第六章 深夜の捕縛劇 3
念のため、女将に「秘密厳守で」と釘を刺してから、再度の激励に送られて玄関ホールを出る。
ごく狭い土のままの中庭をよぎり、東側の木戸を開けて路地へと出る。
もうすっかりと陽が落ちていた。
谷底のように狭い路地をまっすぐに進み、ようやくに舗装された坂路に出るなり、上りにあたる左手から乳を流したような月光が射しこんできた。
この坂を月明かりの向きへ登れば、議員の愛人たちが多く住まう〈愛人通り〉と名高いテイラー大通りへと出る。逆の向きへ下ればミンスター大橋の北の埠頭地区だ。
坂路にはまばらな人通りがあった。みな、今のエレンと同様、ボロボロのレースやガラス玉や汚れたサテンの端切れで精いっぱい装った厚化粧の女たちだ。見栄えが良く身なりが多少贅沢なものはテイラー通りのほうへ、みすぼらしいものは背中を丸めて埠頭地区へと下ってゆく。そちらからはルディ川の汚水と饐えた魚のような臭いがした。
これから商売に赴くのだろう女たちは、エレンの姿を見とめると、敵意と讃嘆の入り混じった鋭い一瞥を向けてはきたが、だれも怪しむ様子は見せなかった。エレンは胸がどきどきと高鳴るのを堪え、今しがたすれ違った一番派手な身なりの女の振る舞いを真似して、ツンと顎をそびやかして坂路を登りにかかった。
行き先はテイラー通り――では、勿論ない。
その二本手前の横路を入った先にあるはずの古い教会である。
つま先が尖って踵の細い黒エナメルのハイヒールは大層歩き辛かった。
縁のすり減った石畳の隙間に何度もヒールの先端を突っ込んではつんのめりそうになりながら坂路を登り、人通りが途絶えたタイミングを見計らって目指す横路へと入る。
左右を高い建物に挟まれた横路は本当に谷底のようだった。
右手の煉瓦造りの建物に開いた窓の隙間から幾筋か零れる火明かりだけが足元を明るめている。目的の聖オーガスタス教会は袋小路の突き当りにあった。ボロボロの煉瓦壁の真ん中に馬蹄型の入り口が設けられて、木製の扉がきちんと閉ざされている。
両開きの扉には外から鍵かかかっていた。
一対の取手を大型の南京錠でつないで留めてあるのだ。
エレンはしばらく考えてから、左手の人差し指の先に魔力を表出させた。
薔薇色の爪に彩られた指先がポウっと淡金色の微光を放つ。
エレンは目を閉じて神経を指に集中し、そこにあの鏝の熱さを思い浮かべた。
「……凝りなさい熱よ。わが身の内に燃え盛る焔の精粋よ」
小声で囁くうちに指先に熱が濃縮されてゆく。
淡金色の輝きは今や鋭く眩く、闇を裂く一筋の針のようにまっすぐに上部へと立ち上っていた。
その芯にあるエレンの指が黒い影のように見える。
やがて完全に熱が高まり切るのを待って、エレンはその指先を南京錠の半円の部分に押し当てた。
途端、金属がジュっと熔けて蝋のように軟らかくなる。エレンは、これも魔力をまとわせた右手を使って細い金属棒を捩じ切った。
――気が付くと全身にうっすらと汗をかいていた。
エレンはため息をついて、南京錠の残骸に残った余熱を指先を介して体内に吸収すると、額に浮かんだ汗の粒をショールの端で軽く叩くようにして拭ってから、息を整えておもむろに扉を開いた。
ギイイ――と、軋んだ音を立てて両開きの扉が開く。
その先はごく狭い石畳の境内だった。
正面に尖った三角屋根の礼拝堂がある。
右手の柱の上部から石造りのガーゴイルの像が突き出していた。
翼のある小さな猿のような姿だ。
エレンがわざと高い足音を立ててその柱の根元まで歩み寄ったときだった。
不意に礼拝堂の扉が内側から開いたかと思うと、カツカツと固い三対のブーツの足音が歩み出てきた。
「おい女、お前どうやって入ってきた? 扉には鍵かかかっていたはずだが」
冷ややかな男の声が訪ねてくる。
――やはりね。思った通りだわ。
――この一連の茶番は、そもそもわたくしをこの場に呼び出すためのもの――……何のために、だれが命じているのか――確かめるには自ら罠に飛び込んでみるしかない!
覚悟を決めて目を向ければ、礼拝堂の扉の前に三人の軍人の姿があった。
前身頃に幾本も金の組紐を肋骨のように飾った黒い短い詰襟の上着と黒い長ズボン。
帽子も黒くブーツも黒い。
真ん中の男だけが帽子に真紅の羽飾りを添えている。
背の高い、声にふさわしい怜悧な美貌の男だ。
その男が冷たげな灰色の眸で射すくめるようにエレンを睨んでいた。
「……――わたくしこそお聞きしたいですわね」
エレンは本能的に湧き上がる怯えを堪え、いかにも傲慢に見えるように顎先をあげながら問い返した。
「ノースミンスター宮殿を守備しているはずの王室騎兵隊の将校が、なぜこんな場末の教会に?」