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図書室の文通相手は…  作者: しゅり
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第3章 後編 「名前のない相手」

木曜日の放課後、私はいつものように図書室の扉を押し開けた。


窓から差し込む光が、本棚の背表紙に沿って長い影を落としている。


その影の間を縫うように歩きながら、私は自然とあの一冊へと足を向けた。


先週、自分の便箋を挟んだ本。


《まだ知らない君へ——》


手に取る瞬間、胸の奥が小さく高鳴る。


今週も、返事は届いているだろうか。


期待と、少しの不安が混ざり合う。


本を静かに引き抜き、ページを開く。


——あった。


折り目のついた便箋が、控えめに顔をのぞかせている。


それだけで、胸の奥がふっと緩んだ。


便箋を取り出し、そっと開く。


『最近、ちょっとだけ忙しくて、気づいたら一日が終わってる感じがする。』


読み進めるうちに、自然と表情がやわらぐ。


どこか、自分と似ている気がした。


『やることはちゃんとやらなきゃって思うんだけど、うまくいかない日もあってさ。』


その一文に、胸が少しだけきゅっとなる。


強がっているわけじゃないのに、どこかで無理をしている——そんな気配が伝わってきた。


私はそのまま、しばらく文字を見つめた。


便箋に書かれた文字のやわらかさが、どこかで見たような気がして、ほんの少しだけ胸に引っかかりが残った。


教室の光景が、ふと頭に浮かぶ。


昼間の数学の授業。

黒板に並ぶ数字と記号。


窓から差し込む光が反射して、チョークの粉がかすかに舞っていた。


先生の声は聞こえているのに、どこか遠く感じる瞬間。


ノートにペンを走らせながらも、意識が少しだけ別の場所にある感覚。


——あのときの自分と、少し似ている。

——同じ時間を過ごしている誰かなのかもしれない。


そう思った。


便箋に視線を戻す。


『でも、こうして誰かに話せる場所があると、ちょっとだけ救われる気がする。』


その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。


顔も知らない相手なのに。


名前も、声も、何も分からないのに。


それでも、ここで交わす言葉だけは、確かに本音に近い。


私は小さく息を吐いて、本を机の上に置いた。


そして、鞄から便箋を取り出す。


ペンを持つと、少しだけ指先に力が入る。


何を書こうか——そう考える時間が、最近はとても大切に思えるようになっていた。


ふと、昨日の教室のことを思い出す。


休み時間、隣の席の友達が楽しそうに漫画の話をしていた。


周りでも、放課後の予定やテレビの話で盛り上がっている声が広がっていた。


私は、その輪に入ることができなくて、ただ静かに聞いているだけだった。


嫌なわけじゃない。


でも、少しだけ距離を感じてしまう。


そのとき、ふと思ったのだ。


——あの子なら、こういうときどうするんだろう。


ふと、胸の奥に小さな引っかかりが残る。


どうして、こんなにも自然に思い浮かぶんだろう。


顔も知らないはずなのに。


便箋の向こうにいる相手のことを。


きっと優しい人だと思う。


文字の一つひとつに、やわらかい空気がある。


やわらかい言葉の選び方とか、気遣いの仕方とか。


読んでいると、自然とそんなイメージが浮かんでくる。


私はペン先を便箋に触れさせた。


『忙しいと、気づいたら一日終わってる感じ、分かります。』


ゆっくりと、言葉を紡ぐ。


『私も、やることが重なると余裕がなくなってしまって、あとで少し落ち込むことがあります。』


自分のことを書くのは、少しだけ勇気がいる。


でも、この場所なら大丈夫だと思えた。


『でも、こうして話せる場所があるって、安心しますよね。』


書きながら、少しだけ気持ちが整理されていく。


教室では言葉にできないことが、

ここでは自然と形になっていく。


ペンを止めて、窓の外を見る。


夕方の光が、少しだけ色を変えている。


図書室の中も、ゆっくりと時間が流れていた。


再び便箋に目を落とす。


『最近、どんな本を読んでいますか?』


少しだけ迷ってから、続きを書く。


『私は、物語の中で誰かの気持ちに寄り添えるような本が好きです。読んでいると、少しだけ優しくなれる気がして。』


書き終えて、軽く息をつく。


便箋をそっと折りたたみ、本のページの間に挟む。


それが、今の自分にできる唯一の“返事”。


本を閉じると、わずかな重みが手のひらに残る。


その感覚が、なぜか心地いい。


私は本を元の場所に戻しながら、もう一度だけ背表紙を見つめた。


《まだ知らない君へ——》


その言葉が、前よりも少しだけ近く感じられる。


名前も知らない。

顔も知らない。


それでも、確かに“誰か”がそこにいる。


図書室を出ると、廊下にはまだ明るさが残っていた。


教室の方から、部活に向かう人たちの声が聞こえてくる。


いつもの日常。


でも、その中に小さな変化がある。


手紙のやり取りを始めてから、

同じ景色が、少しだけ違って見えるようになった。


教室の光。

チョークの粉。

誰かの笑い声。


そのすべての中に、ほんの少しだけ“あの場所”が重なっている。


私はゆっくりと歩き出す。


次にこの本を開くのは、また来週の木曜日。


そのとき、どんな言葉が待っているのか。

どんな気持ちが届くのか。


まだ分からない。


——でも、それが少し楽しみだ。


胸の奥に、小さな灯りのようなものがともる。


それはまだ、はっきりした形を持たないけれど——

確かに、ここにある。


手紙という形でつながった、見えない距離。


その距離は、気づかないうちに、少しずつ縮まっていた。


——まだ、名前も知らないまま。

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