第5章 前編 「気づいてしまったこと」
月曜日の朝。
教室の空気が、ほんの少しだけ違っていた。
ざわざわとした声の中に、どこか弾んだような響きが混ざっている。
「今日から来るんだって」
「ほんとに?もう大丈夫なのかな」
そんな言葉が、断片的に耳に入ってきた。
私は席に座ったまま、窓の外を見ていたけれど、意識は完全にそっちへ引っ張られていた。
――来る。
その言葉だけで、胸の奥が小さく揺れる。
誰のことか、聞かなくても分かってしまった。
しばらく休んでいたクラスメイト。
名前も、顔も、もちろん知っている。
でも――
文通相手かもしれない人
そんな風に思ったことは、一度もなかった。
はずなのに。
胸の奥に、説明のつかない違和感が残る。
私はそっと、机の中にしまってある小さな缶を思い出した。
その中に入っている、たくさんの手紙。
丸みのある、丁寧な文字。
優しくて、でもどこか距離を保つような言葉たち。
――あの人は、どんな人なんだろう。
そう考えた回数は、もう数えきれない。
でも私はずっと、勝手に女の子だと思い込んでいた。
理由なんて、特にない。
ただ、文字の雰囲気とか、言葉の選び方とか。
なんとなく、そう感じていただけ。
だから。
「今日から来るらしいよ」
隣の席の子の声を聞いたときも、
それと手紙が結びつくことは、なかった。
そのときまでは。
二時間目のあと、私は係の仕事でノートを集めることになった。
教室の前の掲示板には、提出物の一覧が貼られている。
紙の端が少しめくれていて、誰かが慌てて貼り直したような跡があった。
私はそこに近づいて、クラス全員の名前を確認していく。
未提出のところに、赤いペンで印がついている。
その中に――
見慣れない空白があった。
いや、正確には。
〔今までずっと空白だった場所〕
そこに、新しく名前が書き込まれていた。
整った字が、まっすぐに並んでいた。
その瞬間。
心臓が、ドクン、と鳴った。
なぜか視線が離れず、じっと見つめてしまう。
ただの名前。
ただの文字。
それだけなのに、視線が離れない。
指でなぞりそうになって、慌てて手を引っ込めた。
「どうしたの?」
後ろから声をかけられて、私はびくっと肩を揺らす。
「ううん、なんでもない」
慌ててそう答えて、掲示板から目を離す。
でも、頭の中ではずっと、その文字が残っていた。
似てる。
でも、違う気もする。
でも、やっぱり目が離れなかった。
放課後。
図書室へ向かう足取りが、いつもより少しだけ速くなっていた。
扉の前に立つと、無意識に呼吸を整える。
深く吸って、ゆっくり吐く。
――落ち着いて。
そう言い聞かせてから、扉を押した。
静かな空気が、すっと体を包む。
いつもの図書室。
変わらないはずの場所なのに、
今日は少しだけ違って見えた。
当番ではないのに、来てしまった。
ゆっくりと本棚の方へ歩いていった。
目的の場所にたどり着く。
背表紙の隙間。
そこに手を差し入れる。
指先が触れたのは――
紙の感触ではなかった。
空っぽ。
一瞬、息が止まる。
——ない。
――やっぱり。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
分かっていたはずなのに。
どこかで、期待していた。
でも。
その空白を見つめながら、私はふと思った。
もし、あの文字が本当に同じ人だったら。
もし、あの人が――
教室にいる人だったら。
そのとき。
手紙が途絶えた理由も、少しだけ分かる気がした。
翌日。
私はまた、ノートを回収していた。
教卓の上に、提出されたノートを積み上げていく。
一冊ずつ、名前を確認しながら。
その中に。
昨日見た名前があった。
私は自然を装って、そのノートを手に取る。
表紙を開く。
中の文字。
一度、視線を外してから、もう一度だけ確かめる。
――同じだ。
心臓が、一気に早くなる。
丸みのある字。
丁寧で、読みやすくて、
でもどこか遠慮がちな、優しい線。
間違いない。
あの手紙の文字と――
同じ。
ページをめくる指が、わずかに震える。
「……やっぱり」
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
その瞬間。
今までぼんやりしていたものが、一気に形を持った。
文通相手。
ずっと顔も知らなかった相手。
図書室でしか繋がっていなかった誰か。
それが――
同じ教室にいる。
それだけでも、十分驚きなのに。
さらに。
私はもう一度、その名前を見る。
名前を見て、思わず息を呑む。
——違う。
そう思ったのに
男の子の名前だった。
一瞬、意味が理解できなかった。
その事実が、頭の中でうまく形にならない。
「……え」
思わず、声が漏れそうになるのを必死で抑える。
頭の中が、真っ白になる。
だって。
ずっと、女の子だと思っていた。
何の疑いもなく。
でも。
文字は、確かに同じ。
言葉も、きっと同じ。
あの優しさも、あの距離感も。
もしかしたら全部――
この人だったのかもしれない。
その日の夜。
私は机に向かっていた。
目の前には、白い便箋。
ペンを持ったまま、ずっと動けないでいる。
書きたいことは、たくさんある。
聞きたいことも、たくさんある。
でも、どこから書けばいいのか分からない。
胸の奥が、落ち着かない。
嬉しいのか、怖いのか、自分でもよく分からない。
ただ一つ、はっきりしていること。
――〔知ってしまった〕ということ。
そして。
――〔もう、知らなかった頃には戻れない〕ということ。
私はゆっくりとペンを紙に置いた。
インクが、静かに滲む。
少しだけ考えてから、
最初の一行を書く。
『少し、間が空いてしまいましたね。』
それは、今までと同じようで。
でも、確実に違う意味を持つ言葉だった。
書きながら、自分の鼓動がはっきりと伝わってくる。
あの人も、これを読む。
教室で顔を合わせる、あの人が。
私の知らないところで、私の言葉を受け取っていた人が。
そしてきっと、これからも。
私はペンを止めずに、続きを書いていく。
少しだけ、踏み込むように。
でも、壊さないように。
慎重に。
大切に。
『あなたは、元気になりましたか』
書いた瞬間、少しだけ息が詰まる。
遠回しな問い。
でも、きっと伝わる。
気づいていることも。
まだ全部は言わないことも。
その全部を含めて。
私は最後まで書き終えると、そっと便箋を折った。
そして、封筒に入れる。
胸の奥に残る、小さな震え。
それは、不安じゃなくて。
きっと――
新しい何かが、静かに動き出している気がした。




