第九章 ひとまずステイルメイト 3
「では、あくまでも私の申し出を拒むというのだな?」
公妃が仮面のような無表情に戻って言った。
静かな低い声の底に怒りが潜んでいる。
エレンはまっすぐに顔をあげたまま答えた。
「ええ。妃殿下がもしわたくしをこのまま去らせてくださるならば、この〈分離〉羊皮紙はのちほどお手元にお返しいたしましょう」
「では、もし私がそなたを去らせぬと言ったならば?」
「そのときには、この品を、死刑囚アルジャナン・ロドニー生存の証拠として公表いたします。今この場でこの品をお取り上げになっても無駄ですわよ? ご覧の通り、半分に裂いた一片を信頼できる人物に預けてあります」
「なかなか用意周到だな! で、そなたはその証拠の品とやらをどこに提出するつもりなのだ? タメシス警視庁か? それとも月室庁か?」
公妃が小ばかにしたように訊ねる。
おそらくそのどちらにも、何らかのやり方で圧力をかけられる自信があるのだろう。
「スタンレーを通じて国王陛下ご自身に直訴するというのは難しいと思うぞ? 大抵の夏がそうであるように、陛下はご不調だ。ごく少数のお気に入りの侍従以外はお傍に寄ることさえできん」
「左様でございますか。それは残念です。それならば――」
わざと数秒考えこむフリをしてから答える。
「予定通り、今週木曜発売の『イラストレイテッド・タメシス・ニュース』で、摂政宮殿がオールドゲート監獄の死刑囚を密かに匿っていたというニュースが報じられるでしょう。非常に分かりやすい状況証拠として、こちらにはロドニーと関わりの深いミス・キャサリン・パーシーがおいでになるようですし」
最後の切り札を叩きつけるように告げるなり、公妃が目を瞠った。
どうやら効果があったようだ。
エレンはほくそ笑んだ。
「――いかかです妃殿下。ここはひとつ勝敗なしの引き分け――チェスでいうところのステイルメイトと致しません? そうすればもう一つの秘密のほうも口外いたしませんわ」
「――もう一つの秘密とは、一体何のことだ?」
公妃が唸るように訊ねてくる。
エレンは眉をあげた。
「わたくしの推測ですけれど、妃殿下は警視庁や王室騎兵隊を私的に動かせるほどの権限はお持ちではないのでしょう?」
「では、今のこのオータムフェアの厳重な警備はどうやって敷かせたと思う? ノースミンスターの教会の特別警備をどうやって命じたと思うのだ?」
「警戒するに足る事件を起こさせることによって。――あくまでも推測ですけれど、オータムフェアの聖ステファヌス教会にはこの摂政宮殿からの、ノースミンスターの聖オーガスタス教会にはノースミンスター宮殿からの、脱出用の地下通路の出入り口があるのでは? その事実は両宮殿の上層部のごく一部と警備を担当する少数の将校だけが知っている――その秘密の出入り口付近での異変ですから、事件のわりに大規模な警戒態勢が敷かれた。そういう流れだったのでは?」
まっすぐに公妃を見据えながら告げると、しばらく沈黙が落ちた。
頭の上で無数の蝋燭の焔の燃える音だけが聞こえる。
――さて、妃殿下はどう出るかしら……?
恐怖と微かな期待の入り混じった心地で待っていると、公妃はおもむろにため息をつき、不機嫌そのものの声で答えた。
「すべて推測にすぎん」
「ええ。すべて推測ですわ。妃殿下のお答えのほどは?」
「――そなたの条件を受け入れよう。しかし、分かっているな? そなたがもし秘密を口外するようなら、私は逆にそなたを――そなたとスチュアード子爵を、王宮の機密漏洩の疑いで王太子殿下に訴えてやる」
「ああ、魔術卿がわたくしに宮殿への秘密の出入り口を教え、わたくしが夜にその付近をウロウロしていたという筋立てですわね?」
「そういうことだ。そなた、あの老人とウェステンアビー・ホールの薔薇園で密会していたのだろう?」
公妃がちょっとばかり勝ち誇ったように言う。
エレンは肩を竦めた。「お言葉ですけれど妃殿下、薔薇園で卿と密会していた魔女はあのホールのマダム・ロジェですわよ?」