教頭先生、おばけに挑む
時計の針が、夜の十時をさしました。小学校に残って仕事をしているのは、教頭先生たった一人です。先生の叩くキーボードの音だけが、半分電気を消した職員室に響いています。
「もう十時か……」
時計を見上げ、教頭先生はつぶやきました。まだ、片づけるべき仕事はたくさん残っていますが、そろそろ帰った方がいいかもしれません。明日は、一限目から体育の授業があるのです。
教頭先生は、机の上の書類やパソコンをささっと整理して、立ちました。体のあちこちがかちこちに固まっているので、軽く体操し、カバンを持ちました。
ところがその時、職員室に備えつけの電話が大きな音で鳴り始めました。こんな時間に? と先生は思いましたが、出ないわけにはいきません。手近な子機を取ると、電話口から女の人の声が聞こえてきました。
「ああ、出た。もしもし?」
聞き覚えのある声です。教頭先生はどきりとしました。それは、魔法の先生__裏天神杜小学校のマリコ先生だったのです。
「……もしもし」
「あら、教頭先生。お一人ですか?」
「ええ」
あいさつもそこそこに、マリコ先生は言いました。
「そっちの学校に、「おばけ」が入りこんだようです。教頭先生がいらして、ちょうどよかったわ。夜のうちに追い出してください」
「はい!?」
教頭先生は思わず聞き返します。
「な、なんですって?」
「ですから、教頭先生が「おばけ」を退治してください。水晶玉で発見したのです。児童によくない影響をもたらす「おばけ」です」
「マリコ先生は手伝ってくださらないのですか?」
「私はこれから、魔法の先生同士の会議に行かなければなりません。頑張ってください。では」
「あっ、ちょっと」
電話は切れてしまいました。教頭先生は一瞬ぼうぜんと受話器を握りしめていましたが、やがて我に返りました。
「マリコ先生の言うことが本当なら、このまま帰るわけにはいかないな」
教頭先生はため息をついて、懐中電灯を探しました。
それからしばらくして、教頭先生は電灯の消えた廊下に足を踏みだしました。手には、小さな懐中電灯を持ち、ポケットにはいざという時のためのお札が入っています。お札は、校舎の側にある神社の神主さんが、何かと不思議なことが起こる天神杜小学校のために書いてくれたものでした。
懐中電灯で、暗い廊下を照らしながら先生はゆっくりと進みます。廊下の電灯をつけないのは、教育委員会から節電を厳命されていることと、つけた後消すのが面倒だからです。いつ死角から飛び出すか分からない「おばけ」に備え、先生は何度も振り向いたり、あちこちを油断なく見回しました。
どすどすと自分の足音が響くのが嫌で、教頭先生は忍び足で歩くようになりました。児童たちの教室がある棟を、特に念入りに見て回ります。万が一にも、朝登校してきた児童が恐ろしい目に遭うことがないように。
トイレの前にさしかかった時、突然、小さな女の子が女子トイレから飛び出してきました。教頭先生は一瞬ぎょっとしましたが、おかっぱ頭の女の子がにこにこ笑っているので、深呼吸して気を落ち着かせます。
「こんばんは、教頭先生」
「こんばんは、ゆなちゃん」
ゆなと呼ばれた少女は、こんな夜ふけだというのに、怖がりもせず暗いトイレにいたようです。何故かといえば、彼女は学校公認のおばけなんですね。
昔、彼女は「花子さん」とよばれていました。けれどずっと同じ名前だと飽きてしまうようで、最近は「ゆなちゃん」とみんなに呼ばせています。もう十年ほど経てば、また違う名前になっているかもしれません。
「教頭先生、残業?」
そう聞かれて、教頭先生は苦笑いしました。
「そうだよ」
「ふうん。頑張って」
「ありがとう。……ところでゆなちゃん、知らないおばけが学校に入り込んだみたいなんだけど、見てないかな?」
ゆなちゃんは、首を傾げました。
「あたしは見てない」
「そうか。じゃ、ちょっと探してくるよ」
「うん、またね」
ゆなちゃんに手を振って、教頭先生は先へと進みました。教室棟をすっかり回った後は、特別教室です。図工室、理科室、音楽室……下から順番に見て回ろうと思っていましたが、
図工室の前で、教頭先生はおかしなことに気がつきました。
窓の外には、明るい月が輝いています。無数の星もきらきらと輝いているのです。ところが、廊下は全く真っ暗でした。ガラスを隔てた向こう側にあふれている自然な光が、教頭先生の側には届かないのです。その上、いつの間にか、懐中電灯の灯りも消えていました。どうして今まで気づかなかったのでしょう?
「どうも、変だな」
教頭先生は、そうつぶやいたつもりでした。ところが、確かに出したはずのその声は、先生自身の耳に入ってこないのです。
校内は、しんと静まり返っています。教頭先生は、わざと足を踏みならしたり、手を叩いてみました。それらの音もちっとも聞こえなかった時、先生はぞくりとしました。
何しろ、完全な闇の中にいて、自分の声も体を動かす音も聞こえなければ、自分がどこにいて、どこへどう動いたのかもさっぱり分かりません。誰かがすぐ側に近づいていても、分からないかもしれません__。
教頭先生は、両手でごしごしと顔をこすりました。両の手と顔は、たしかにそこにありました。自分はここにいる__そう分かった教頭先生は、ポケットの中のお札を握りしめました。くしゃくしゃの紙の感触は、書き損じて捨てたプリントと同じです。慣れた感触が、気持ちを少し落ち着かせてくれました。
先生は、両手を前に出し、暗闇の中をそろそろと歩きました。時折壁にぶつかり、そのたびに方向を変えました。自分が何のためにどこに向かえばいいのかは、分かりません。でも、じっと立ち尽くしているよりは、闇雲にでも動いていた方が、はるかに気分がましでした。
階段のふもとでつまづき、教頭先生は這うようにして登りました。自分は逃げているのか、それとも追いかけているのか。そう不思議に思った時、音が聞こえてきました。
それは、ピアノの音でした。
誰かがピアノを弾いているのです。見事な腕前でした。教頭先生は、音のする方向に向かって少しずつ登ります。ピアノがある場所といえば、音楽室に決まっています。そこに、誰かがいるのでしょう。__敵か味方かは別にして。
音楽室にようやくたどり着き、教頭先生はどきどきしながら扉を引きました。__ピアノの音が、ぷつりと途切れます。
音楽室の中も、相変わらず闇に包まれ、何も見えません。けれど誰かがピアノの前に座って、もぞもぞと身を動かしている音が確かに聞こえます。
教頭先生はほっとして呼びかけました。
「そこにいるのは誰です?」
一小節ほどの間を置いて、低い声が返ってきます。
「ベートーヴェンだ」
そんなわけがないと思ったので、教頭先生は笑い出してしまいました。けれど笑い声がむなしく闇に響くばかりでした。
「……すみません」
ベートーヴェンと名乗った男? は答えるかわりに、ピアノをまた弾き始めました。
教頭先生はピアノに近づき、お札を握りながら問いかけます。
「あなたが、今夜学校に入り込んだ「おばけ」ですか?」
ピアノの音が、またやみました。
「違う。私は、何十年も前からここにいた」
「では、「おばけ」はどこにいて、どんな姿をしているのでしょう?」
その時、月の光が窓から差し込み、ピアノの前にいる男の姿を照らし出しました。軽くウェーブのかかった髪、がんこそうな顔つき。そこにいたのはたしかに、肖像画のベートーヴェンそのものでした。
ベートーヴェンは、教頭先生をまっすぐに指さしました。
「そこにいて、そんな姿をしている!」
びっくりした教頭先生の目に、床の上の影が映ります。じっと立ち尽くす自分の影が、ぴょんぴょんと狂ったように踊り飛び跳ねていました。ベートーヴェンが、どこからともなく鏡を取り出し、見せてくれました。鏡の中の教頭先生が、にやにやと笑ってこっちを見ています。本当の教頭先生は、おどろきのあまり凍りついているのに。
ベートーヴェンは、言いました。
「おばけは、お前を気に入ったようだ。しばらくはとりついたままだろう。よかったな」
いや、よくないと教頭先生は思います。鏡の中の教頭先生は、相変わらずよこしまな笑みを浮かべたまま、べろべろばーをしてみせたり、じゃんけんをしようと誘ってくるのです。
「おばけを追い払うには、どうしたらいいですか?」
「簡単だ。誰かに押しつけたらいい。校長先生、同僚の先生たち、児童たち」
誰に「おばけ」を押しつけても、目覚めが悪くなりそうだと教頭先生は思いました。校長先生は腰痛に悩んでいるので、おばけなんかにとりつかれたら、もっと腰を痛めてしまうかもしれません。先生たちの誰が欠けても、学校現場は困ってしまいます。児童たちにおばけを近づかせるなんて、とんでもないことです。
教頭先生は、鏡の中のおばけに言いました。
「しばらく、俺のところにいなさい。そのかわり、児童にちょっかいは出さないでもらいたいな」
おばけはちょっとまじめな顔をして(教頭先生とそっくり同じ顔なのですが)、うなずきました。
それ以来、おばけは教頭先生について、小学校を闊歩しています。先生との約束を守って、児童の前には出てこないようにしていますが、嫌みな教育委員会の人たちが学校にやってくると、おばけが教頭先生のかわりに「あかんべ」をするので、先生はひやひやするのでした。
おばけがどこからやってきたのかは、そのうちわかるかもしれません。




