第3章 前編 「名前のない相手」
木曜日の放課後、私はいつものように図書室の扉を押し開けた。
外の光が大きな窓から差し込み、背表紙の隙間に長い影を落としていた。
腕章を整えながら、私はそっと本棚の前に立つ。
先週、自分が書いた便箋を差し込んだあの本を手に取る瞬間、胸が少し高鳴る。
返事は届いているかな。
丁寧に背表紙を確認し、本を引き出す。
ページをめくると、顔も名前も分からない秘密の友達が書いた返事が、折り目をつけて静かに収まっていた。
文字はきれいで、優しい雰囲気を持っている。
返事が届いたことに、自然と小さな笑みがこぼれた。
『昨日の授業は長かったんだ。休憩時間が短くて、次の授業に間に合わないかと思った。』
そう書かれた便箋を指先でなぞりながら、私は心の中で思う。
どこかのクラスでも、同じような時間が流れていたんだと思う。
不意に、教室で感じた疲れや緊張の時間を思い返す。
『最近、やることが多くて少し疲れてきちゃった。でも、周りにそんな顔見せられないし……ここで聞いてもらえると元気になれるんだ。』
私の手は少し震えた。
文字から、相手の気持ちが伝わってくる。
胸の奥がじんわり温かくなる。
ここでなら、何でも話せる——そういう空気が便箋から漂っていた。
ペンを取り、何を書こうか考える。
少しだけ迷ってから、便箋に文字を落とした。
『元気なふりって、疲れますよね。私も、誰かの前で元気に振る舞うことがあります。ここだけならいくらでも聞けるから、どんどん吐き出してね。』
便箋にそっと書き込み、次に送る言葉を選ぶ。
教室の風景が頭に浮かぶ。
昨日の授業、数学の先生が黒板に方程式を書きながら説明していた。
窓際から差し込む光が黒板に反射し、微かに舞うチョークの粉が、心の片隅で手紙の文字と重なる。
隣の席の友達が小声で漫画の話をしているけれど、私は自然と聞き流す。
……あの人も、同じ時間を過ごしていたのだろうか。
短い文章でも、文字の一つひとつにやわらかさが滲んでいる。
きっと優しい人なんだろう——そんな印象を抱く。
顔も知らないのに、少し笑みが浮かぶ。
相手の文字は、私に安心感をくれる小さな灯火のようだ。
『昨日は授業が長くて疲れたよね。無理せず休んでね。』
自分の心を、少しだけでも正直に文字にする瞬間。
図書室の静寂の中で、ペン先が便箋をなぞるたびに、胸が少しずつ熱くなる。
『この前借りた〇〇の本、主人公の気持ちに共感したよ。あなたもきっと共感できると思うな。』
読み終えた便箋をそっと本に戻す。
次に返事を読むのはまた来週。
火曜日に自分が書いた便箋を挟んだまま待つ間、少しワクワクする気持ちを抱えつつ、次の木曜日に書く自分の言葉を思い描く。
文通は一週間に一通ずつ。
少しずつ、文字のやり取りを通して日常が優しく色づいていく。
来週の木曜日、また図書室に戻る。
どんな言葉を書こうか、今から少し楽しみだ。




