第二章 フラウ・ハーゲンの下宿屋 3
人気のない中庭に入ったところで、エレンは目晦ましの魔術を解いた。
途端、ゴードンがぎょっとしたように目を見開く。
「ミスター・ゴードン、どうなさいました?」
「あ、いや」と、ゴードンは照れくさそうに応じた。「何でもありません。そちらのお姿にするのですか?」
「これが本来の姿ですもの。―-下宿屋や旅籠の経営者は目晦ましの魔術の存在を知っている可能性が高いですからね。匂いで露見するかもしれません」
「なるほど。――魔術を使っているときというのは、必ず何か匂いがするものなのですか?」
「匂いとは限りません。光であったり音であったり――いずれにしても、何かしらの表出は必ず伴います」
魔力の基礎について簡潔に説明しながら中庭をよぎり、低い石段を登って、玄関扉の右手に釣り下がった蛇の抜け殻みたいな薄汚れた呼び鈴の紐を引く。
すると、ややあってドアが内側から開いて、午後らしい黒いドレスに白いエプロンを重ねた、意外なほどこざっぱりした身なりの若いメイドが現れた。茶色い巻き毛で色白のなかなか可愛い娘だ。
「やあスージー」と、ゴードンが親しげに声をかける。「女将はいるかい?」
「ただいま呼んでまいります。中でお待ちください」
メイドはぎこちない丁重さで答えて、エレンとゴードンを屋内へ導き入れた。
四ヤード四方ほどのごく狭い玄関ホールには薄手の花柄の絨毯が敷かれて、正面の階段の左手に、派手な金鍍金の額縁に収まる肖像画が架かっていた。
目が覚めるほど青いラピスラズリ色のドレス姿の若い貴婦人と金髪の貴公子の肖像だ。
額の下部の白いプレートに「キムリー公夫妻の肖像」と書かれている。
「あら、これ摂政公ご夫妻のお若いころの肖像なのね?」
エレンは思わず声に出していた。
キムリー公――プリンス・オヴ・キムリーは、アルビオン&カレドニア連合王国の王位継承者が即位前に名乗る爵位と決まっているため、「王太子」と同義の称号である。
今の連合王国の王太子であるマクシミリアン王子は、持病のためにしばしば人事不省に陥る父王ジョゼフ三世に代わって議会の開催や国務卿の任命といった儀礼行為を行うために摂政に任じられているため、この頃では「摂政公」と呼ばれることが多い。
そろそろ四十にならんとするこの摂政王太子は、若いころから放埓で知られ、オータムフェアの摂政宮殿に多数の愛人を住まわせているだとか、変装して密かに賭場に通っているだとか、とかく悪い評判に事欠かない人物だが――
「こちらの女将は摂政公の崇拝者なのかしら?」
エレンがゴードンにそう話しかけたとき、
「否。わたくしはプリンセス・オヴ・キムリーの信奉者でございます。同国人でございますからね」
背の後ろから冷ややかな女性が答えた。
大陸のアルマン訛りだ。
「あら、それは失礼を」
慌てて振り返ると、背後に、声にふさわしい冷厳そうな外見の背の高い女性が立っていた。
飾り気というものの一切ない青鈍色のドレスとほつれ毛一本なく結い上げられたダークブロンドの髪。鷲鼻気味の顔は険しく、ダークブルーの眸は厳しい。その眸がざっとエレンを一瞥してからゴードンへと向けられた。
「ミスター・ゴードン、その娘は何ですか? この邸で新しいメイドを雇うつもりはありませんよ?」
「あ、いやフラウ・ハーゲン」と、ゴードンが慌てて応える。「彼女は私の親戚で部屋を捜しているんだ。空き部屋を見せてもらえないかな? できれば日当たりが良くて、書き物机が備えてある部屋を」
ゴードンがややぎこちなく頼む。
フラウ・ハーゲンは――「フラウ」はアルマン語の女性の敬称だ――その鋭いダークブルーの眸でつくづくとエレンを眺めまわしてから、感情の読めない表情で無造作に頷いた。
「それならちょうどいい部屋があります。ご案内しましょう」
言い置いてつかつかと階段を上り始める。
エレンとゴードンは慌てて後に続いた。