第七章 最強の駒 1
「警備を命じられたからだ」
灰色の眸の軍人が淡々とした口調で応え、部下と思しき連れの一方を見やって、これも平坦に命じた。
「鍵を確かめろ」
「はい大尉」
カンテラを手にした若そうな部下が、頷くなり小走りに境内をよぎって外壁の扉へと向かう。そしてすぐさま戻ってきた。
「こちらを」
部下が大尉に南京錠の残骸を手渡す。
焔の使役者たるセルカークの魔女の存在証明のつもりでエレンが敢えて残しておいたものだ。
大尉は錠を手にとるなり、灰色の眸をすっと細めて捩じ切られた部分に骨ばった指を這わせた。
「女、お前がやったのか?」
「ええ」
「どうやった?」
「見ての通り、捩じ切ったのですわ」
エレンは余裕のありそうな表情を取り繕って応えた。そうしながらも、心の中で忙しなく状況判断に励んでいる。
――この軍人たちがもしも正規の命令系統によってこの場所を見張れと命じられたのだとしたら、黒幕はやはり陸軍卿ハリントン子爵――……ああでも、オータムフェア地区を警備しているのは警視庁だった――背後にいる〈敵〉は誰なの? どれだけの組織を従わせることができるの――……
思いを巡らせるほどに悪い想像が膨らみ、見えない〈敵〉の力が圧倒的に大きく感じられてくる。
灰色の大尉が冷ややかな眸でじっとこちらを見ていた。
実験動物を観察するような目つきだ。
――怯むものですか。プレイヤーが誰であれ、この軍人はチェスならば〈歩〉よ。盤上全体の配置など知らずに使われているだけの駒に過ぎない。
――しっかりしなさいエレン・ディグビー。怯えるのは敵の〈女王〉に対峙したときでいい。
エレンはぐっと頭を持ち上げると、できるだけ傲慢そうな声音で告げた。
「器物破損と不法侵入の罪状でしたら、謹んで受け入れますわよ? ただ、近衛兵たる王室騎兵隊に、王宮の敷地外での軽犯罪者の逮捕権はないはず。わたくしを捕縛するなら、どうぞ巡査をお呼びになって?」
「残念ながらそうはいかない。お前を連れてゆく先は別にある。ノートン、テイラー通りに出て馬車を呼んで来い。マクファーソン、お前はここから戻れ」
「はい大尉」
「承りました」
部下二名がきびきびと答えて指示に従う。
カンテラを持った一名が先んじて外へ出てしまうと、境内は一気に暗くなった。左手から射す月明かりの下で、ところどころはがれた石畳が暗い銀色に煌めいている。
「来い女。目立たないように私と腕を組め」
大尉が平坦な口調で言い、エレンの右腕を乱暴につかんで歩きだした。
谷底のような路地を抜け、月明かりに照らされた坂路を右手に折れれば、テイラー通りはすぐ先である。
坂路の一番上で、タメシス市域には珍しい生身の馬に引かせた黒い箱馬車が待機していた。
「乗れ」
大尉が乱暴に促す。
ステップを踏んで車内に入ると中は真っ暗だった。
窓にみな黒天鵞絨の覆いがかかっている。
エレンが手さぐりで硬い木の座席に腰をかけたとたん、外からガシャンと扉が閉まり、鍵のかかる音が聞こえた。
「まるで護送馬車ね!」
思わず声をあげてから気づく。
たぶん、これはまさしく囚人の護送馬車だ。
――しっかりしなさいエレン・ディグビー。これからが正念場よ。
そのうちに馬車が走り始めた。
エレンは目を閉じて、車がどのように進んでいくのか経路を覚えることにした。
――まず右折――テイラー通りを南へ進んでいる――……ここで左折――車体の揺れが滑らかになった――石畳に轍の深く刻まれた大通りに出たんだわ――たぶんブリッジレーン通り――そのまままっすぐ進んでゆく――……東だわ。行き先は市内の北東――……
一般よりも鋭敏な〈魔術師の知覚〉を総動員して経路の把握に努めながら、エレンはふとさきほどの教会での一幕を思い出した。
あの教会の扉は外から閉められていた。
王室騎兵隊の三名は、外から施錠されているはずの教会の内部にいた。
鍵をかけたのは、おそらくは巡回礼拝に来ていたノースミンスター寺院の助祭だろう。
その人物は、あの小さな礼拝堂の内部に三人の軍人が潜んでいることに気付かずに外から鍵をかけたのだろうか?
――それとも、まさかノースミンスター寺院そのものが待ち伏せに協力していたのかしら……?
考えるなり背筋がゾクリとした。
王室騎兵隊。
ノースミンスター寺院。
そして、正直殆ど身内のように思っていたはずのタメシス警視庁。
〈敵〉はどこに潜んでいるのだろう?
一体どれだけの組織を駒として用いることができるのだろう?
考えるうちに、以前ジゼルに言われた忠告が思い浮かんできた。
――焔の性の魔術師は戦場ではもっとも重宝されるはず……。ジゼルはそう言っていたわ。大陸では〈皇帝僭称者〉コルレオンが魔術師を動員して戦場へ送っていると聞く。焔の使役者は戦いの場では最強の魔術師の一人となるでしょう。うぬぼれではなく、わたくしを駒として従えたい人間は数多くいるはず――……