「かわいそう」なら仕方がありませんね
思いつきたしか第四弾。
婚約者の病弱()な身内系の話です。ちゃんとざまぁしてるけど弱めかも。
「ニネアは可哀想な子なんだ。君だってわかるだろう?」
そんな言葉を盾に、イリスの婚約者のセンク・ズドクが婚約者の務めをサボり始めたのはおおよそ半年前のことだった。
ニネアがどんな身の上にある女性なのかは、イリスもセンクから聞いて知っている。ニネアはかつてズドク家と親交の深い子爵家の一人娘であったが、領地が長雨によって甚大な被害を受け、火の車になった財政を立て直すために奔走していた当主夫妻も馬車の事故により帰らぬ人となった。
残されたのは水害の爪痕が癒えぬ領地と膨らんだ借金、そして生まれつき身体の弱いニネアだけ。虚弱なニネアでは次代に血を繋ぐのは難しく、親類も没落寸前の子爵家に大枚を叩き骨身を削ってまで関わろうとはしてくれない。前当主夫妻は爵位の返上を王宮に申し出て、ニネアは修道院へ入ることとなった。
そこへ手を差し伸べたのが、センクの父ことズドク伯爵である。ズドク伯爵は天涯孤独の身となったニネアを伯爵家の養女として迎え入れ、まるで本当の我が子のように慈しんだ。
その可愛がりようといったら、ニネアは度重なる不幸によって心身共に傷付いているからいたわってやって欲しい、とセンク伝いにイリスにまで配慮を求めてきたほどである。イリスも将来義妹となる人だからとニネアには時々手紙や贈り物を送り、色々と気にかけていたのだが。
「ニネアが具合が悪そうだから今日の茶会はキャンセルする」
「ニネアは人見知りが激しいから俺がエスコートしないと」
「君へのプレゼントにするつもりのものをニネアが気に入ってしまったんだ。ニネアに譲ってやってくれ」
こんな調子でことあるごとにセンクがニネアを優先し始めたので、ニネアを気遣っていたイリスもさすがに首を傾げざるを得なくなった。ニネアの具合が悪いから付き添うのはまだわからなくもないが、ニネアのエスコートはズドク伯爵でもいいしプレゼントは同じかせめて似たものを買い直せばいいだけだ。しかもイリスには譲ったプレゼントの補填は一切ないというのが余計に理解が追いつかない。
極めつきに、イリスが侯爵家の茶会に招かれたという話を聞いたセンクが「なんでニネアを連れて行かなかった」と怒り始めた。そんなことを言われても、茶会に招かれたのはあくまで侯爵令嬢と親しくなったイリスだけでニネア宛の招待状はない。招待もされていない人間を勝手に連れ込んでは先方の迷惑になる。
何より、日中は床に伏せてばかりで度々体調を崩して騒ぎになるニネアを他所の茶会に連れ出して、万が一倒れでもしたら大変だ。社交をさせたいなら倒れてもすぐかかりつけの医者を呼べるようズドク家で茶会を開いた方がいいのではないか、とイリスが進言すると、センクはなぜだか目を吊り上げてイリスを怒鳴りつけた。
「将来の義姉としてニネアを思いやることもできないのか! ニネアを差し置いて一人で遊び歩いた挙句開き直るとは、君がそんな心無い人間だとは思わなかった!」
夜会のど真ん中で、まるでイリスが悪者であるかの如く一方的な糾弾を大声量でぶつけてきたので、イリスはとてもいたたまれなくて早々に席を辞した。
その謝罪は今日に至るまでされていないし、それどころか「ニネアがお義姉様に仲間外れにされて寂しいと泣いていたから謝罪しろ」と怒りの込もった手紙まで届けられた。これまでイリスもニネアの見舞いに行くと言っても「他人に妙な病気をうつされてはいけない」と毎度毎度断られてきたから、社交辞令的なお詫びの手紙を書いたら「手紙如きで片付けるな、お前が直接来てニネアに頭を下げろ」と先触れなしで屋敷に怒鳴り込まれる始末で。
「もう付き合いきれん」
「そうですね」
苦虫を噛み潰した顔で呟く父に、イリスは短く同意を返した。イリスをズドク家まで引きずって行って謝罪させると騒ぎ立て、無理やりにイリスの腕や髪を掴んで連れ出そうとしたセンクはすでに父が呼んだ騎士によって屋敷から叩き出されている。去り際に「後悔するぞ」などと叫んでいたが、何を後悔して欲しいのだろうか。
「向こうから婚約を持ちかけておいて、何なのだあの態度は。婚約者の義務を放棄しておきながら、義妹への義理だけは果たせと? 婚約者を奴隷と間違えているのではなかろうな」
「ニネア様はお可哀想な方ですから、格別の配慮が必要だそうですわ。私も何かと気にかけていたつもりなのですけれど、どうも心配りが足りなかったようで」
「約束を破り、恥までかかされても耐え忍ぶことを配慮とは言わん。搾取と配慮を履き違えている連中に払う礼儀はない。こちらから婚約解消を願い出る」
以前からイリスや使用人からの報告でセンクの言動を知っていた父は、今回の一件でついに堪忍袋の緒が切れたらしい。センクの振る舞いについて何度かズドク家に抗議したもののまともな対応はされず、なあなあで済まそうとしてきたらしいのであちらに対してかなり鬱憤が溜まっているのだろう。
イリスとしてもセンクにこれといって未練はないし、今回の件で手を切りたい気持ちの方が大きくなった。だが、今すぐそうするとなると少々困ることがある。
「お待ちくださいお父様。今婚約解消をしては私が悪者にされてしまうかもしれません。どうもニネア様を妬んで意地悪をする悪女という噂が一部で流れているようですから」
「誰だ、そんな噂を流したのは。お前がいつあの娘を虐めたというのだ」
「さあ。ですがそうであった方が都合が良い方がいらっしゃるのでしょう。何でも私がニネア様とセンク様が親しくしていらっしゃるのに嫉妬して、二人の仲を裂きニネア様を孤立させようとしているのですって」
「婚約者はお前だろう。むしろあの娘が婚約者の仲を裂く邪魔者ではないのか」
「ニネア様はお可哀想な方ですから。悲劇のヒロインの方が話が盛り上がるのでしょう」
父は理解不能と言わんばかりに天を仰ぐが、イリスは荒唐無稽な噂話をさえずる人々の心情をなんとなく察していた。彼らにとって噂の真偽は重要ではなく、あくまで面白いから口の端に上らせているのだ。たとえ病弱かも怪しい悲劇のヒロインが語った眉唾話でも、話の種としておおいに場を盛り上げてくれるなら重宝される。
それで傷付く誰かがいても、自分に何ら被害がないなら見て見ぬふりをすればいいだけのこと。社交界というものは見かけは美しいが、底を見れば汚泥にも似た悪意と欲で埋め尽くされた場所なのである。
「今、と言うならばいつか都合の良い時期でもあるのか? 目処が立っているのなら聞くが」
「具体的に予定を立てているわけではありません。ただ少し、あちらに返礼をしたいと考えておりまして」
「ほう」
返礼、と聞いて父が片眉を動かした。父としても向こうに散々煮え湯を飲まされた以上、何かしら意趣返しをしたいのだろう。
半ば身を乗り出して興味を示す父に、イリスは己の考える返礼の作法を語った。父は黙ってそれに聞き入り、大きく頷く。
「なるほど。それは胸がすくような返礼だな」
「問題は、向こうが素直に受け取ってくださるかですけれど。あまり色良い反応をいただけない可能性もありますから」
「いや、向こうは必ず食いついてくる。独善的でかつ気位の高い連中のようだからな、さぞ良い反応が貰えるはずだ」
「では、さっそく始めてもよろしいでしょうか?」
「ああ。好きなだけやってやれ」
イリスの確認に、父がにやりと口の端を吊り上げて答える。こちらとしても協力は惜しまない、と頼もしい言葉をくれる父に、イリスは深い感謝の念を込めて頭を下げた。
それから、イリスは改めてニネアに謝罪の手紙を書いた。以前何か病気をうつさぬようにニネアとの面会をセンクに止められたこと、今後はセンクを見習って可哀想な身の上の方には親切にすることを添えて出した手紙には、案の定返事はなく代わりにセンクがまた屋敷に突撃してきたが、前回の惨事を知る執事が追い返してくれた。
何度かセンクの来訪をいなしているうちに、センクも諦めたのか来なくなった。腹いせのように事前の連絡もなく茶会を欠席したり夜会のエスコートを放棄されたりしたものの、どうせ日頃からろくに果たされない義務なので問題はない。茶会は形だけ支度をし、夜会は代役に父や従兄弟を伴って行けば、センクは露骨にこちらを無視しながらも忌々しげな視線を送ってきた。
「あの方、何がしたいのでしょうね?」
「さあな。頭が足りん猿の考えていることなぞ察したくもない」
婚約者の役目を放棄するどころかあからさまにイリスを冷遇し、見せつけるようにニネアと仲睦まじく振る舞うセンクの行動は、はっきり言って意味不明の一言に尽きた。
婚約破棄を匂わせないところからしてこのままイリスの家に婿入りしてニネアを愛人に囲うつもりなのかもしれないが、ここまで酷い扱いをされてイリスから婚約解消をされないとでも思っているのだろうか。どうも向こうはこちらを自我と感情のある人間だと認識していないような節がある。
「もしかして、お父様の仰る通り妻ではなく奴隷が欲しかったのかしら」
「適当に言いくるめれば何でも自分の主張が通ると思っている節はあったな。婿入りしてやるのだから、というような態度を取られたこともあった。こちらがあの小僧以外を選ぶということは想定していないのだろう」
よく貴族が務まるものだ、と鼻で笑いながら父がティーカップを傾ける。確かに己の都合の良い見方だけをして他の可能性に目もくれない性格では、危機管理もままならないだろう。これまで運良く最悪の事態に見舞われなかったのかもしれないが、運だけで生き抜けるほど貴族社会は甘くはない。
「そちらの首尾はどうだ。小僧は何か言っているか」
「無視を貫かれておりますが、そろそろ我慢できずにつついてこられるかと。近頃はニネア様への贈り物を控えておりますので」
「うむ、それでいい。確かもうじき小僧の誕生日だったな。せっかくだから小僧の誕生日プレゼントも抜いてやれ」
「いえ、何も贈らないのも角が立ちますわ。例年より格を落としたものを贈らせていただきます」
「どうせ向こうは開封しているかも怪しいのだ、包みからして手を抜いてやれ。お前にはこの程度で十分、と伝わるようにな」
「まあ、名案ですわね。ではそのようにいたします」
微笑みながら父と悪だくみを交わし、イリスは脳内で着々と絵図を描いていく。どうかこの絵図通りにセンク達が踊ってくれますように、というイリスの祈りと誘導が通じたのか、はたしてセンクはイリス達の整えた舞台にしっかり躍り出てくれた。
「イリス。最近ろくに贈り物もしないのはどういうつもりだ」
ある夜会で、普段通り父親を伴って出席したイリスに露骨に不機嫌な態度のセンクが接触してきた。その傍らにはドレスで美しく着飾ったニネアもいる。いかにも哀れっぽく顔を伏せ、縋るようにセンクの腕に自分の腕を絡めた様はまさに悲劇のヒロインそのものだ。
「申し訳ございません、センク様。近頃は孤児院の支援に力を入れておりますので、お二人への贈り物は執事に任せきりにしておりましたの。これまでのようにまめに贈り物はできませんけれど、どうか堪忍してくださいませ」
「君は俺の婚約者だろう。俺やニネアに対して心を砕くのも婚約者の務めではないのか!」
口角泡を飛ばす勢いでイリスを糾弾するセンクに、イリスはかかったと内心ほくそ笑んだ。あくまで何もわかっていなさそうな鈍感で愚直な婚約者を装いながら、イリスはきょとんと小首を傾げる。
「ええ、それも婚約者の務めのうちですわね。けれど、センク様はこれまで可哀想なニネア様への献身を婚約者の務めより優先しておられました。ですから私もその慈悲深さを見習おうと思い、孤児達への支援を始めたのです。センク様にならって弱者への施しを優先させていただいたのですが、何か問題がございましたでしょうか?」
「孤児だと……?」
孤児、と聞いてセンクのこめかみがひくつく。露骨に青筋を立てる様子にこれは来るぞ、とイリスが期待に胸を膨らませれば、センクはその期待を裏切らずに大声を張り上げてくれた。
「君はっ。将来の家族となる俺やニネアよりも、卑しい孤児を優先したと言うのか! どちらが大事かなど、考えてみればわかることだろう!」
センクの怒声が衆目を引きつけ、ただそこに居合わせただけの群衆達を野次馬に変える。面白い見世物が始まった、と舌なめずりをしながら成り行きを見守る観客に見せつけるように、イリスはことさら丁寧に弁解を口にした。
「ですが、センク様はこれまで私との交流やエスコートの機会をニネア様のために譲るよう仰ってきたではありませんか。ニネア様はお可哀想ですから、その可哀想なニネア様に施しをしてやって欲しいと、そういうことでございましょう? ですから私もそれにならっただけのことです。何か間違っておりましたでしょうか?」
弁解の体を装った挑発に、センクが顔を怒気で赤らめる。ついでに隣のニネアも、「施し」という言葉にわずかに表情を歪めた。
ニネアが悲劇のヒロイン面をしてか弱く振る舞うのも夜会に出席して「可哀想な自分」の噂を広めるのも、きっと皆に注目されて同情を引きたいという気持ちがあるからだ。しかしその一方で、彼女の内心には「自分は誰よりも可愛くて大切にされるべき人間だ」という自己愛と周囲への優越感が存在しているように思える。これまでニネアから貰った手紙と夜会で顔を合わせたニネアの反応には、そうした歪んだ心情が滲み出ていた。
だからこそ、「施し」という言葉にニネアは反応した。自分より格下で踏みつけにしていい相手だと認識しているイリスに弱者として哀れまれるのは、彼女のプライドが許さないのだろう。
可哀想な人として振る舞っておきながら哀れみより羨望や嫉妬を欲するなんておかしな人だなあ、とイリスは思っていたのだが、その歪な精神性がこの場を盛り上げるのに一役買ってくれるのだから面白いものだ。
「ひどいわ、お義姉様。お義姉様は将来の家族となるわたしより、見ず知らずの孤児の方が大切だと仰るのね……」
いかにも被害者であるかのように顔を曇らせ、はらはらと涙を流し始めるニネアにセンクの顔色が変わる。ニネアを泣かせるなんて、と語気荒くイリスを責め立てるセンクに、しかしイリスはあくまで何も理解していない風を装ったままで不思議そうに聞き返した。
「いいえ、ニネア様のこともセンク様のことも大切にしておりますわ。けれど、可哀想な人への施しはそれよりも優先されるべきなのでしょう? だってセンク様は、これまで婚約者の私より可哀想なニネア様を優先なさっていたではありませんか。貧しい孤児達への支援とニネア様への施しの、何が違うのでしょう?」
「大違いだっ! 小汚い貧民の子供なんかとニネアを同列に扱うな、不愉快極まりない! 君はニネアを馬鹿にしているのか⁉︎」
「そうだな。確かにそちらのご令嬢と孤児は同列にはできんだろう」
とぼけた顔のイリスと唾を飛ばしてそれを怒鳴りつけるセンクの間に、それまで静観していたイリスの父が割り込んで口を挟む。センクはイリスの父が自分達の肩を持ってくれると勘違いしたのか勝ち誇ったようににやりと口の端を歪めたが、父はそんなセンクに冷ややかな視線を返して発言を続けた。
「そちらのご令嬢には確かにご不幸があったそうだが、今はズドク伯爵家の娘となって蝶よ花よと愛でられているとか。今宵の装いの美しさからも、ズドク伯爵家での寵愛が窺い知れる。優しい家族に恵まれて惜しみのない愛情を注がれ何不自由ない生活を送るご令嬢と、平民の孤児ではまるで環境が違う。より可哀想な方が優先されるべきと言うのであれば、私も孤児を選ぶだろうな」
イリスを否定するかと思わせてその実鋭い援護を飛ばした父に、はしごを外されたセンクが目を瞬く。しかし二の腕に縋り付いたニネアが「ひどい」としくしくと泣き始めれば即座に我に返り、先程よりも怒気の色を濃くした顔で父に噛みついた。
「ニネアは不幸な事故で両親を亡くし、継ぐべき子爵家さえ失ったのですよ! 今でもその心の傷が癒えず、床に伏せったままでいるというのに……! あなた方は人をいたわる心というものをお持ちではないのか!」
「ほおお。床に。それは大変に苦労なさっているようで」
センクの非難に、父はいかにも面白いと言わんばかりの顔をしてニネアを見る。頭のてっぺんから爪先までをつぶさに観察されたニネアが不快そうに顔を歪め、「怖いわ」とセンクの胸に顔を埋めたところで、父はわざとらしくにっこりと笑顔を作った。
「床に伏せったきりの病人のわりにはずいぶんと血色が良いようだ。よほど手厚く看病を施しているのだな。しかし、体力をつけさせるためだとしても病人を夜会に連れ回すのは酷ではないのかね?」
父の言葉に、周囲からくすくすと笑い囁く声が上がる。
虚弱体質を自称するニネアだが、しかしその実夜会にはこまめに顔を出している。おまけに日中は床に伏せっていると言っておきながら、侯爵家の茶会に行きたがっていたこともイリスとセンクの会話やニネアの発言である程度知れ渡っている。
身体が弱いわりにそれだけ精力的ならば、疲れたと言ってセンクと二人休憩室に引っ込んでいる間も本当に休んでいるのか怪しいものだ。途端に悲劇のヒロインの皮を剥がされ疑惑のヒロインとして嘲笑われ始めたニネアは、露骨に咳をして「胸が苦しい」とセンクに訴えた。
「身体の弱いニネアをこんなに追い詰めるなど! 父上から厳重に抗議をさせてもらう!」
「どうぞ。こちらとしてもズドク伯爵と話をしたいので、近々会談の場を設けるよう伝えてくれるかね」
捨て台詞と共にホールから去るセンクとニネアに、父は涼しい顔でそう言い放った。イリスは近くの給仕を呼ぶと、シャンパンの注がれたグラスを受け取って微笑む。
「さすがですわ、お父様」
「お前も良い仕事だったぞ」
父と乾杯を交わして、互いにグラスを傾ける。程よく冷えたシャンパンは、ささやかな祝杯に相応しい甘美な味わいだった。
その後、両家の会談の場でイリスとセンクの婚約は正式に解消された。センクはニネアを辱め体調を害したことへの賠償を、ズドク伯爵は婚約の継続を求めてしつこく食い下がったが、父は全く取り合わず毅然とした対応を貫いた。
「あからさまな詐病を見抜けぬ者も、それを野放しにして増長させる者も、当家としては縁を繋ぎたくはありません。これ以上イリスへの誹謗中傷を続けるのであれば、そちらが有責の婚約破棄として慰謝料を請求させていただきますが」
ここで引き下がらなければ余計大損をするぞと示してやれば、渋々といった態度でズドク伯爵は婚約解消に頷いた。後で惜しんでも遅いのですよと負け惜しみを吐かれたので、「そうなることはありません」と父娘揃って満面の笑顔を返してやった時の間抜け顔は忘れられない。
センクと婚約を解消してすぐ、イリスには次々と釣書が届き始めた。社交界の噂から悪役のイリスが消え、偽ヒロインのニネアが嘲笑の的になったからだ。悪評が消えたイリスはただの優良物件でしかなく、イリスを話の種にしていた令息さえもが手のひらを返して求婚してくるほどだった。
イリスはそれらの釣書から父と共に良い相手を選りすぐり、一人の青年と婚約を結んだ。ニネアが悲劇のヒロインだった頃から噂に興味を示さずにいた、片田舎の実直な子爵令息だった。
「新しい婚約者はどうだ」
「とても素敵な方ですわ」
父は婚約以後も慎重に青年を見極めている様子だったが、イリスは早々に青年を信頼していた。今度の婚約者は交流の茶会に出席して夜会のエスコートもしてくれるし、どうしても用事がある時は事前に断りを入れた上で埋め合わせもしてくれる。言葉を交わすだけでイリスと二人の将来のことを真剣に考えているのがよく伝わるし、贈り物だって真心を込めてイリスが欲しがっているものや似合うものを贈ってくれる。
どれも当たり前のことかもしれないが、これまではその当たり前さえできない人間が婚約者だった。となると、当たり前のことをしっかりこなしてくれる人間のありがたみがより身にしみるというものだ。彼となら上手くやっていけるな、とイリスは確信していた。
一方、イリスや父に縁を切られたズドク伯爵家の方は困窮していた。例の夜会を皮切りにセンクとニネアが暇を持て余した貴族達の格好の餌食になってしまったからである。
「あの方は美しく身分の高い乞食がお好きだそうよ」
「ああ、だから着飾らせていらっしゃるのねえ。甲斐甲斐しく世話までして、本当に惚れ込んでいらっしゃること」
「子爵家にろくな支援もせず、娘だけ引き取ったと聞いたから怪しいとは思っていたが。初めから娘が目当てだったのだろうな」
「病弱ということにすれば手元で愛でられるからな。さぞ父子に可愛がられているのだろうよ」
一転して貶められる立場になったことでニネアは人目を恐れて引きこもりがちになり、センクは心ない噂のせいでニネアが病にかかったと騒ぎ立てた。しかしセンクが騒げば騒ぐほど「本当に病弱になったのねえ」「病弱な人間を連れ回したせいで身体を壊したのでは」と笑い者になるばかりで、ただでさえ悪化していたズドク伯爵家の評判は地の底に潜る勢いで落ちていく。
もはやセンクとの縁談を受けてくれる家はなく、最近では嫡男の婚約も破談になったために嫡男とニネアを婚約させるらしいという噂も流れているが、病弱なニネアを娶らせてどう世継ぎを残すつもりなのだろうか。今からニネアを療養させて間に合うかどうか見ものである。
「ま、どうなろうと我が家には関係のないことだ。もう他人なのだから」
「そうですわね。どうぞご自分達だけでお幸せになっていただきたいものです」
二人揃って優雅にティーカップを傾けながら、イリスと父はそう言葉を交わす。
イリスと父も当然ながら貴族だ。親しい相手には義理に従って手を差し伸べ、何かの利益が見込める相手とは将来の損得を考えて手を結ぶが、親しくもなく付き合って得もない相手の事情など知ったことではない。
二人の話題はすぐさまイリスの婚約者とその実家である子爵家に切り替わり、それきりズドク家の名が口の端に上ることはなかった。
「かわいそう」を盾にするならこっちも同じことしたって文句言えねえなあーん?的な話でしたが、ちょっと弱かったかも。うまい話が書けるようになりたいね。
◆イリス
伯爵家長女。入婿を探していたらセンクが立候補し、そんなに問題なさそうだな…と思っていたら急にニネアを引き取って好き勝手し始めたのでこんな事態になった。それ以前からも「ん?」と思う兆候はあったそう。
父とは仲が良く、似た者親子と母には言われている。
センクへの意趣返しで孤児への支援に力を入れ始めたのがきっかけで領民の暮らしにより関心を持つようになり、伯爵夫人となって以降も夫と共に領民を思いやった施策を考え領地をよく治めた。娘の立派な成長を父は大層喜んだとか。
◆センク
ズドク家三男。名前を繋げて読んでみよう。
美しいニネアにすっかり手玉に取られて踊らされていたら婿入り先はおろかニネアさえも失った。そのうち家から追い出される。
ちなみに社交界の噂は半分本当で、センクの父ことズドク伯爵はニネアの美貌に惹かれて引き取っていた。病弱なふりをして気を引こうとするので泳がせるふりをして行き遅れの年頃になったら修道院行きと自分の愛人の二択を迫る気でいたが、めちゃくちゃ家の評判が落ちて嫡男の婚約が破談になったので仕方なく嫡男にあてがった。しかしまだ諦めてはいない。
なお夫人はそんなズドク伯爵の企みを察してから、着々と離縁の支度を進めている。そう遠くないうちに捨てられることだろう。




