第三章 死者の残光 3
ゴードンが〈分離〉羊皮紙を書類挟みに隠して小型トランクに収めているとき、窓の外をコツコツと何かが叩いた。
見れば火蜥蜴だった。
エレンは慌てて格子窓を開けて、暗躍者を室内へ導き入れた。
「サラ、ご苦労様」
「ミス・ディグビー、何を――」
ゴードンが顔を向けるなり目を見開く。
「……それがさっきの焔の?」
「然様」と、サラ自身が答える。するとゴードンはお決まり通り「喋るのか!?」と愕いた。
「わたくしの契約魔である火蜥蜴のサラですわ。どうかお見知りおきを」
「名前についてのコメントは要らんぞ? ちなみに名付けたのはエレンじゃ」
サラはぞんざいに挨拶をするなり、エレンの右の掌越しにどこかへと消えていった。
ちょうどそのタイミングで、廊下側のドアが外から控えめに叩かれた。
「ミスター・ゴードン、ミス・ゴードン、お部屋の中においでで?」
フラウ・ハーゲンである。
「あ、ああ!」
ゴードンが慌てて応えてドアを開けた。「室内を見せて貰っていたんだ。とても良い部屋だな」
「それじゃ、借りるか借りないからもうしばらく検討するよ」
「分かりました。――いつまで空き部屋であるかは分かりませんけれどね」
冷ややかに応じるフラウ・ハーゲンに見送られ、キムリー公夫妻の肖像画を飾った玄関ホールを出る。
「私はひとまずテンプル・スクエアの事務所に戻ります」と、ゴードンが小型トランクを開けながら言う。「先ほどの羊皮紙をお渡ししますね」
「ありがとうございます」
エレンは内心の動揺を押し隠して笑った。
モリソン&ゴードン出版社の事務所は広場の南のピアゲート大通りの右手の建物の二階にあった。
玄関前でゴードンと別れたエレンは、広場の真ん中に立つ聖ルーク教会の左手を抜け、北側のブルックゲート大通りへと向かった。
右手には市庁舎。
左手には海運商人組合と毛織商組合、それに誉あるタメシス魔術師組合の会館の立ち並ぶ格式ある大通りだ。
エレンはその大通りで自動機械人形の引く辻馬車を拾うと、市内の北のカレドニアン・ヤード通りへ行くようにと御者に命じた。
「娘さん、警視庁に御用かいね?」
つぶれた赤いフェルト帽をかぶった赤ら顔の御者が揶揄うように訊ねてくる。
タメシス警視庁の裏口がその通りに面しているため、「カレドニアン・ヤード」といったら、タメシスっ子のあいだでは「警視庁」の別名だ。
「ええ、その通りよ」と、エレンは澄まして応えた。「急いで頂戴。大至急、秘密の用があるの」
「へええ」
御者はちっとも信じていない口調で応じると、
「トレー! 走り出せ!」
と、馬型の自動機械人形に命じた。
ガランガランと騒々しい音を立てて自動機械人形が車道を走る。
箱馬車はじきにブルックゲート門を抜けて市内の北側へ出た。
「着きましたぜ娘さん。警視庁の裏口です」
「ありがとう。戻るまで待っていて」
車道に馬車を待たせ、入口の三段の階段を上る。
黒い扉の前に立った黒い帽子の門衛が、
「娘さん、ここは――」
と、言いかけて、ハッとしたように目を見開くと、極まりの悪そうな笑顔を浮かべた。
「なんと、こりゃミス・ディグビー! 大変失礼いたしました」
門衛はエレンの顔を知っているようだった。
エレンはぞくぞくするような晴れがましさを感じた。
「間違えて貰えて光栄よ。変装しているのですから」
「おお。何か難しい事件で?」
「まあね。いろいろと内密に動く必要があるのよ」と、エレンは潜め声で告げた。「できるだけ目立たないように、クリストファー・ニーダム警部補を呼んでくださる?」
「承りました諮問魔術師どの」と、門衛が真剣な顔で頷く。「あなたの騎士はすぐにいらっしゃると思いますよ」
「わたくしの、なんですって?」
思わず問い返すと、父親ほども年長にみえる門衛は訳知り顔でニヤリとするなり、扉を開けて屋内へ引っ込んでしまった。
エレンは自分の耳がカッと熱くなるのを感じた。
--一体、警視庁では、わたくしとミスター・ニーダムの関係はどういう風に誤解されているのかしら……?