第九章 ひとまずステイルメイト 2
「――妃殿下のお志は分かりました」
エレンは慎重に言葉を選びながら口を切った。
「わたくしの旗幟を鮮明にする前に、ひとつお訊きしたいことが」
「なんだ?」と、公妃がほくそ笑む。「スタンレーについて何か気がかりが?」
「……何か色々と誤解があるようですが、スタンレー卿とはあくまでも仕事上のお付き合いですわ」
エレンは憮然と応えてから、やおら白フリルのエプロンのポケットから、筒状に丸めた例の〈分離〉羊皮紙を取り出した。
協力的なルイーズが身体検査のとき見逃してくれた品だ。
「……それは?」
公妃のブラウンの目が抵抗する鼠を注視するフクロウみたいに細められる。
エレンは一瞬の気後れを押し殺してぐっと顔をあげ、羊皮紙に自らの魔力を薫りの形で注ぎながら応えた。
「魔術師の用いる〈分離〉羊皮紙の片割れですわ。この通り、四月にオールドゲート監獄で処刑されたはずのアルジャナン・ロドニーの魔力が籠められています」
エレンがその名を口にしたのとちょうど同時に、羊皮紙から濃い月桂樹めいた芳香が放たれ、ついで、泥炭と薄荷の混じったような鼻にツンと来る異臭が漂い始めた。
「妃殿下にお訊きしたいのはこのロドニーについてです。彼は今すでにファーデンに?」
「ああ」
「あの男は殺人犯です。クルーニー家の息子に魅了魔術をかけるために、罪のないドクター・マイクロフトを焼死させた男です」
「そうだ」
公妃が無表情のまま頷いた。
「そしてルテチアの皇帝僭称者によるファーデン侵攻を食い止められるかもしれない魔術師の一人だ。つまり、戦う意志のある魔術師のな!」
そこで公妃が顔を歪め、堪えかねたように声を荒げた。
「たった一人の田舎の医者の命がそれほど重要か!? わが故国ファーデンの300万の罪なき臣民の命より!? 故国は蹂躙されようとしている! 魔術師たちはなぜ戦わない! なぜだ! なぜ戦わないのだ!?」
「誓いのためですわ。――われら四大元素派に属する魔術師は、師について修行を始めるときにみな同じ誓いを立てます。〈アルクメネスの誓い〉です」
「――〈汝、殺すことなかれ〉か?」
公妃が低く掠れた声で呟く。
エレンは頷いた。
「ええ」
「ならば力ある者たちは戦禍を見過ごしにするのか? 不殺の誓いを護るために、無辜の非力な者たちが殺されていくのをただ坐して見ているつもりなのか?」
「――わたくし個人の見解としましては、輸送や情報の伝達といった後方支援のレベルでは、防御戦にはぜひとも協力したいとは考えています。議会両院での審議を経てしかるべき立法がなされたのちなら、ですけれど」
「立法? フン。ばかばかしい」と、公妃は鼻を鳴らした。「連合王国の議会は審議しかせん。上院の貴族どもも下院の田舎地主どもも、みなちっぽけな己の所領のエールと羊のことしか考えていないではないか! 連中に大義は分からん」
「お言葉ながら殿下」と、エレンは苦笑した。「件のスタンレー子爵などは所領の林檎酒のことなども考えておいでですわ。――妃殿下のお気持ちは察して余りあります。けれど、わたくしは妃殿下のやり方には賛同できません。わたくしにとっては幸いなことに、このアルビオン&カレドニア連合王国は法治国家です。わたくしは法に従います。一人の田舎医者の命を軽んじる独裁は、いずれ300万の罪なき人間の命も軽んじるでしょうから」