第八章 夜の謁見 1
目隠しをされたまま地下道を――おそらくは地下道を――進むうちに、じきに先導者が足を止め、右手をグイッと乱暴に引っ張った。
「来い。こちらだ」
右手に折れてしばらく直進したところで、今度は登り階段が始まった。
登り切るとすぐに、背後で何かが回転するような音が聞こえる。
たぶん隠し扉でもあるのだろう。
まずもっておそらくこの場所は摂政宮殿の内部のはずだ。
カシャ、とごく微かな音を立てて扉めいた何かが閉まる。
「坐れ。しばらくここで待て」
大尉が乱暴に肩を押すようにしてエレンを何かに座らせた。
意外にも柔らかなクッション張りの椅子だ。
坐ると、頭の上のあたりでいくつかの蝋燭が燃えているのが分かった。
天井からつるした環に灯かりが灯してあるようだ。
エレンは安心した。
狭い室内に灯された燈はその気になれば簡単に操れる。
今この瞬間、すべての火に命じて捕縛者を消し炭にすることもできるだろう。
--そしてわたくしは地下道から逃げ――……ああ駄目だわ、オータムフェア地区には夜警の巡査がごろごろしている。
そこまで考えたところで、エレンは今しがたの自分自身の発想にゾッとした。
――何を考えているのエレン・ディグビー。魔術師の誓いを忘れたの? いくらあの忌々しい大尉が相手だからって、魔力を用いて人を殺すことは絶対にあってはならない。わたくしは力ある者なのだから、相応に自制する義務があるのよ――……
でも今のこの状況は?
本当に自分は力ある者だと言い切れるのだろうか?
うっかりすると心の底から怒りがこみ上げてきそうになる。
幼いころからしばしば感じることのあったあの破壊的な怒り――自らを戒め支配する相手に対する燃え盛る焔のような憤怒だ。
――駄目よ、落ち着いてエレン・ディグビー。わたくしは翼ある焔の伴侶、その気になればタメシス全域を燃やし尽くせるあの輝かしい火蜥蜴の伴侶なのだから。憤怒に捕らわれてはいけない。自制しなければ。
膝の上で両手を拳に握って必死で自分にそう言い聞かせていたとき、前方で扉の開く音がして、カツカツと硬い足音が近づいてきた。
軽さからして女性だ。
チュベローズの香水の匂いがする。
――魔力の表出……ではなさそうね……
耳と鼻に神経を集中させて、ただでさえ鋭い感覚を研ぎ澄ませていると、
「大尉、あなたご正気ですか?」
不機嫌そうなソプラノの声が頭上から響いた。
「この女を本気で御前に連れて行けと?」
「私はそう命令されている」
「あなたがたの警備場所から娼婦を拾って来いと?」
「違う。我々が今夜命じられた警備場所に現れた不審者を必ず御前にと、だ。すまないが今すぐこの娘の身体検査をお願いしたい。先の尖ったピンや櫛のたぐいもすべて外させてくれ。―-見ろ。これが命令書だ」
しばらくの沈黙のあとで、不機嫌そうなソプラノの主がフンと鼻を鳴らした。
「なるほど本当のようですわね。―-引き受けましょう。ついでにその悍ましい服は着替えさせましょう。ローラ、デイジー、メイドのお仕着せをひと揃えと水とリネンを持ってきなさい! 殿方たちは外に出ること。――ああ、この目隠しはもう外しても?」
「あ、ああ」
矢継ぎ早に質問された大尉がタジタジと答える。
途端、エレンの鼻先にチュベローズの甘い匂いが近づいたかと思うと、汗ばんだ黒天鵞絨の目隠しが一瞬で外された。
途端に眩しさが視界を焼く。
思った通り、頭上に環状の簡素なシャンデリアが下がっている。
鏡板張りのこざっぱりとしたごく狭い室内だ。
明かりの下に、襟刳りの広い深緑のドレス姿のすらっと背の高いブロンドの美人が、眉間に深い縦皴を刻んで腕を組んで仁王立ちしている。
見るからに理知的で容赦のなさそうな貌だ。
巻き毛のなかに隠した〈分離〉羊皮紙を隠し通すことは不可能だろう。
大尉と部下はもう外に出ている。
そして、この女官と大尉は、それぞれ別の命令系統で動いているようだ。
そこまで考えたところでエレンは腹を決めた。
ここははったりで乗り切るしかない。
「――あなた、もう長いこと摂政宮殿に仕えていらっしゃるの?」
普段通りの御令嬢口調で話しかけるなり、ブロンド美人がピクリと眉をあげるのが分かった。
どうやら自分と同じ階級の人間だと認識したらしい。
厳格な階級社会のアルビオン&カレドニア連合王国において、生まれ育ちは外見にも言葉遣いにも反映される。
厚化粧を施して派手な襤褸に身を包んでいても、エレンの若い駿馬のようなすらりとした骨格や、ミルクのように滑らかな膚や、素のままのときの言葉遣いや立ち振る舞いは、だれがどう見てもアッパーミドルのものだ。
相手が意外そうな表情を浮かべたタイミングで、エレンは古ぼけた銀ビーズのポシェットから、諮問魔術師の身分の証である銀無垢の指輪を取り出して示した。
「ご覧になって。――わたくしはエレン・ディグビー。タメシス警視庁任命の諮問魔術師です」
そう告げた途端、相手の金属的なブルーの眸が大きく見開かれるのが分かった。
エレンはほっとした。
敵意ではないし怯えでもない。
純粋の愕きの表情だ。
エレンはここぞとばかりに畳みかけた。
「この頃オータムフェア地区を警視庁が厳重に警備しているのは御存じ?」
「え、ええ勿論」
「わたくしもその件で動いておりますの。そしてね――」と、巻き毛の束の芯から羊皮紙の筒を抜き出しながら続ける。「この密書を内密に届けに来たのです。――誰が敵で誰が味方か、正直全く分からない状態ですの。もしよろしければ、あなた協力してくださる?」
下から見上げるようにして囁く。
一瞬の沈黙のあとで、ブロンド美人はごくりと喉を鳴らして頷いた。
「任せなさいエレン・ディグビー。あなたの活躍はいつも新聞で読んでいるわ」