第八章 夜の謁見 3
魔術師――という単語を公妃が発した瞬間、左後に立つラヴェンダー色のドレスの侍女の形相が堪えかねたように歪んだ。
胡桃色の巻き毛に縁取られた愛らしい顔に湛えられているのは混じりけなしの憎しみだった。
エレンは確信した。
あの侍女はキャサリン・パーシーだ。
そうなると、オールドゲート監獄で処刑されたはずのアルジャナン・ロドニーを密かに助けて匿っているのは、この宮殿に導かれたとき予想した王太子殿下ではなく、目の前にいるこの妃殿下のほうなのかもしれない。
――何てこと。待ち構えているのが本当に〈女王〉だったなんて。
先んじてエレンが〈女王〉と対峙する――と身構えていたのは、〈女王〉がチェスにおける最強の駒だからだ。
それがまさか、本当に文字通り、王族の貴婦人と向き合うことになろうとは!
なかなか皮肉な偶然ね、とエレンは内心で密かな面白みを感じた。
同時に、今しがたまで感じていた、猛獣の前に引き出された非力な兎みたいな怯えが全身から引いてゆくのが分かった。
「どうした魔術師の娘よ。事前の支度がなければ何もできないのか?」
公妃がブラウンの眸を細めて揶揄うように訊ねてくる。
エレンは傲然と首をあげたまま答えた。
「いいえ妃殿下。今すぐお目にかけましょう。――テーメノス! 焔の照らす領域よわが域となれ!」
頭上の二重の環に並ぶ無数の蝋燭を仰いで命じるなり、焔がみなエレンの魔力の特徴である黄金色に変じ、明るいシャンパンゴールドの光が部屋中に充ち溢れた。
「ほほう――」
公妃がほんの少しだけ感心したような声を漏らす。
エレンはその瞬間に命じた。
「――浮遊せよ地上の焔よ。浮遊してわが身を廻れ」
右腕を伸ばして半円を描くように動かしながら命じると、淡金色の焔が次々と蝋燭の先を離れ、エレンの腕の動きに従って虚空を滑りながら、エレンを中心にして、惑星の運行さながらにゆっくりとめぐり始めた。
めぐる内にしだいに焔が大きさを増し、室内の温度が上がっていった。
「――もうよい。そろそろ戻せ」
公妃がわずかに掠れた声で云う。
どうやら怖くなってきたらしい。
「お言葉のままに」
エレンは内心でほくそ笑むと、ちょうど目の前を廻っていた焔をひとつ、魔力をまとわせた左手で無造作にせき止め、指のあいだに掴むようにしてから、他のすべての焔へと命じた。
「消えよ」
途端、ひとつを残してすべての焔が消え、室内が闇に沈んだ。
光っているのは自らの魔力をまとったエレン自身と、その左手が掴んでいる黄金色の焔だけだ。
「戻りなさい。そしてすべての燈火を灯すように」
甘やかすような口調で囁いて焔を放してやる。
黄金色の焔は暗がりを浮遊しながら上昇し、二重の環に立てられた無数の蝋燭すべてに点々と燈火を灯していった。
「――ご苦労様」
すべての灯かりが戻ったところでエレンが囁くなり、シャンパンゴールドの微光が消え、暖かみのある橙色のどことなく濁った火明かりが再び室内を照らし始めた。
「いかかですか妃殿下。御満足いただけましたか?」
「うむ。――話に訊いた通り、そなたは焔を操るのだな?」
「ええ」
「気に入った。エレン・ディグビー、そなた、私に仕えよ。望むものは何でもやろう。レディの称号でも」
公妃は単刀直入に言い、不意に唇を歪ませてにやりと笑った。
「知っての通り、私の夫はこの宮殿に多くの〈お気に入り〉を抱えていてな。生まれもつかぬ女どもをレディと呼ばせるために方法はいくつかある。ひとつには、女の父か兄に適当な爵位をくれてやることだ。セルカークのディグビー家というのはそう悪い家系でもないのだろう? ならば話は早い。そなたの父親にこの宮殿の侍従長の地位でもやろう。準男爵になら簡単に叙せる。それから、もうひとつの方法は、そなたを適当な爵位貴族と娶わせるというやり方もある。今ならば、そうだな――」
と、公妃が言葉を切り、なんともいえず愉快そうな嗤いを浮かべて見あげてきた。
「スタンレー子爵などどうだ? そなたとは懇意にしていると聞くが」