げていった。
ところが――、
「ある時からばったりと客足が途絶えたらしいんだ」
「へぇ、マスコミに吊るし上げられたとか?」
「いや……客は来るには来るんだけど、どうも泊まらずに帰って行ってしまうらしい。オーナーは中から呼び込むんだけど、客はみんな入る気がしないと言ってな」
「それで?」
珍しく五十鈴の口が開いた。
「オーナーは死んだ」
静かな静寂と部屋を流れる冷たい空気が俺たちを包む。
「死んだって……それじゃ何の解決にもなってないじゃないですか」
「そこなんだ」
山田は写真を広げて見せた。
五十鈴が何か書かれた文字を見つけた写真だ。
「死の直前にここのオーナーは坊主を連れてきたらしい。お払いでもして客に安心をさせようっていう策だったのかもしれん」
しかし、それは失敗した。
それがオーナーの死であることは容易に理解できた。
「ここだな」
廊下の一面に刻まれた文字。
それは経文に他ならなかった。
『南無久遠実成本師釈迦牟尼仏――』
今も尚、色あせないそれはライトの光にぼんやりと呼応している。
心音のように低い声で山田は静かに言った。
「――アタリだな」