第4章 後編 「途切れたやりとり」
木曜日の放課後。
私は、いつもより少しだけ歩幅を落として
図書室へ向かっていた。
廊下の窓から差し込む光は、柔らかく床を照らしている。
その上を歩くたびに、影が静かに揺れた。
胸の奥が、落ち着かない。
——今日、分かる。
そう思うと、自然と呼吸が浅くなる。
扉の前で、一度だけ立ち止まる。
深く息を吸って、ゆっくり吐く。
それから、いつもと同じように扉を押し開けた。
静かな空間。
ページをめくる音も、人の気配もほとんどない。
その静けさが、今日はやけに広く感じられた。
私は腕章を整えながら、本棚の間を歩く。
視線は、自然とあの場所へ向かっていた。
《まだ知らない君へ——》
そこにあるだけで、特別な意味を持つ一冊。
手を伸ばす。
ほんの少しだけ、ためらう。
でも、今回は目をそらさなかった。
本を引き抜く。
手のひらに伝わる重み。
それが、鮮明に感じられる。
ページを開く。
——何も、なかった。
一瞬、時間が止まったような感覚。
視線を動かす。
もう一度、ページをめくる。
少しだけ急いで、確かめる。
でも、結果は変わらない。
便箋は、どこにもなかった。
胸の奥が、静かに沈む。
音もなく、ゆっくりと。
——そっか。
小さく息を吐く。
分かっていたはずだった。
先週、なかった時点で、可能性はあった。
それでも、どこかで期待していた。
今週はきっと、って思っていた。
でも、現実は違った。
私は本を閉じずに、そのまま机の上に置いた。
本を閉じることが、できなかった。
そのまま机の上に置いたまま——
指先が、わずかに震えているのに気づく。
どうして、こんなに。
自分でも、少し驚く。
ただの文通。
顔も知らない相手。
それなのに。
胸の奥にできた空白が、はっきりと分かる。
静かな図書室の中で、私はしばらく動けなかった。
窓から差し込む光が、机の上をゆっくりと移動していく。
その光の中で、ページだけが白く浮かんでいた。
——終わり、なのかな。
その考えが、ふと浮かぶ。
すぐに打ち消そうとする。
でも、消えない。
理由も分からないまま、突然途切れること。
それは、あり得ることだと分かっている。
最初から、そういう関係だった。
約束も、保証もない。
ただ、偶然つながっただけのやり取り。
それでも。
ここまで続いてきた時間は、確かにあった。
私はゆっくりと鞄を開けた。
中から、便箋を取り出す。
少しだけ迷う。
書く意味はあるのか。
もう、届かないかもしれないのに。
それでも——
ペンを握る。
白い紙の上に、手の影が落ちる。
私は、ゆっくりと書き始めた。
『最近、忙しいのかな。』
言葉は、思っていたよりも自然に出てきた。
『無理していないといいなって、少し心配しています。』
書きながら、自分の気持ちに気づく。
責める気持ちは、なかった。
ただ、気になっている。
それだけだった。
『もし、ここに来られなくなっても、大丈夫です。』
一度、ペンが止まる。
それでも、続きを書く。
『これまでのやり取り、とても大切に思っています。』
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
『私は、ここで話せたこと、嬉しかったです。』
言葉にすると、少しだけ現実になる。
終わりかもしれない、ということが。
『ここで話せた時間、私にとっては思っていたよりずっと大きなものでした。』
でも、不思議と。
完全に悲しいだけではなかった。
ペンを置く。
書き終えた便箋を見つめる。
その文字は、少しだけ揺れていた。
私はそれをそっと折りたたみ、本の背表紙に挟む。
それが、今できる最後のことかもしれない。
本を閉じる。
手のひらに残る感触が、少しだけ重い。
本棚に戻す前に、もう一度だけその表紙を見る。
《まだ知らない君へ——》
その言葉が、胸に静かに残る。
名前も知らない。
顔も知らない。
それでも、誰かがいた。
その事実は、消えない。
私は本を棚に戻し、ゆっくりと図書室を見渡した。
いつもと同じ空間。
でも、どこか少しだけ違って見える。
静けさの中に、自分の気持ちが溶けていくような感覚。
私は小さく息を吐いて、図書室を出た。
廊下に出ると、外の光が少し眩しく感じられた。
遠くから、部活の声が聞こえてくる。
誰かの笑い声。
走る足音。
いつもの日常。
でも、その中にある“何か”が、少し変わった気がした。
ふと、足が止まる。
胸の奥に残っている感覚に気づく。
——支えだったんだ。
ふと、そう思う。
あの手紙のやり取りは。
気づかないうちに、自分の中で大きな存在になっていた。
教室で感じる小さな孤独。
言葉にできない気持ち。
それを、受け止めてくれる場所だった。
たとえ今、途切れてしまったとしても。
その時間があったことは、消えない。
むしろ——
それがあったから、今の自分が少しだけ変わっている。
胸の奥に残る、静かな温かさ。
それは、確かにここにある。
私はゆっくりと歩き出す。
空を見上げると、夕焼けが広がっていた。
オレンジ色の光が、街をやわらかく包んでいる。
その中で、私は少しだけ前を向く。
終わりかもしれない。
でも、それだけじゃない。
ここから、何かが始まる気もしていた。
名前も知らない誰かとの距離。
それは、見えないまま——
心の中に残り続けていた。




