第六章 深夜の捕縛劇 2
――サラを呼べないのは心細いけれど。今日のこの格好じゃ仕方がないわ。
今のエレンの服装は、数か月前、事件がらみの変装のために手に入れた、さほど上質な生地ではないもののデザインは最新流行の、白い地に黒い水玉模様のハイウェストの薄地綿ドレスだ。
腰には派手なピンクのサテンのサッシュを結び、胸元にはテンプル・スクエアの路上の物売りから仕入れた派手な赤色のガラス玉の首飾りをかけている。
その身なりで、きつく巻きすぎて螺子みたいになったストロベリーブロンドの巻き毛を結い上げ、これも路上で仕入れた染みだらけでボロボロの古い蜘蛛の巣みたいなレースのストールを羽織れば、どこから見ても完璧に良家の令嬢にだけは見えない。
幻獣のくせに頭の固い伯父みたいに口煩い火蜥蜴が目にしたら、文字通り口から焔を吹いて憤るだろう。
「……――ミスター・ニーダムも怒りそうね……」
単独行動の心細さのためか思わず声に出してしまう。
今夜のこの作戦を打ち明けたとき、ニーダムは殆ど涙ぐまんばかりの形相でエレンの手を握って反対してきたものだった。
彼にとっては、「エレンがノースミンスター地区の下町を夜に独りで歩く」というだけで、さながら神への冒涜のごとく許しがたい事態であるようだった。
――全く失礼しちゃうわ。仮にサラを呼ばなかったとしても、火種にできる街灯のある都市の夜の道では、わたくしは彼よりはるかに強いのに。
自分自身を鼓舞するためにそんなことを思いながら、これだけは普段と同じ愛用の古い茶の革の小型トランクを開け、ワインレッドの書類挟みから、真ん中で半分に断ち切った例の〈分離〉羊皮紙をとりだす。
紙面には相変わらずブルーブラックの筆跡で物語が記されている。
あの「貴婦人諮問魔術師レディ・ジェイン」の冒険譚だ。
エレンはその羊皮紙の断片を細い筒状に丸めると、巻き毛の髷の真ん中に挿しこんで隠した。
この紙の下半分はニーダムが持っている。――これから対峙する〈敵〉が何であるにせよ、この羊皮紙は重要な証拠物件だ。
これさえ手元にあれば、処刑されたはずのアルジャナン・ロドニーが生きていることだけは証明できる。
トランクに鍵をかけ、部屋にも鍵をかけてから、足音を顰めて暗い廊下を歩く。
よく軋む狭い廊下の両側に並んだ建付けの悪そうなドアの隙間から、幾筋も細い髪の毛のような光の筋が漏れている。微かに聞こえてくるのは女たちの嬌声や顰めた笑い声だ。――ここを定宿にしている女の殆どは娼婦に違いない。
キャサリン・パーシーも――……と、エレンは歩きながら考えた。
破産した準男爵家の令嬢。
殺人犯の娘
ともすれば、彼女もこうした女たちの一人として生きていくほかなかったのかもしれない。
ニーダムが調べたところでは、キャサリンは父親のパーシー準男爵が脅迫者の娼婦を殺した直後、その父親に命じられて、西部にある亡母の生家を訪問していたのだという。彼女はそこで肉親の逮捕を知り、「家に戻る」と言い置いたきり姿を消してしまったらしい。
――そして彼女はタメシスに出てきて、偽名を使って小説を書き始めた。その彼女を、実は生きていたロドニーが探し当てたのかもしれない――……
そしてあの男は彼女を救おうとした――のかもしれない。わたくしが――わたくしたちの捜査が地獄へと突き落とした若い令嬢を――……
沈んだ気持ちで考えこんでいるうちに、長からぬ廊下が終わってごく狭い玄関ホールへと出た。
左手のカウンタにひとつだけランタンが灯って、焔の後ろで赤ら顔の肥った女がつまらなそうに頬杖をつきながら真鍮のジョッキで何かを飲んでいる。
「おやお姫さま、ようやくおでかけかね?」
女がエレンを見あげてニヤッと笑う。
エレンは素のままの口調で応じた。
「女将、少々お願いが」
「なんだい?」
「もしもわたくしが明日の朝までに戻らなかったら、警視庁のクリストファー・ニーダムという警部補に、『彼女の荷物を取りに来るように』とメッセージを伝えてください。前金はこれです。荷物を引き渡してくれたら、彼が同額を支払うはずです」
古びた銀ビーズのポシェットから一シリング銀貨を取り出して渡すと、女将は黒い顔料で縁取られた眸を零れんばかりに見開き、睫を幾度もぱちぱちさせてから、おもむろに銀貨をがりっと噛んでみた。
「足りません?」
軽く顎をあげて上から訊ねてやる。
「いや」
女将は分厚い掌の上に銀貨を乗せてまじまじと眺めながら応じ、不意に大きく目を見開いたかと思うと、カウンタから身を乗り出してヒソヒソ声で訊ねてきた。
「ね、あんた、もしかしてあのミス・ディグビー?」
「……何のことでしょう?」
「誤魔化さなくたっていいよ。私はこれでも新聞を読むんだ。昔はまともな家の生まれで学校へも通っていたんだからね」と、女将が今しがたの無愛想さからは打って変わった人懐っこさで話しかけてくる。「綺麗なストロベリーブロンドだ。話で読んだ通りだ! 今も何かの捜査中かい? 応援しているよ。――あんたさ、あの可哀そうなサウスエンドのメイジーって娘を殺した犯人を、警視庁が調べるのを止めたあとにもずっと自分で捜してやっていたんだろ?」
「ええまあ」
照れくさく頷くと、女将はますます笑みを深め、
「気をつけるんだよ?」
と、掌を握ってきた。
エレンは今しがたまでの凍り付くような孤独が一瞬で溶けるのを感じた。
同時に誇らしさと使命感とが胸に湧き上がってくる。
――そうだわ。ミス・キャサリン・パーシーの運命はたしかにお気の毒だけど、パーシー準男爵とアルジャナン・ロドニーが何をしたのかを忘れちゃいけない。準男爵は脅迫者のメイジーを殺した。ロドニーはマイクロフト医師を殺して入れ替わった。殺人者を野放しにしておいていい理由は何もない。たとえどんな理由であろうと、それを許したらこの世に正義はなくなる。