第三章 死者の残光 2
サラを戸外へと送り出してすぐ、ドアが外から控えめに叩かれた。
あまり長いこと中にいるためにフラウ・ハーゲンが心配しているようだ。
エレンが慌てて出ると、謹厳な顔に微かな懸念を浮かべて訊ねてくる。
「どこかお加減でも?」
「いえ、大丈夫ですわ」
ぎこちなく笑ってごまかして203号室へ戻ろうとしていたとき、
「きゃああー―――っ!!」
階段を挟んだ一番目のドアがいきなり開いて、黒っぽい巻き毛に白いコットンドレス姿の肥った小柄な女が、上ずった悲鳴を上げながら廊下へ飛び出してきた。
「ミス・ハリス? どうなさいました?」
フラウ・ハーゲンが鋭い声で訊ねる。
同時に203号室の開いたままのドアからゴードンが姿を現した。
「なんだ、なにごとだ?」
「ミスター・ゴードン、ミス……ゴードン? お二人ともそこでお待ちを! ミス・ハリス、何があったのです?」
「火が! 火が暖炉から噴き出してきたのよう!」
黒髪の女がガタガタ震えながら訴える。
「火? 一体なんのことです?」
フラウ・ハーゲンが戸惑いながらも廊下を走っていく。
「……ミスター・ゴードン、今のうちに部屋を調べますわよ?」
エレンは小声で囁くと、棒立ちになったゴードンを押しやって203号室に入った。
「ドアを閉めてください。念のためあなたが前に立って、フラウ・ハーゲンがお戻りになったらすぐに知らせてください」
「え、ええ」と、ゴードンが戸惑いぎみに訊ねる。「さっきの火というのは?」
「わたくしの小細工ですわ。調査料には「火蜥蜴使用料」が半時間分含まれますのでご了解を。話はあとです。急がなければ」
エレンは焦りながら、狭い部屋全体を一個の塊とみなし、足を通じて部屋全体に光の形で自らの魔力を充たしていった。
魔術に必要なのはイマジネーションだ。
純粋の焔の性たる火蜥蜴の伴侶としては口惜しいながら、部屋に足元から水を満たすイメージで魔力を表出させる。
すると、エレンの足元を中心にして、彼女の魔力の特徴である淡金色の微光が渦を巻くように広がって、床一面を覆い尽くし、少しずつ上部へと上がっていった。
「ははあ――」
ゴードンが感心したようなため息をつく。「美しいものですねえ」
エレンは内心で苦笑した。
顧客にはやはり「光る」という要素が喜ばれるらしい。
「今は何をなさっているので?」
「この部屋に何か魔術的な品が残されていないかの確認を。他者がすでに魔力を注いでいる品に別人の魔力を重ねますと、阻害反応で後出の魔力が跳ね返されるのです――……」
エレンがそこまで説明したときだった。
白木のベッドと薄いマットレスの隙間のあたりから暗赤色の光がカッと放たれたかと思うと、エレンの魔力である淡金色の光が押し出されるように溢れだした。
「……今のが阻害反応ですか?」
「ええ。そのマットレスの下のようですわね」
「持ち上げるならお手伝いしますよ?」
「いえ結構です。そのままドアを護っていらして」
不服顔のゴードンを尻目に、粗末なベッドに歩み寄ってわらを詰めたごく薄いマットレスを持ち上げる。
すると、隙間に埃とわら屑の溜まった床板の上に、象牙色の羊皮紙が一枚広げられていた。
「――〈分離〉羊皮紙のようですわ」
「〈分離〉羊皮紙?」
「ええ。―-大抵の魔術師が使える基礎的な技で、一枚の羊皮紙に魔力を注いで二枚に分離させ、一方に字を書くともう一方にも同じ字が浮かぶようにした通信用の魔具です」
「じゃ、ミス・エイヴリーはだれか魔術師と連絡を取り合っていたということですか?」
「その可能性が高い――ようですわね」
答えながらエレンは戸惑っていた。
互いの魔力の特色を光の色や音や匂いで判別し合っているためか、魔術師たちは平均よりはるかに鋭敏な五感の記憶を備えている。
その能力はある程度は先天的なものだが、一度目にした他人の魔力は決して忘れてはならない――と、修行の最初に誰もが師匠から叩きこまれるため、後天的な訓練によるところも大きい。
その鋭敏な〈魔術師の記憶〉が、今しがた目にした暗赤色の光の持ち主を覚えていた。
――でもまさか、そんなはずはないわ。だってあの男は……
「……ミス・ディグビー? どうなさいました?」
ゴードンが心配そうに訊ねてくる。
エレンははっとわれに返った。「い、いえ。なんでもありませんわ。とりあえずこの羊皮紙はわたくしがお預かりして、製作者が誰だか調べてみますわね」
わざと気軽な口調を拵えて応えながら、エレンは内心で恐怖に駆られていた。
――まさかそんなはずはないわ。あの男はもう死んでいるはずだもの。