11 血の盟約
――結局。
エシルさんのところから戻って今日まで、日記帳はショールに包んだままテーブルの隅に追いやっている。
どうしても手に取ることができない。
触ったら最後、あの王女様の物語に引き込まれてしまいそうで怖かった。
『世間知らず』なんて言葉が生ぬるいほど、あの十二歳の少女は離宮の外の世界を知らない。
母親と数人の侍女以外の人間を知らない。
「まさか幽閉されてた? でも王女だよね……? あーもう! 夢! 夢なんだから忘れよう!」
一週間ほどは日記帳をもらう前の生活に戻っていたけれど、日記帳に触れずとも夢を見続けていたことをすっかり忘れていた。
◇◇◇ ◇◇◇
私のお世話をしてくださる方々は、侍女ではなく聖教会の方だそうです。
そして馬車を降りて目にした建物は、『当代様のお社』だということを教えてくださいました。
初めて聞く言葉でしたが、私の住む場所らしいです。
『当代様』の意味について何度かお聞きしたのですが、「それは後ほど」としか答えていただけませんでした。
案内された部屋は離宮の部屋と似ていて懐かしさを感じた程です。
ベッドだけは大人用の大きなものでしたが、小さな丸テーブルと椅子があるのは同じでした。
「ふふふ。出窓があるなんて素敵だわ。でも書棚は無いのね。お母様に頂いた絵本を持ってきたかったわ」
……お母様は今頃どうしていらっしゃるかしら。
私のことを心配なさっていたらどうしましょう。誰がお母様を慰めて差し上げるのでしょうか。
……お母様。
いけません。これ以上思い出してしまうと泣いてしまいそうです。
泣きそうな時はウサギのぬいぐるみを抱きしめて我慢していましたが、ここにはありません。
……どうしましょう。
ノックに続いて、「当代様。失礼いたします」という声が聞こえたので、慌てて窓から離れました。
ドアを開けて入って来たのは、到着して最初に声をかけてくださった方でした。
やはりお名前がわからないのは不便ですし、なんだか失礼な気がします。
「当代様。『延期されていた儀式をお早く』とのことですので、これからよろしいでしょうか」
国王陛下に謁見した時にいらっしゃった聖教会の偉い方も、私に同行してここまでいらっしゃったそうです。
おそらくその方から急ぐようにと言われたのでしょう。
私が連れて行かれたのは、お社という建物の裏手にあるそそり立つ崖でした。
地上から隆起したような岩肌の一部が扉になっています。
元々崖だったところに樹木が生い茂り、今ではほんの一部分しか岩が見えないような、そんな感じの場所でした。
空は晴れ渡り日差しも降り注いでいるのですが、不思議と霧の中にいるような湿り気を感じます。
人があまり訪れないからでしょうか、とても静かで清らかな雰囲気がします。
人といえば、王宮にいらっしゃった聖教会の方が岩の近くで私を待っていらっしゃいました。
「当代様。さあ、どうぞこちらへ」
その男性がそう言って扉の方を指されましたので、恐る恐る扉に近づきました。
「あのう」
「ご心配はいりません。さあもっと近くへ」
部屋からここまで案内してくださった女性は、離れたところに立ち、じっと私たちを見ていらっしゃいます。
私の歩みが遅いせいで、「ささ、お早く」と急かされてしまいました。
ドアのすぐ側まで行くと、男性が手を差し出して、「お手を」とおっしゃいました。
私は男性の手の上に自分の手を重ねようとしたのですが、手首を掴まれて手のひらを扉に押し当てられました。
「痛っ」
チクリと何かに刺されたような痛みを感じて手を離そうとしたのですが、男性に押さえられているため動かせません。
「もうしばらくご辛抱を……おぉぉ」
しばらくすると気分が悪くなってきました。
「すみません。少し休みたいのですが」
「あと少し……もう少しです」
何がもう少しなのでしょうか?
「古より連綿と受け継がれてきた契約にございます」
ずっと掴まれている手首も痛いのですが、なんだか頭がぼうっとしてきました。
「あぁぁ……やっと……当代様。無事に引き継ぎが完了いたしました」
手首を離されて自由になったのですが、足元がふらついてしまいました。
「あぁ、お小さいからか……コホン。あと少しご辛抱いただけると助かるのですが」
「え? あ、はい。大丈夫です」
「ではこの扉を開けて中にお入りください。この中に入ることができるのは当代様ただお一人です。是非、中の聖母像にお会いになってください」
「はい」
男性がスッと後ろに下がったので、どうやら扉は私が自分で開けるようです。
改めて扉を見ますと、先ほどは岩肌と一体化していたように見えましたのに、今ではくっきりと岩から浮き出ています。
それに――何というか、扉には葉っぱの葉脈のような不思議な紋様が赤い線で描かれています。
「え? さっきはなかったのに……?」
それに、自分でも不思議なのですが、今や私はその扉とつながっているように感じるのです。
私が「開け」と命じただけで扉が開く気すらしました。
そっと軽く扉に触れただけで、扉の方が開いてくれました。
本当に入ってよいのか、再度尋ねようと男性を見ると、扉からかなり離れたところで膝をついて頭を下げていらっしゃいます。
声をお掛けするのが躊躇われて、私は思い切って中に入ることにしました。