29 聖殿の異変
「はっ」
また飛び起きちゃった。
……あ。私まで涙を流している。
もう。また母さんに言われるかも。
店に降りていっても母さんは何も言わなかった。
気を遣ってくれたんだと思う。
開店直後の忙しさが一段落ついた時だった。
「いらっしゃいま――エシルさん?」
「ふふふ。最近訪ねてくれないから、どうしているのか気になって」
「あ、私もちょうど会いに行こうと思っていたところなんです」
「あら、そうなの? もうすぐお昼だけど、よかったら私の家でご飯を食べない?」
「え? いいんですか? ちょっと待っててくださいね。母に聞いてきますから」
母さんに許可を取って、エシルさんと一緒に彼女の家に行くことになった。
もちろん日記帳も持参して。
「エシルさん。よかったら、これ、一緒に食べませんか? 母がエシルさんと二人分の焼き立てパンを持たせてくれたんです」
「ああ、ありがとう。でもその前に日記帳を見せてちょうだい」
「はい。どうぞ」
エシルさんはパンには見向きもしないで日記帳を開いた。
前回と変わり映えしない内容なんだよね。
エシルさんにもすぐにわかったらしく、開いたままの日記帳をぐいっと私の前に押し出して、「この前言ったことを覚えている?」と険しい表情で言った。
「ええと。特別な出来事を見ようって――」
「そうよ! それなのに何なのこれは! 相変わらずレイモンドとの楽しい思い出ばかり思い出して!」
まさかエシルさんがこんな風に怒り出すとは思ってもみなかった。
どうして、そんなに腹を立てているの?
「ええと――」
「違うでしょ! レイモンドはそんな男じゃなかったでしょ! 本当の気持ちをちゃんと思い出して! この子があなたに話しかけているのは、あの時の気持ちを伝えたいからでしょ?」
「あの時の気持ち……? え、エシルさん、ちょっと落ち着いてください――え? エシルさん、な、何を――」
エシルさんが鬼の形相で私の手を掴むと、無理やり日記帳に押し当てた。
前屈みになったエシルさんのショールがはだけて、顕になった右頬が爛れているのを目にして、私の意識は、底が抜けたような深い深い世界に落ちていった。
◇◇◇ ◇◇◇
レイモンドの足は遠のいたままです。
久しぶりに誰かとお話がしたくて、今日は我が儘を言ってエシルさんにお越しいただきました。
ですが、部屋に入って来られた時からエシルさんの様子がおかしいのです。
他愛の無いことを少し話した後、エシルさんが切り出されました。
「ねえ。私のことを友達と思うなら、正直に言ってほしいの」
「……?」
何の話でしょうか?
「レイモンドに、私とは二度と会うなっておっしゃいましたの?」
「え? まさか。どうして私がそのようなことを――」
「では、レイモンドが嘘をついたと? 当代様。正直におっしゃって。レイモンドのことをお好きなのでは?」
……好き?
「え? 私がですか?」
「だからレイモンドと私が二人で会うのは嫌だったのではないですか? それでレイモンドが断れないことを知っていて、私に会うなとおっしゃったのでは?」
「え? そんな――何かの間違いだと思います。そのようなことを言った覚えはありません」
「では、レイモンドのことをどう思っていらっしゃるのです?」
どう? どう――とは?
レイモンドは色んなことを教えてくださる方で、一緒にいて楽しくて、だから来ていただけないと寂しくて。
……これは『好き』ということなのでしょうか?
私はレイモンドのことが好きなのでしょうか?
「どうしましょう。エシルさん……私……私……」
「やっぱり。レイモンドのことがお好きなのですね。でも、だからといって、友達ならば、そんな意地悪をしないものですが。やはり私のことなど本当は友達だとは思っていなかったのですね」
「それは誤解です。エシルさんは私の大切な友達です。信じてください。私はレイモンドにそんなことは言っていません。レイモンドがどうしてエシルさんにそんなことを言ったのでしょう……?」
「当代様は――私が嘘をついていると――そうおっしゃりたいのですね」
エシルさんが涙を溜めて私にそう訴えかけられたので慌ててしまいました。
「違います。そんなこと、そんなことは言っていません。レイモンドと三人で話せば、きっと誤解が解けるはずです」
「……いいえ。当代様を前にして、レイモンドが本心を言えるとは思いません。何かも私が間違っていました。全部忘れてください。……今言ったことは、全て私の虚言です。妄想です。ですが、もう当代様とはお友達ではいられません。二度とお会いすることはないでしょう」
なんということでしょう!
せっかくできたお友達ですのに!
「そんな!」
どう言えばエシルさんにわかっていただけるのでしょうか。
私は退室しようとするエシルさんを必死に止めながら、言葉を探していました。
ですが、正しい言葉を探し当てることができないまま、気づけば泣いていました。
声を出して泣いていたようで、お世話係が、「当代様、何事でしょうか?」と部屋に入ってこられました。
そしてこうおっしゃったのです。
「レイモンドを呼びましょうか?」
エシルさんは、「ほら、ご覧なさい」と言いたげです。
レイモンドの気持ちなど顧みず、いつだって気の向くままに彼を呼びつけていると思われたのでしょう。
エシルさんは何もおっしゃいませんが、きっと、お世話係の手前、自重なさっているのです。
「いいえ。結構です。それだけはやめてください。その代わり――お母様を呼んでいただけないでしょうか。どうしてもお母様にお会いしたいのです。お願いです。お母様に会わせてください」
お世話係は少しばかり思案なさいましたが、
「承知いたしました。それではそのように上の者に伝えます」
と言ってくださいました。
エシルさんは私が泣いたことに驚かれたのか、椅子に座り直されました。とりあえずはもうしばらく一緒にいてくださるようです。
少しばかり放心状態でしたので、どれくらいの時間が経ったのかよくわかりませんが、お世話係から、「母君はお会いできないとのことでございます」と返事をいただきました。
落ち着いたと思ったのですが、その言葉を聞いた途端に押し留めていたものが流れ出てしまいました。
もう自分で自分を制御できません。
「うっ。うぅぅ。ひっく」
生まれて初めて泣き崩れてしまいました。
淑女失格なのはとうにわかっていましたが、私の心はこんなにも脆かったのでしょうか。
まさか他人の目の前で涙を流してしまうとは。
いけないと思っても止まらないのです。
お世話係もエシルさんも困り果てていらっしゃいます。
二人を困らせてしまい申し訳ないと思うのに、泣くことを止められません。
その時でした。
見慣れない男性がノックもしないで部屋に飛び込んできたのです。
「た、大変です! 当代様! すぐに聖殿にいらっしゃってください」
お世話係が、「無礼者が!」と声を上げられましたが、その男性のお顔から何かを察せられたようで、すぐに、「何事か?」とお尋ねになりました。
「と、とにかく当代様をすぐにお連れするようにと。聖殿の監視役からのご伝言です」
お世話係は随分と驚かれたようですが、「当代様。とにかくご移動をお願いいたします」と私の腕を取って部屋を出られました。
外に出るというのに、私はまだ涙が止まりません。
見かねたエシルさんが、「当代様は私がお支えいたしますわ」と私の手を握ってくださいました。
まだ私たちは友達ということでよろしいのですね?
馬車に揺られていると、ようやく涙が止まりました。
ですが、私の顔はもうぐしゃぐしゃだと思います。
ありがたいことに、そう指摘される方はいらっしゃいませんが。
聖殿を訪れたのは久しぶりです。
お社にいらっしゃった方が全員集まっているのではないかと思うほど、扉の前に人だかりができていました。
皆さんが一様に驚愕の表情をされていたのですが、扉に近づいてその訳がわかりました。
赤く浮きでいていた模様は、今やすっかりどす黒く変色していました。