8 日記帳の魔法に驚くイリヤ
「嘘……でしょう? これ……全部、私が書いたの?」
店の片付けを終えて夕食を食べ終わり、今日は疲れたから早く寝ようと部屋に戻ってみれば、机の上に開きっ放しの日記帳があった。
真っ白なはずのページが、一面黒い文字で覆われている。
「まさか……」
少し右に上がっている見覚えのある筆跡。
「え……? だって……いつ書いたっていうの?」
ページに伸ばした指先が触れた途端、頭の中に少女の感情が溢れてくる。
まるでその子に成り代わったように、自分のことのように感じられる――。
◆◆◆ ◆◆◆
国王陛下との謁見はあっという間に終わり、王宮を出ると、そのまま馬車に乗せられました。
必要な荷物は既に運ばれているとのことです。
離宮に戻ってお母様にご挨拶することはかないませんでした。
生まれて初めて馬という生き物を見て、それが引く馬車という乗り物に驚きました。
まあ、驚いたのはほんの一瞬で、すぐに馬車に乗り込んだのですが。
ガタガタと音を立てながら進む馬車の窓から、王都の街並みが見えました。
驚くほど多くの建物がありました。そして人も!
大勢が暮らしているとは聞いていましたが、これ程とは……!
いつの間にか建物が見えなくなり、気がつけば、山間の寂しい道を走っていました。
どれくらいの時間が経ったのか、よくわからなくなった頃、ようやく馬車が止まりました。
到着したのが、ここ『聖殿』です。
王宮でお会いした聖教会の方――としか聞いておりませんが――が、行き先は聖殿だと教えてくださいました。
聖殿がどういう場所なのかまでは聞けませんでしたが……。
「ようこそおいでくださいました。今日より私どもが当代様のお世話をさせていただきます」
馬車を降りた私に、そう言って頭を下げた女性は離宮のどの侍女よりも年上に見えました。
その女性が頭を下げるのに合わせて、後ろに居並ぶ大人たちも一斉に頭を下げました。
大きな建物の前の広場に十人ほどの大人が整列されています。
私を出迎えるためにわざわざ外で待っていてくださったのでしょうか?
「皆様、どうか顔をお上げください」
私がそう言うと、これまた一斉に同じタイミングで頭が上がりました。
「自己紹介をさせてください。私は――」
「存じ上げております。当代様」
まさか遮られるとは思ってもいませんでしたので、思わず目を見開いてしまいました。淑女として失格です。
「あ、あの。どうか私のことはベスと――」
「いいえ、当代様。もうあなた様は王族ではございません。聖母様にお仕えするただ一人の女性となられたのです。ですので、ご身分と共にお名前もなくなりました」
……え? 聞き間違い……ではなさそうですね。
名前がなくなるとはどういう意味なのでしょう?
「あのう……」
「当代様。どうか、ただただ心穏やかに過ごすことだけをお考えください」
「……はい」
私の気持ちを伝えようと思ったのですが、どうもこの場ではふさわしくないような気がしましたので、「はい」とだけ答えました。
それでよかったのでしょうか……お母様……?
「では参りましょう」
「あの。あなたのお名前をまだ聞いていなかったと思うのですが」
その方は無表情でおっしゃいました。
「私どもの名前など気になさらずとも、ご用があれば近くの者をお呼びください。お声をかけていただくだけで結構です。名前を呼ばれる必要などございません」
聖殿という場所では、人の名前を口にしてはいけない決まりでもあるのでしょうか。
『あー、この王女様は何も聞かされていないもんねー。まさか、聖母様に名前を聞かれるのが怖いからだなんてねー。どれだけ聖母様に怯えているのよ』
『…………は? 嫌だ嫌だ嫌だ! そんなことは知らない。私が知っているはずがないでしょ! 何なのこれ! 止めてよー!』
◇◇◇ ◇◇◇
夢の中で必死に抵抗している自分の声が聞こえて目が覚めた。
「……え?」
寝ていた訳ではなく、日記帳を前に立っていた。
「さっきこの日記帳に触って、それから――え? この日記帳って、夢を覚えているだけじゃなくて、触ると夢を見てしまうの?」
何それ? いやいや。そんなことあるはずないじゃない。
もう一度触ってみればはっきりするはず…………怖くてできない!
「は、早くエシルさんに相談しなきゃ。明日のお昼にでも行きたいけれど、急に訪ねて行って大丈夫かな? あー、しまった。エシルさんのお休みの日を聞いておけばよかった」
でもエシルさん以外に相談できる人はいない。
「おまじないにしては効き過ぎているし、もし本当に触るだけで夢を見てしまうようなら、もう続きを見たくない」
うん。この日記帳はエシルさんに返そう。
「あの少女が不憫で見ていられないもの」